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第26話『蛇岐と亜鷺』

○ 我妻椿(あがつまつばき)  週末の朝。いつもより遅い朝食を終えると、俺は部屋を出て庭師の植松を手伝っていた。獅子雄と共に椿の花を愛でたあの植物園のじいさんの息子だ。この広大な庭の管理の一切を、この植松ひとりに任されている。黙々と作業をする植松の隣に並んでしゃがみ込み、小さな雑草を根っこから引き抜いたり、植松が伐採した木の枝をその後ろに続いて袋に纏めたり。庭仕事を手伝うのは今日が初めてではない。土に触れるほんの少しのこの時間は、屋敷と学校を往復するだけの毎日の小さな気分転換だ。 「しかし坊っちゃん、よく働きますね。疲れてませんか」  四十半ばの植松の、浅黒く健康的に焼けた肌と汗の粒が光る坊主頭は高校球児さながらだ。大きな口を開けて笑うと、白くて並びの良い歯が覗き、彼の人の良い様相をより一層際立たせた。 「全然疲れない。どうせ暇だし、こうしてる方が楽しい。あ、でももし仕事の邪魔になるようだったら言って」 「邪魔だなんて、そんな」  滅相もない、と植松は続けた。そしてまたふたり黙り込み、ひたすらに地道な作業を続ける。そうしている方が精神的に楽だった。じっとしていれば、たくさんの事ががちゃがちゃと大きな音を立てながら脳内を荒らしていく。その大半は、解決しようのない獅子雄のことばかりだ。  ここ数日、獅子雄との会話はほとんどない。顔を合わせるのも数えるほどで、学校への送迎は時永さんの仕事になりつつあった。いくら自分で言い出したこととは言え、寂しさと物足りなさは瞬く間に心を侵食していく。また獅子雄に触れたいし、触れられたい。そんなことばかりが頭を(よぎ)る。 「よし、少し休憩しましょうか」  植松は屈めていた腰を伸ばすと、泥だらけの軍手をはずして尻ポケットにしまった。俺もそれに倣い、軍手をはずす。汗に湿った両手が外気に触れて、ひんやりとして気持ちいい。額の汗を拭うと、自然と清々しいため息が漏れた。  広い庭を、いくつかのブロックに分けた内のひとつの手入れを終えて、高い木の陰に並んで腰をおろす。植松は、自ら持参したであろう大きな銀の水筒を取り出し、プラスチックのカラーコップに並々とお茶を注いで俺に手渡した。それを受け取り、口をつける。熱く火照った身体の内側から、冷えた液体が血管を通り全身を冷ましていった。半分ほどを一気に飲み干す。横に座る植松を窺うと、微笑みながらこちらをじっと見ていた。 「坊っちゃん、悩み事は解消されましたか?」 「悩み事?」 「いえね、何か思い詰めた表情をしながら作業をされていたので。悩むことの多い年頃ですからね、お友達のことですか」  まさか、悩みの種はあなたの雇い主です、などと言うわけにもいかず答えに困る。植松は、思春期特有の学校や友人関係の有りがちな悩みだとでも勘違いしているのか、心なしかうきうきしたように口元を綻ばせていて、そんな植松に否定の意を述べるのにも気が引けた。 「別に普通だよ。授業にはついていけてるし、蛇岐もいるから」  別にいてくれなくても構うことはないのだけど、それをこの屋敷の人間に言うと、それは危ないだとかいけないだとか、殊更メイドふたりには口酸っぱく注意をされてしまう。ここ最近は朝の車の中で時永にも念を押される始末だ。 「お友達が出来たんですね」 「友達っていうか、蛇岐だよ。久留須蛇岐」  植松は首をかしげる。 (知らないのか………)  想定外だ。てっきりこの屋敷の使用人たちは全員蛇岐の存在を知っているものだと思い込んでいた。獅子雄は勿論のこと、時永もメイドふたりも、当たり前のように蛇岐をいつも話題にあげるからだ。始業式の日なんかは「蛇岐さんはお元気でしたか」とまで訊ねてくるほどに。親しみさえ感じた。 「なんかさ、獅子雄が雇ったらしいんだけど………俺の警護、みたいな」 「警護?」 「うん、そう。大袈裟だよな、学校に通うだけなのにさ」  恐る恐る反応を窺う。植松はううんと唸った。右手で、無精髭の生えた顎をさすっている。 「きっと獅子雄さんは、椿坊っちゃんのことを余程大切にしたいんでしょうね。大袈裟にしてしまうくらい」  予想外の答えに、心臓が一気に縮み上がるように酷く痛んだ。心臓が喉からせり上がるのを堪えるみたいに、唾を飲み込む。頭を振る。 「大切にされてるって、本当にそう思う?」  俺は今どんな表情をしているのだろうか。植松が目を(みは)ったのが分かった。  嵐の過ぎ去った後の海みたいに、一瞬にして心が凪いだ。魂や精神そのものが、すっと引いていくような感覚がした。植松の言葉が脳内に小さく何度も木霊して、やがて消えていく。大切にしてくれていた獅子雄を、拒んだのは俺だ。そうしてしまった己の言動を悔いているのかも分からない。ただただ寂しくて、こんなにもつらい。 「………そういえば最近、獅子雄さんの姿をお見かけしませんね。相変わらずお仕事が忙しいんですか」  植松が何気なく発した「仕事」という単語と「裏の業界」が、即座に脳内でリンクされた。そのことに関しては、あの日から気になり続けているものの、答えを見出せるヒントなどほとんど皆無で、考えるのも飽き飽きし始めたほどだ。大体、裏って何なんだ。万が一、裏稼業だったとして俺に何の不都合があるだろう。こんなにも頭を悩ませる必要など、これっぽちもないのに。 (………そういうことじゃないんだ)  裏稼業であるとか、獅子雄がどんな仕事をしているかなんてそんなものは、恐らく重要ではない。ただ、嫌な気分がするのだ。俺の知らない獅子雄がどこかに存在して、俺の知ってる獅子雄が、俺に秘密を持つことが。だってそうだろう、だって俺は獅子雄が。 「日本には、いらっしゃるんですか?」 「えっ」  弾かれたように顔を上げる。俺は今、何を考えていただろう。忘れてしまえ、忘れてしまった。 「日本にって、え? 獅子雄が?」 「ええ、なんでも最近、海外でぶどう畑を買い取ってワインを作っているんだとか」 「は? 何それ」 「ご存知ないですか? でしたら、旦那様が買い取ったんですかね。備前グループは服飾関係や宿泊、飲食と車のディーラーなんかも、色々と手を出しているみたいですよ」  すごいですよね、と植松は無邪気に笑う。俺はといえば、あんぐりと口を開け驚くほかない。 「なにそれ………そんなに抱えて全部管理できてるの」 「どうですかね。でも獅子雄さんならやってしまいそうだと思えるから、すごいですよね」 「確かにそうだけど………」  たくさんの事業をしているなら、いつも家にいないのも仕方ない。どうしてそんなに手を広げたのは分からないけど、本当に裏の人間ならこんなに大っぴらに、人目に晒される仕事なんて出来る訳がない。悪いことに手を染めずともカネは腐るほどあるだろう。しまった、これはきっと蛇岐に一杯食わされてしまったのかも知れない、そう思った。そう、言い聞かせることにした。  こんなにも俺の心に波紋を呼ぶ話をした張本人の蛇岐はと言うと、校門で俺を待つ間に少しずつに学校に馴染み始めていた。ことに運動部に所属する上級生は熱心なもので、毎朝蛇岐に声をかけているらしい。俺自身、当初は蛇岐に対して警戒心しかなかったものの、見た目ほど中身は凶悪でないし、むしろ何かと取っ付きやすく、部活動の勧誘や学校生活そのものを俺よりも余程楽しんでいるようだった。二十歳には見えない、本当にありふれた高校生にまで見えてくる。人殺しだなんて疑ってしまったのが嘘みたいに無邪気だ。 (だけど少し疲れる。蛇岐のことも、獅子雄のことも)  獅子雄は最近冷たいし。俺のせいではあるのだけど。  何度か無言になる俺をさして気にとめるでもなく、植松はカップを勢いよく傾けると一気に飲み干した。 「じゃあ僕は仕事に戻ります。坊っちゃんは、しばらくゆっくりしていて下さい」  立ち上がり尻を叩くと、植松は木の剪定をするのか大きな脚立を肩に担いで去っていった。その背中をぼんやり見つめる。 (獅子雄、何時に帰るかな)  正直な気持ちを吐露してしまえば、会いたいのだと思う、たぶん。会いたいし会いたくないし、触れたいし拒みたい。 (…………………)  空になったカップを、水筒の入った袋に戻して立ち上がる。じっとしているから余計なことを考えてしまう。作業の続きをしながら庭の散策をしようと決めた。広い敷地には、まだ足を踏み入れたことのないところがいくつもあった。脳に使う体力をなくしてしまえば、きっと楽になる。  ビニール袋と軍手を尻のポケットに捩じ込み、植松の向かった方角へ背を向けて歩き出した。

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