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第27話

「………迷った」  何なんだ、どういうことだよ、ふざけんな。  そう心の中で悪態をついてみても、上空を舞う小鳥の囀り以外に返ってくる声などある訳がない。 「森ん中かよ、ここは………」  「庭」だと思っていたのが大きな間違いだったようだ。植松と別れて彼是三十分はゆうに過ぎただろう。歩けど歩けど庭の芝は綺麗に刈り揃えられて、その完璧な仕事ぶりに感心しながら何も考えずに歩を進めていた。どこか草むしりをしようにも、辺り一面毛足の揃った芝と色とりどりに咲く季節の花をのぞむばかりで、それでも諦めず歩き続ければ、やっと雑草が繁っているところが見つかり、それを見るにつけ阿呆のように飛びつき嬉々として草をむしりながら進んでいたら、いつの間にか迷ってしまった。余りの情けなさにため息も出ない。帰り道を探そうと振り返っても、ただただ広大な土地があるだけだ。この辺にはもう花すら咲いていない。 「そうだ! 携帯」  これで誰かに連絡がとれると尻ポケットにあてた手は、何を掴むこともなく空を彷徨った。 (そうだ……部屋に置いてきたんだ………)  庭仕事の邪魔になるだろうと、ベッド脇のチェストに置いてきたのが記憶に新しい。それもそのはず「庭」と言えば屋敷の敷地内なのだから、余程のことがない限り携帯なんか持ち歩かない。  とりあえず深呼吸をして、呆然と立ち尽くしてみる。しばらくそうしてみたけれど、当たり前に事態は好転するはずもない。闇雲に歩けば何処かに辿り着くだろうが、無計画な行動はあまり利口とは言えない。実際まさに今こんなことになっているのだから。とりあえず、来た道を戻るのが一番の得策だろう。そう、来た道を。 「ええっと………」  北からなのか南からなのか、西か東か。自分がどこから来たのかさっぱり分からない。しかしこのままでは埒もあくまいと、そう決心して踵を返した時だった。 「ここで何してるの?」 「うわっ」  何者かの硬い胸に、思い切り鼻を押しつぶされた。 「あいたた……」  痛む鼻を撫でながら視線を上げれば、見知らぬ男がじっとこちらを見下ろしている。やけに前髪が長く片目は隠れ、逆光もあるせいかその表情はよく読み取れない。その細くて指通りの良さそうな髪が、風に吹かれてさらさらと揺れていた。 「………あんた誰……」  恐る恐る小さな声で尋ねると、男はゆっくりと首を傾げた。 「それは僕の台詞なんだけど」  今度は俺が首を傾げる。男との間に妙な空気が流れた。下手に動けず相手を睨むともなく見つめていると、男は俺を上から下までじっくりと眺め、しばらくしてからぽん、と手を叩く。 「もしかして、君が椿くんかな?」 「なんで俺のこと………」 「僕も備前の人間だからさ、君の話だけは聞いてるよ」  えっ、と素っ頓狂な声が出た。 「俺はあんたのことなんて、聞いたことない」 「うん、まあ、そうだろうね。誰も僕のことは話さないだろうね」  含みのある言い方をして、男は困ったように微笑んだ。それがまた、妙に胸に引っかかった。どういうことだ。どうしてこの男はここにいて、俺のことを誰から知って、どうして誰もこの男のことを俺に話してくれないのか。 「あの」  知らないことは尋ねてしまえと口を開くも、すぐさま男に遮られる。 「どうやってここに来たの?」 「え? あ、庭歩いてたら道に迷って……」  ふうん、と相槌をうつと男は自らの腕に巻いていた時計を確認した。 「あの、あんたは」 「椿くん、携帯は?」 「は? 部屋に置いてきた。つうか俺の話、」 「そう、帰り道を教えてあげるからついて来て」 「だから俺の話も聞けよ!」  そう叫ぶも訴え虚しく、男は俺の手首をつかむと足早に歩き始めた。 「ごめんね、話を聞いてあげたいんだけど時間がないんだ。きっとみんな、君を探してる」 「何それ、どういう………って、あ、わ」  男の歩みについて行けず、足が縺れて前のめりに身体が傾く。崩れ落ちるその寸前に、男は素早く身を返して寸でのところで俺を抱きとめた。 「椿くん、ここで僕に会ったこと、みんなには内緒にしておくんだよ?」  俺を抱きしめたまま、男が耳元で囁く。 「な、んでだよ……っ」  身体を離そうと身体を捩るも、その体型には不釣り合いなほど力が強くて中々腕を振り解けない。 「離せって………!」 「椿くんが約束してくれるまで離さない」 「意味わかんねえから」 「じゃあ、ずっとこのままだね。僕は別に構わないけど」  男はわざと耳元で囁くように喋るから、その妙な雰囲気から逃れたくてもがけばもがくほど、男の腕は更に俺を締め付けた。何をそんなに拘ることがあるのだろう。 「わかったから! 誰にも言わねえよ」  怒鳴るようにそう言うと、今までの拘束が嘘のように男はあっさりと身体を離した。 「なんなんだよ……」  やっとのことで解放され、男の吐息の感触が残る耳をさする。男を睨めば面白そうに肩を揺らし、変な奴に捕まってしまったと己の軽率な行動を心底恨んだ。 「絶対に、誰にも内緒。約束、ね?」 言いながら男は、白い指先で俺の頬を撫でた。 「わかったから、いちいち触るな」 「反応がいいね、獅子雄くんが気に入るのも納得だなあ」  男の口から突然出たその名に身体がぴくりと反応する。 「………獅子雄が……なに?」  恐る恐る問い掛けても、男はその顔に微笑みを貼り付けたままそれから口を開かなかった。そして再び俺の手を取り歩き出す。男にとっては早歩きなのだろうが、俺は小走りになってしまう。何度も足が縺れそうになるたび、男は立ち止まって俺を気遣った。そうして小走りで庭を駆け抜け、息も上がりきったところで次第に歩みは緩やかになり、ついに立ち止まった。 「ここまで来たら、もう分かるね」  男に手を握られながら、俺は上体を前に倒し、ぜえぜえと必死に肩で息をする。どのくらい走ったのか定かでない。とにかく転ばずに着いて行くのでやっとだった。そんな俺に反して男は息ひとつ乱さずケロリとしている。汗をかいている様子もない。 「大丈夫? 少し急ぎすぎたかな。とにかく、息を整えてから静かに部屋に戻るんだ、いいね?」  前傾姿勢のまま顔だけを男に向けて首肯する。 「よし、いいこ。それじゃあ、また」  男は俺の頭を優しくひと撫ですると、すぐさま背を向けて走り出しあっという間に見えなくなってしまった。

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