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第29話

「獅子雄………」  目の前に、獅子雄の顔がある。俺を覗き込んでいる。 (え?)  幻覚かと慌てて目をこすり、再び開ける。 「残念でした」 「あ………」  獅子雄ではない。そこにいたのは、つい先程まで手を引かれて共に走ったあの男だった。どうして寄りによってこの男と獅子雄を間違えてしまったのか。得体の知れない不快感が滲んだけれど、しかし、そんなことより。 「どうやってこの部屋に入った」 「どうやってって、窓が開いていたから」 「音も気配もしなかった」  部屋の外にいる植松やメイドたちの気配や足音は、しっかりと聞こえていたのに。 「まあね、職業病」 「なに?」  以前、誰かも同じようなことを言っていたけれど、それが誰だったか思い出せない。 「気にしないで。君が無事に戻れたか少し心配だったんだ。何事もなかったようで安心した」 「………あんた、誰」 「ああ、そうだ、自己紹介がまだだったね。僕は亜鷺(あさぎ)、さっきも言ったけれど、僕も備前の人間だから怪しい者じゃないよ」  それにしたって充分怪しい、そう言いたいところだったがどうにか堪えた。 「あんたもこの屋敷に住んでるの?」 「まあそうだね。少し違うかも知れないけれど、敷地内と言ってしまえばそうかな」 「なんだよ、はっきりしないなんてやっぱり怪しい」 「いや、でも一応出入りは許されてるんだよ」 「はあ? じゃあ何なんだよ、はっきり」  言えよ、そう続けようとした俺を、亜鷺が制する。 「しー」  右手で俺の口を塞ぎ、左手の人差し指を自身の口元で立てる。そのジェスチャーに、俺は考える間もなく咄嗟に口をつぐんだ。一体何だと言うのか、亜鷺は先ほどまでの戯れのような言動とは裏腹に、眉根を寄せて緊張感のある雰囲気を漂わせる。数秒そうして、亜鷺は静かに手を離した。 「ごめんね椿くん、ゆっくり話をしたいんだけど、どうやらそうもいかないみたい。獅子雄くんが帰ってくる」 「え?」  何を根拠にそう言うのか、しばらく耳を澄ませてみるも、獅子雄の声はおろか車の音も聞こえてこない。 「僕は戻るけど、僕に会ったこと、絶対に誰にも言っては駄目だよ」  亜鷺は足早に、入ってきたであろう窓に向かって大股で歩き出す。 「待てよ、あんたは備前の人間だろう。俺の話だって誰かから聞いてるんだろ? どうして黙っておく必要があるんだ、屋敷の出入りも許されてるのに」  早口でそう捲したてるも、亜鷺は尚も素早く、舞うようにひらりと外へ出た。そして俺を振り返る。 「うん、そう、屋敷の出入りは許されてる。でも許されているのはそれだけで、君に会うことは許されていないんだ」  亜鷺は矢継ぎ早にそう告げるとにこりと笑った。 「タイムアップだ。話せるのはここまで、それじゃあね」 「え? ちょっと」  言うが早いか次の瞬間には亜鷺はふっといなくなった。まるで消えたみたいに。窓に駆け寄り身を乗り出して眺めてみても、その背を追うことはできなかった。つい数秒前までのことが幻のように、そこには静けさのみが鎮座するだけだった。そしてすぐ、獅子雄の乗った黒のベンツが外門をくぐり、いつものように正面玄関の前で停車する。亜鷺の読み通り。 「まじかよ」  本当に亜鷺の言うとおり、獅子雄は帰ってきた。  どうしてそれを知り得たのか、まさか遠くから来る車の音が聞こえたなんてことはあるまい。何百メートルも向こうから来る音が聞こえただなんて、まさか、そんな馬鹿な。あり得るわけがない。  どうにも腑に落ちず、亜鷺が去っていった方向に睨みをきかせる。あの男はどこから来て、どこへ消えたのか。一体、獅子雄とどんな関係があるのか。 「おい」  突然の背後からの声に、思わず肩が跳ねる。考えを巡らせている内に、獅子雄は音もなく部屋に戻っていた。 「あ、お、おかえり……」  振り返るも、顔を見ることが出来ない。視線を俯かせ、獅子雄のアイロンの効いたスラックスとしっかりと磨かれた焦げ茶色の革靴を眺めた。 「…………」 「……………」  長い沈黙。  獅子雄も話さないし、俺も話さない。しかしこうやってふたりきりで向き合うのは(目は合わせていないけれど)随分と久しぶりのように感じた。暫くは俺が故意に避けていたから。 「昼間は何をしていた」  長い沈黙を破り、先に口を開いたのは獅子雄だった。少なからず怒気を孕んだ声に、身体が強張る。 「……だから、庭で迷ったって………電話でも話しただろ」 「どうして携帯を持たない」 「今日は、たまたま忘れただけで………」  本当は謝るべきだと頭では理解している。獅子雄だってきっと心配していた。携帯には六件の着信、確認すればそれは全て獅子雄からだった。素直にごめんと言えたらいいのに、俺の口から溢れでるのは言い訳と憎まれ口ばかりだ。  呆れたような小さなため息が聞こえ、そして獅子雄は何も言わずに踵を返した。はじかれたように顔を上げると、遠ざかって行く獅子雄の広い背中が見えて、何故か無意識にその背を追い、獅子雄がドアノブに手を掛けるのとほぼ同時に、背広の裾を強く掴んだ。 「ま、待って……」  立ち止まりはしたものの、獅子雄は一向にこちらを見ようとはしない。 「獅子雄………」  無意識に呼び止めてしまったけれど、何を言いたくてそうしたのか自分でもさっぱり分からない。背広を掴んだ手がわずかに震えて、それを獅子雄に悟られたくなくて、くしゃくしゃになるまで何度も背広を握り直した。獅子雄が少し身動きする度に煙草と香水の香りが鼻をくすぐって、それが妙に懐かしくて胸が痛くて熱くなる。  馬鹿だ。俺が先に獅子雄を拒んだくせに、身勝手にそうしたのに、目の前に獅子雄がいるだけでこんなにも胸がいっぱいで、勝手に傷ついて、触れたくてどうしようもなく欲しくなる。  もう、分からなくなってしまう。獅子雄を目の前にするといつもそうだ。自分の考えとはまるで違った方向へ、肉体は勝手に動き出す。血が沸騰したみたいに熱くなり、思考には靄がかかったようにぼんやりとして、今まで考えていたこととか、心配していたことや不安なこととか、嬉しいことも悲しいことも寂しいことも、怖かったことだって、全部全部抜け落ちて、空っぽになった身体の中に本能だけがあって、その本能がただひとつ、獅子雄だけを欲していて。 (また警報だ………)  たった十五年の短い人生の中で、三度目の警報が鳴り響く。二度目の警報は記憶に新しい。植物園でのことだ。一度目はいつだっただろう、思い出せない。今よりもっとずっと、幼い頃だったと思う。三度目の警報が、やかましく脳を揺らす。駄目だってせっかく教えてくれているのに、俺は結局いつだってこの警報を無視してしまう。  固く握り込んでいた獅子雄の背広から手を離す。動かずにいた獅子雄が振り返る。久しぶりに顔を見た。相変わらずの無愛想な無表情だ。  目眩がした。  堪らず獅子雄のシャツの襟を握り引き寄せ、その唇にキスをした。抵抗もせずされるがままの獅子雄から伝わる温度が、いやに熱く感じた。唇をあわせたまま、指先で獅子雄の首筋をなぞる。とくとくと規則的に脈打つ鼓動を数える。その手に少しだけ力を込めると、それを色濃く感じることができた。片手から両手に触れる手を増やし、獅子雄の首筋に指先を這わせる。俺の手を押し返すように何度も何度も脈打つ。ああ獅子雄は生きているんだ。身体中が、胸の奥が、熱く柔らかく満たされていく。不安と、安堵の、狭間で。

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