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第28話

(結局、誰だったんだ………)  不審に思いながらも一旦物陰に身を潜め、言われたとおりに息が整うのを待つ。額や首筋に流れる汗を袖口で拭い、落ち着いたところでそろりと顔を出した。どうやらガレージ付近に俺はいるらしい。妙だ、道に迷う前にはガレージの前なんて通らなかった筈なのに。周囲に人の気配はなく、足音を立てないように歩いて正面玄関へ向かう。途中、植松の剪定鋏と脚立が目に入り、そこでなるほど、と合点がいった。どうやら俺は道に迷いながら屋敷の周りを半周し、先ほどの例の男と共にここへ来るまでに更に半周、結局は気付かぬ内に屋敷を綺麗に一周したらしい。ひとり納得しながら、脚立のそばへ立つ。 (植松さんが仕事道具を放っておくなんて、珍しい)  いつも気持ちの良い仕事ぶりで几帳面と言っていい程の人だ、仕事道具を無造作に放りその場を離れるなんて今まで見たことがない。何かあったのだろうか。  剪定鋏を取ろうと腰を屈めようとしたとき、ばたんと大きな音が響いた。音がした方向を反射的に振り返ると、正面玄関の扉が大きく開かれ、そこから勢いよくマリアが飛び出してきた。 「坊っちゃん!」  今までに聞いたことのないマリアの金切り声にも似たその叫びに驚き、思わず肩を揺らす。マリアは陽の光にきらきらと輝くベージュの髪を振り乱しながら俺のもとへ駆け寄り、その小さな両手で俺の手を痛いほど強く握った。 「どこへ行ってらしたんですか!」  泣いているのか怒っているのか、判断がつかない。しかし必死なことだけは、その姿からありありと見て取れた。 「庭を散歩してただけ。どうしてそんなに怒るんだよ」 「どうしてって……だっ、だって………」  マリアはただでさえ大きな瞳を更に見開き、俺の手を包みこむ手により一層力を込めて、ついにはその瞳からぼろぼろと大粒の涙を流し、突然の出来事にぎょっとしてしまった。 「おい、なんで泣く必要があるんだよ」  握り合ったマリアの手が小刻みに震えた。 「お昼の時間になっても戻って来られませんし……っ、携帯電話もお部屋に置きっぱなしで、て、てっきり……このお屋敷を出て行ってしまったのではないかと……っわ、私、し、心配で………!」  マリアは時折、涙で言葉をつかえさせながらそう話す。 「はあ? 家出したと思ったわけ? 大袈裟だよ、たかだか一時間程度じゃんか」 「だって植松さんが、坊っちゃんが思いつめた顔をしていたとおっしゃってましたし………!」 「そんなの理由になんねえよ。なんでそうあんた等は過保護なんだよ、異常だ!」  この屋敷に来た当初からそうだった。使用人たちはまるで俺を身内のように扱う。昔から馴染みのあるような態度で。ずっとおかしいと思っていた。ずっと変だと、異常だと思っていた。けれどそれに、嫌悪感など抱いたことはなかったのに、俺の口から発せられるのは相手を傷つけるものばかり。  握られた手を伝って、マリアの身体が一瞬にして酷く強張ったのがわかった。その反応で自分の失言に気付き、慌ててマリアの顔を窺う。目を丸くし深く傷付いた表情になったのを見て、一気に膨れ上がった罪悪感が勢いよく身体中を駆け巡り奥歯を強く噛み締めた。  どうして俺はいつもこんなに、一言余計なんだ。皆がそうしてくれているように、俺だって皆を大切にしたいと思っているのに。どうしてこの口は、拒絶の言葉しか出てこないんだ。この口はきっと獅子雄を傷つけたし、今まさにマリアまで。 「マリア、」 「だって、それだけじゃありませんもの!」  謝罪の言葉を述べるより先に、マリアは周囲に響き渡る声でそう叫んだ。 「それだけじゃありません。近頃の坊っちゃんは、いつも私たちを遠ざけて」 「! ………」 「学校にご入学された翌日から、ろくに口も聞いて下さらないし、突然よそよそしくなってしまって」  そこまで言うとマリアは唇を引き結び歯を食いしばった。初めて見る表情だ。怒っているのが分かる。 「嫌われたと思うじゃないですか! 出て行かれたと思うじゃないですか!」  そう叫ぶとマリアは俺の手を離し、着ていたエプロンをたくし上げて顔を覆った。肩を小刻みに震わせて、洟をすすり、しゃくり上げて泣いた。  図星だ。マリアの言うことが正しい。あの日、獅子雄と時永に抱いてしまった不信感。それがマリアとエティにも影響した。信頼しかけていた気持ちがほころび、そこからするすると解れていくように疑心暗鬼になっていった。  だから逃げたんだ。使用人たちと世間話をしていても、どこか探るような言葉選びになってしまったし、会話に妙な壁を作って遠ざけた。学校が忙しいふりして、疲れているふりをして、庭仕事だってしなくて良いのに、休日部屋にいられない理由が欲しくてそれを無理にこじつけた。顔をあわせることを辞めてしまったのは俺だ。優しさに縋らずに突き放し、傷つけ裏切っていたのはいつだって俺の方だ。 「………ごめん」  小さな声で謝ると、マリアは静かに首を横に振った。ふと視線を上げれば、玄関先でエティと植松がこちらの様子を窺っていた。きっと俺を探していたのだろう、ふたりとも額に汗が滲んでいる。 「ごめん」  馬鹿馬鹿しい。獅子雄に抱いた不信感のせいで、関係ない人たちをこんなに心配させて、マリアを泣かせまでして。あの日感じた不信感なんて、勘違いだと思うことにした方がきっとずっといい。きっと、ただの勘違い。そうすれば、いつもどおりだ。マリアもエティも笑って過ごせるし、俺だってこんなに思い悩むことはない。この根拠のない不信感に振り回されることなんてない。蛇岐が何者だっていいじゃないか。俺に何の不都合がある。獅子雄が何者だっていい。獅子雄がどんな奴だって、俺が獅子雄を好きなことには変わりない。 「…………………」  はっきりとした輪郭を持ち始めた己の思考に、はっと息を飲む。 「坊っちゃん………?」  目を朱く腫らしたマリアが、心配そうに俺の顔を覗き込む。 「何でもない……」  それは、駄目だ。 「とにかくマリア、本当にごめん」  そんなの駄目だ。 「エティと植松さんも、心配させて悪かった」  こんな気持ちは、駄目だ。こんな気持ち、俺自身が認めて良い筈がない。何てことを想っているんだ、取り消せ、取り消せ取り消せ。こんな想いこそ勘違いだ。 「あの……坊っちゃん、どこか具合でも?」  額に手をかざそうとするマリアを制する。身体中に冷や汗が滲んだ。 「大丈夫、少し疲れただけだから」  駄目なんだ、こんなの。こんな気持ちを抱いていい資格なんて俺にはない。 「俺がここを出て行く訳ないよ………だってもう、帰るところは此処しかないんだ」  俺が獅子雄を好きだなんて、そんなこと。  食事を用意すると言うエティを断り、部屋に戻る。食事なんてできる状態じゃない。心臓は早鐘のように脈打ち、整理しようとすればするほど頭は混乱する。 (忘れろ、忘れろ、忘れろ)  自室の扉を背にして床に張り付き、頭を抱えた。知らないふりをすると決めていたのに。 「くそ………!」  獅子雄への気持ちなんて、もう随分と前から頭の隅で自覚していた。けれどそれを認める訳にはいかないから、どうにか気づかないふりをしてやり込めようと努力していたのに。好きになんてなっちゃいけない。  きつく目を閉じると、植物園での出来事が脳裏を掠めた。獅子雄の匂い、近くに感じる熱い吐息と、指先に残る感触。指先を通して伝わる獅子雄の確かな脈と、一度だけひくついた喉仏。指の間からこぼれる肉、次第に恍惚としていく意識、唇を合わせている間中ずっと、考えていたこと。 (俺は、獅子雄を)  突然、脳内にけたたましい電子音が鳴り響く。それが電話だと気づくまでに、暫くの時間を要した。ゆっくりと身を起こし、ベッドのサイドチェストへ近づく。液晶の覗くと、獅子雄の名前が表示されていた。震えないように深呼吸を繰り返し、通話ボタンをタップする。 「……もしもし」  緊張してか声が上ずり、それを誤魔化したくて胸を拳で二度叩き獅子雄の返事を待った。 『………何処へ行っていた』  いつもと様子の違う獅子雄の声。きっと怒っているんだ。 「屋敷の庭で……道に迷っちゃって………」 『……………』  電話越しに、獅子雄がため息を吐いたのが分かった。 「……………」 『何の為におまえに携帯を持たせたのか考えろ』 「……………」  返事を出来ないでいると、一方的に電話は切られた。電話を耳から離し、暗くなってしまった液晶を見つめた。 (怒ってた………)  獅子雄の声が耳に残って離れない。きゅっと唇を噛む。手のひらに汗が滲んだ。  何をする気も起きずに、携帯を握りしめたままソファに沈み込む。時計は午後二時をさしている。横になり、遠くにある白い天井を見つめ、そして目を閉じた。庭では植松さんが仕事を再開していて、メイドふたりのどちらかが、部屋の前の廊下を行き来する気配がした。周囲の音に耳をそばだて、暫くそうしてからゆっくりと目を開いた。

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