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第30話

 それまで、何も反応も示さずにいた獅子雄が突然に動き出した。それに気づいた時にはもう遅く、両の手首を獅子雄の右手によっていとも容易く拘束されていた。  状況が飲めずに驚き、身を捩って逃れようとするも獅子雄はそれを許さなかった。拘束を解こうと持てる限りの力で抵抗しても、それが叶わない。圧倒的な力量の差に舌打ちが漏れる。握られた手首に痛みこそないものの、まるでロープで幾重にも縛られ固定されたようにびくともしない。 「はなせ……!」 「解放されたいなら本気で抵抗してみろ」 「だからしてるだろ!」 「………それが本気か?」  細められた獅子雄の瞳とその言葉に、束の間抵抗を忘れ息をのむ。 「いくらでも、どうとでもやりようがあるだろう。もう一度言う、本当に嫌なら本気で抵抗してみろ」  両手首を拘束していた力が、先ほどとは打って変わって弱くなる。少し腕を引けば、獅子雄の指は簡単に解けて、きっとすぐにでもこの男から逃れられる。だけど出来なかった。しなかった。 「………先に触れたのはおまえだ」  そう言われてしまえば、もう何も言い返すことができない。視線を上げればすぐそこまで獅子雄が迫ってきていた。 「………………」  意味のない抵抗なんてそんなもの、する気にもなれない。けれど無意識に足を引き摺りながら後ずさり、五月蠅い心臓の鼓動を気付かれたくなくて必死に顔を背けた。獅子雄は少しずつ俺に体重を預けてくる。その重みを逃したくて更に後ずさり、そしてとうとうベッド脇まで追い詰められ、切れ長の双眸が一気に間近まで迫ってくると俺の身体は後ろへ傾いでそのままベッドへ押し倒された。 「獅子雄………!」  予想だにしない展開に焦りを隠せなかった。獅子雄の表情を窺うこともままならなず、これから待ち受ける現実を想像すら出来ずきつく目を閉じ必死に顔を背けた。その態度に獅子雄は一瞬だけ動きをとめた気がしたけれど、それは余りにも刹那的で、色味を帯びた指先はすぐさま不穏な動きを取り戻した。頬に獅子雄の髪がさらりと触れる感触、それと同時に首筋に湿った生暖かいものが這った。 「………い、やだっ……!」  それが獅子雄の舌だと瞬時に分かった。まるで味を確かめるかのように丹念に行ったり来たりするそれに背筋はぞくりと震えて、熱い吐息がかかる度、言いようのない感覚に涙を浮かべた。 「……っ、獅子雄………!」  俺の呼びかけに応じることなく、行為は次第にエスカレートしていく。生まれて初めての妙な感覚を、俺は唇を噛み締めてやり過ごす他なかった。生暖かい舌は蛇のようにうねうねと首筋を這い上がり、耳朶を食み、わざとらしく音を立てながら執拗に攻めてくる。 「は、ぁっ、お願い……まって、いやだ……!」  獅子雄の柔らかな髪が頬をくすぐり、触れ合った部分が燃えるように熱くて堪らず腰をくねらせた。味わったことのない感覚が電流のようにぞくぞくと背筋を駆け抜け、腹の奥の熱が一気に上がる。そんな俺を知ってか知らずか、獅子雄の唇は鎖骨へと降り、そのくぼみを確かめるように唇を滑らせ、状況に似つかわしくない可愛らしいリップ音が鼓膜に響く。 「ん…っ獅子雄、はあっ……だめ、待って………」  力みっぱなしだったはずの身体はいつの間にか弛んで、脳は惚けて獅子雄の愛撫に翻弄される。両手の拘束はとうの昔に解けていたのに、俺は抵抗することも忘れて、それどころか獅子雄の肩に爪を立てしがみ付いた。すっかり息はあがって艶を増し、全神経が獅子雄の唇ばかりを追っている。その度に自分のものとは思えない鼻にかかったような甘ったるい声が耳を犯した。 「獅子雄……っ」  鎖骨を甘噛みされ、その心地よい痛みに一際強く爪を立てると、獅子雄はぴくりと反応した。それまで何も語らず自分勝手に俺を蹂躙していた唇は突如離され、獅子雄は勢いよく上体を起こした。  密着していた時間は途方もないくらい長く感じて、その間獅子雄がどんな表情をしていたかなんて気にする余裕もなかった。ベッドに沈み込み起き上がることも出来ず、熱を持て余したままの瞳で獅子雄を見上げる。 「え……なに………」  見たことのない、獅子雄の表情。  眉間に皺を寄せどこか余裕のないような、今まで見たことのない険しいけれど妙に可愛く見える、何とも形容しがたい表情をして、それがなんだか可笑しかった。腕を組み、それをほどき、また組み直し、最後は俺から顔を背けて片手で口元を押さえ溜息をついた。状況を飲み込めないまま、けれど妙に微笑ましい心持ちで獅子雄を観察する。伸びた髪の隙間から、熟れたトマトみたいに赤くなっている耳が覗いていた。 「え………」  赤面しているであろう獅子雄を見るにつけ、先ほどまでの異常と言っても過言ではない状況を思い出し、一拍遅れて自らの顔も熱くなる。このままベッドの上を悶絶しながらのたうち回りたい気分が込み上げる。恐らく、獅子雄もそうなのだろう。きっと獅子雄も照れている、俺と同じくらい、もしかしたらそれ以上に。  どうしてこんなことになったのだろうと混乱する脳を慌ただしく回転させる。原因はきっと俺にあるだろう、いやしかし、でもその前から獅子雄だって、ああもう駄目だ、考えれば考えるほど混乱は深くなる。ふと獅子雄に目をやると、顔を背けていたはずの獅子雄がこちらに向き直っていた。 「反省はしたのか」 「へ?」  再び大混乱に陥りそうな俺に向かって、獅子雄はそんなことを言った。 「は、反省……?」  誰が、何を。  惚けきった脳みそを慌てて復活させて、必死に話の流れを読む。どうして、何があってこうなったのか。そうだ、思い出した。俺が携帯も持たず無断でいなくなったこと、何故行きつく先が今のこの状況なのかは理解できないけれど、きっと事の始まりはそこからだ。とにかく心配させてしまったこと。 「ええと、うん……ごめん……」  とりあえず謝ってみるも、今になってはその必要があるのかすら分からない。獅子雄は一体何をしようとしたのか。あのとき名を呼んでいなければ、俺たちはどうなっていただろう。何だか居た堪れなくなり、獅子雄の視線から逃れるように俯いた。顔も熱いし、拘束されていた手首が、獅子雄の唇に翻弄された首筋が燃えるように熱い。不意に獅子雄の身じろぐ気配がし、反射的に顔を上げるとそれと同時に再び俺の首筋に唇が押し付けられた。 「し、獅子雄まって、ちょっと、あっ痛……っ!」  首筋に、ちくりと痛みが走る。 「噛んだ!」 「噛むか、馬鹿」 「だって今、痛かった」 「噛んでない」  話すたび吐息が顔に触れるほど近くに、獅子雄がいる。今度はお互い目を逸らさなかった。心臓は相変わらず早鐘を打ち続けているものの、先ほどまでの妙な居心地の悪さはなくなっていた。 「獅子雄……」  小さな声で呼んでみると、その声を吸い込むみたいに唇が重ねられた。柔らかく押し付けられて、離れて、また降ってくる。頬に触れた手に、自らの手を重ねた。 「ん……」  俺の下唇をぺろりと舐め、獅子雄の唇は離れていった。それがなんだか少し寂しくて離すまいと追いかけると、獅子雄はふっと笑って今度は深く唇を重ねた。大きな手が俺の髪をくしゃくしゃに混ぜて、頬を撫でて、暖かい唇が顎をなぞって鎖骨まで下りると、再び小さな痛みが走った。 「………また噛んだ」 「噛んでない」 「じゃあなに?」 「………少し躾けただけだ」 「躾って………」  獅子雄は今度こそ俺から離れて、乱れた着衣を手早く整えた。それに続いて身体を起こし、噛まれた首筋と鎖骨を指先でなぞると、獅子雄はまた小さく笑った。 「なに」 「いや、おまえ分かってるのか?」 「………何を」 「……………」  獅子雄が黙る。顔から笑みこそ消えてはいるが、機嫌は悪くなさそうだ。しかし言葉の真意を問いかけるように視線を寄越すと、獅子雄は首を横に振った。 「色んなことを」  たった一言、それだけを告げると獅子雄は床に投げ出されていた鞄を拾い、振り返ることなくひらひらと手を振ると、さっさと部屋をあとにした。 (色んなこと……)  それほど抽象的な言い方で、理解できるわけがない。それでも俺は頭を捻って絞って考える。色んなこと、それは例えばキスをした意味だとか、俺が獅子雄に抱く感情だとか、それとも、もっと別の何か。 「あ………」  順を追って考えていく内に、唐突に思い出した。そういえば、警報が、やんでいる。  初めてだ。あんなに五月蝿く脳内に鳴り響いていたのに。サイレン、警報、いやあれはきっと警告。それ以上は俺の精神が崩壊してしまう、そう教えてくれている。それが、いつの間にか消えていた。 (どうして………獅子雄のおかげ、とか)  聞き慣れたエンジン音に窓の外を見やると、獅子雄の車が門をくぐって出かけて行くところだった。また仕事だろうか。もしかしたら仕事の途中にわざわざ戻ってきてくれたのかも知れない。そんな己惚れたことを思った。

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