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第24話

  ○ 備前獅子雄  静まり返った自室の扉が、遠慮がちな音と共に開かれる。  椿は夕食の後、風呂に入ると普段より口数少なくさっさと寝てしまい、午前零時を過ぎた夜更けにこの部屋を訪れるのはただひとり。 「失礼致します、獅子雄様」  時永。  眺めていたパソコンの液晶から視線を上げ、その姿を認める。デスク上に無造作に投げられた煙草を取り上げ、その中のひとつを咥えながら席を立つ。火をつけながらバルコニーへ出ると、時永は音もなく後に続いた。 「坊っちゃんは、我々が想像していたよりも遥かに賢いお方ですね」  湖面を貫く一滴の水のように澄んだ声が、夜の静けさによく響く。還暦を過ぎているはずの時永は、月夜の薄明かりの所為か、紫煙越しに見ているせいなのか、それとも何か面白いものを見つけてしまったせいなのか、実年齢より十も二十も若く見えた。 「………随分と面白がっているな」 「それは、もう。坊っちゃんの勘の鋭さには驚かされます」  喉を鳴らしながら目を細める姿は、椿の前で見せるそれとは大違いだ。 「気付いていると思うか、蛇岐のこと」 「気付いているでしょうね」  人の良さそうな笑みを貼り付けたこの男を、胡散臭いと感じるのはもう何度目だろうか。咥えていた煙草が長く煙を上げた。それを灰皿に押し付ける。  蛇岐を選んだのは、失敗だったかもしれない。今になって少しばかり後悔する。この「業界」に入ってキャリアも長く実績もあり、なるべく椿と年齢の近い男。何度も共に「仕事」をしてきて、カネさえ積めば信頼できる、それが今回蛇岐を雇った何よりの理由だった。しかし少々見誤ったようだ。 「あいつは隠すことを知らないみたいだな」  舌打ちをすると、時永が小さく笑う。 「他人に任せるのが不安なら、すべてをさらけ出してしまえばいいのに」  時永の言葉に、無言で首を横に振る。 「すべてはあなたの一任によって決まりますが、このままではあまり良くないと思いますがね。今に坊っちゃんに足をすくわれてしまいますよ」 「随分と口答えをしてくれるじゃないか」 「あなたに睨まれたところで、痛くも痒くもありません。誰があなたのオムツを替えたと思ってらっしゃるんですか」 「おまえはいつまでそれを言う気だ」 「私か獅子雄様、どちらかが死ぬまでですね」  悪びれる様子を微塵も見せずにそう言い放つ。呆れてものも言えない。 「戻れ、椿が起きる」  しっしっと散らすように手を仰ぐと、時永は胡散臭い笑みを貼り付けたまま短く返事をして夜の闇へと消えていった。それを見送りながら、新しい煙草に火をつける。冷えた首に触れると、昼間の出来事が鮮烈に脳を駆け巡った。  小さく脆い、ガラス細工のようだ。  初めて会った時からそうだ。少し乱暴に扱うだけで、音を立てて散り散りになってしまいそうだ。何度も何度もひび割れて、粉々になって、不器用にそれを繋ぎあわせて強がって、それが新品だと言いたげな。限界など、とうに過ぎてしまっているだろうに。  首を絞める、細い指を思い出す。迷いの見られない、意外にも力強いものだった。あのまま殺されてやれば、あいつはどんな顔をしただろうか。  考えながら、ふと自室に目をやると、ベッドが蠢いているのに気が付いた。意図せず足早になりバルコニーを後にし、出入り口の扉を閉めカーテンを引く。ベッドの脇に立ち様子を伺えば、椿は寝苦しそうにシーツに身体を擦り付けていた。 (うなされているのか)  昼間と同じように、ごめんなさい、ごめんなさいと無意味とも言えよう謝罪を繰り返しながら小さく呻く。額にはじっとりと汗が滲んで、目尻には涙の粒が溜まっていた。 「椿」  固く握り込む拳を取り汗を拭ってやると、椿は薄く目を開けた。潤んだ瞳が空を彷徨い、そして俺を捉えた。 「獅子雄………助けて………」  瞬時、椿は俺の手から逃れ、代わりに俺の頬を冷えた両手で包み引き寄せた。ほんの一瞬、唇同士が触れ合い離れていく。お互いの額を合わせたまま、お願い、助けて、と椿は小さく呟いた。震える身体を抱きしめ、もう一度、唇を落とした。椿は薄く目を開け弱々しく微笑むと、そのまま脱力してベッドへ沈み込んだ。血の気の引いた寝顔を見つめる。  いつもこんな風に素直なら、すぐにでも楽にしてやれるのに。

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