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第25話
○ 我妻椿
目覚めるとすぐ隣で、獅子雄が寝ていた。
この屋敷に来てひと月が経とうとしていた。その間に獅子雄が隣で寝ていたことは、両手で数えるほどしかない。
首をひねり薄いレースカーテンの引かれた窓に目をやると、四角く囲われた空は少しずつ白み始めていた。獅子雄を起こしてしまわないよう、ゆっくりとベッドから抜け出し、足音を立てないよう慎重に歩く。バルコニーへ出ると、湿り気を帯びた風が身体中に纏わりついた。
(寒い………)
秋の近付く早朝は、空気が澄んでひんやりとしている。均一な長さに美しく駆られた芝は朝露に濡れ、宝石を散りばめたようにキラキラと輝いて、太陽が顔を出す直前の空は白く眩しかった。青々とした命の漲る瞬間だ。今の俺には、きっとあまりに、不釣り合いの。
(………戻ろう、気分が悪い)
目も当てられないほどの澄んだ空気に背を向けて、バルコニーを後にする。ベッドへ戻ると、先程はこちらを向いていたはずの獅子雄が今は背を向けて寝ていた。静かに布団をめくり、隣に忍び込む。艶やかな黒髪を凝視する。手を伸ばせば、触れられる距離だ。
右腕だけを出し、その髪に触れる。整髪料のついていないそれは意外にも、女性の髪のように柔らかく滑らかだ。そのまま指を滑らせて、うなじ、男らしく盛り上がった肩甲骨、背筋と、順になぞる。たったそれだけで満足できれば、どれだけ楽だろうか。
全てを手に入れたいと思うし、全てを無かったことにしてこの場から逃げ出したいとも思う。矛盾する感情が、何度も何度も交錯する。目の前にいる獅子雄を、傍にいてくれる獅子雄を、余すところなく、髪の一本一本も、爪の先も、その心臓も血液も皮膚も、声すらも。全てが欲しくて堪らなくなる。それが叶わないのなら、俺の全てが獅子雄に溶けていったら良いのに。
獅子雄の背に擦り寄って、その広い背中に額を押し付け目を閉じた。どうかこんな自分が、獅子雄に知られませんように。そんなことを願った。獅子雄が起きているとも知らずに。
完全に日が昇り二度寝から覚めたとき、獅子雄は既に起きて新聞を読んでいた。朝の挨拶をして、素知らぬ振りで身支度を整える。朝食を食べ終えるとほぼ同時に、時永が部屋にやってきた。
「おはようございます、坊っちゃん。本日は私が学校までお送り致しますので、先に車を回してお待ちしておりますね」
「あ、そう。わかった」
俺が部屋を出る時間になっても、珍しく獅子雄は部屋着のまま、ゆっくりとソファに腰掛けていた。今日は休みだろうか。気にはなったけれど、結局何も聞かずに家を出た。
学校の正門に近付くと、昨日同様やはり蛇岐が立っていて、こちらに気付くと大きな口を横に広げて手を挙げた。でかい図体のくせに大きく手を振るものだから、周囲の生徒はすくみあがっている。可哀想に。蛇岐の目の前で車を降り、時永に礼を言う。時永は律儀に俺と蛇岐へ一礼すると、ゆったりとした動作で車を走らせ去っていった。
「おまえ、手振るのやめろよ」
「ええ、なんでー? 椿姫への友情の表れだろ」
蛇岐は心ない言葉を述べた後、自らの発したそれにけらけらと笑った。何がおかしいと言うのだろう。
「あ、そういえばねえ、椿姫を待ってる間にラグビー部とバスケ部に誘われた。おまえなら強くなれるよ、とか言われちゃって。すげえ面白くって笑っちゃった」
「おまえに話しかけるなんて、命知らずな奴だな」
この体躯に、お世辞にも人当たりが良いとは言えない見てくれは、不良なんて可愛い言葉じゃ収まらない。そんな奴に話しかけ、ましてや部活動の勧誘だなんて、命知らずか自殺志願者か、よほどの馬鹿だ。
「酷いねー、結構言うね、椿姫」
「ていうかおまえ、いつから俺を待ってんの?」
「うん? 一晩中」
「まじかよ!」
意図せず大きな声になってしまい、蛇岐を中心にして遠巻きに見ていた生徒の視線が集中して慌てて口をつぐむ。
「椿ちゃん、ちょっと素直すぎない? 一晩中なわけないでしょ、俺もそんなに暇じゃないし、せいぜい十分二十分」
玄関で靴を履き替えると、蛇岐はまるで親しい友人のように俺の肩を抱き、教室に向かった。三十センチ近い身長差のせいで、引きずられるような形になってしまって気分が良くない。
「………おまえが言うと、冗談に聞こえない」
「はは、俺、冗談ばっかり言ってるつもりなんだけど。ていうか今日はたくさん話してくれるね、仲良くする気になった? ま、してくれなくても纏わりつくけど」
肩を抱く腕に力を込められる。仲良くするなんて、よく言ったものだ。獅子雄にカネで雇われただけのくせに。そんな思いとは裏腹にその場にあった適当な相槌をして、賑わい始める朝の教室に蛇岐と並んで足を踏み入れた。肩を抱かれたまま、親しい友人の振りをして。
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