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第23話
「そう言えばさ、蛇岐が言ってたんだけど」
獅子雄とふたり部屋に戻り遅めの昼食を終えると、時永はすかさず俺の前に淹れたての紅茶を差し出した。同じように獅子雄には、湯気の立つカップを。中には真っ黒な液体が揺れている。
「獅子雄は業界の中で大切な役割を担ってるって。フツウに生活してる人には分からない業界って言ってたけど、何なの、それ」
熱い紅茶に息を吹きかけ冷ましながら獅子雄の様子を窺えば、眉を顰めてあからさまに不快な表情をした。一度持ち上げたカップをソーサーに戻すと、獅子雄は組まれた脚の上に肘を立て、深々とため息を吐いた。不機嫌な態度を隠そうともしなければ、質問に答える様子もない獅子雄に焦れて、俺はソファから腰をあげて身を乗り出した。
「それってさ、もしかして」
獅子雄の視線は俺に向かうも、眉間の皺は深く刻まれ表情は険しいままだ。それに怯むことなく、ずっと考えていたひとつの答えを投げ返した。
「もしかして、ヤクザ?」
俗にいう「一般的な生活」をしてる人には分からない。それは裏の業界と称しても差し障りないだろう。会社をいくつも持って、黒塗りの高級車を愛車に持つ若い金持ち、自身の知る中ではヤクザ以外に考えられない。若頭とか言う、そういう立ち位置。ヤクザの世界なんかはよく知らないけれど、それは真実に最も近い気がした。
そうだろう、そうだろうと更に獅子雄に詰め寄れば、背後に静かに佇んでいた時永が突然大きな笑い声をあげた。
「なに、急に」
常に冷静沈着、感情の起伏などそう見られない時永が、腹を抱えて笑っている。芯の通った背筋を前に折り、肩を震わせるその様子を、俺は口を開けて見守るほかなかった。
「いえ、申し訳ありません。まさか獅子雄様をそんな風に思っていたなんて、ふふ、ああ、余りにも似合いすぎていて…………本当にすみません」
時永は尚も、辛抱たまらんといった様子で笑い続ける。獅子雄は眉間の皺をさらに深くしたけれど、そんなのお構いなしに、目に涙まで溜めていた。俺の頭には、疑問符がいくつも浮かぶばかりだ。
「ああ、すみません。久しぶりに笑わせて貰いました、ふふ、本当におかしい。ですが坊っちゃん、残念ながら違いますよ」
どうにか落ち着いたらしい時永が、いつまでも黙りこくったままの獅子雄の代わりに答えてくれる。目尻に溜まった涙を、萎れた小枝のような指で拭っていた。
「………そうなんだ、じゃあ何なの」
「さあ、何でしょう。他の答えを考えてみて下さい。次のお答えを楽しみにしています」
何がそんなに面白いのか、時永は未だに肩を揺らし、獅子雄は呆れたように溜息をついた。しかしこちらとしても、絶対の自信があっただけにどうにも腑に落ちない。
(でも………)
裏の業界に関わってることについては、否定をしなかった。
「………なあ、蛇岐ってさ、あいつなんかおかしいよな」
獅子雄に向かって乗り出していた身体を再びソファに沈める。おかしいとは、と時永が聞き返した。
「ううん、何て言うんだろう、なんか変。ちょっとぶっ飛んでる感じ」
歯切れの悪い俺の意見に、意外にも獅子雄は興味深そうに耳を傾けているようだった。目が合うと、言葉の先を促すように目を細められた。
「妙な言い方っていうか、失礼な言い方すると」
そこで言葉を区切る。口に出していいものか迷ったけれど、ここで口をつぐむときっと余計に詮索されるだろう。
「なんか、悪いこと、してそう………」
咄嗟に言葉を濁す。大っぴらに言葉にしてしまうのは、やはり躊躇われた。ちらりと獅子雄を盗み見ると、何か思案するように視線をおとし、難しい顔をしていた。それが更に不安を煽る。
「………それはあいつの見た目の話をしてるのか」
獅子雄は長い脚を組み替えてその上に頬杖をつき、こちらの返事を静かに待つ。世間話にしてはやけに重たい雰囲気だ。
「……まあ、それも多少関係ある、かも。だって、あんなナリだし」
「おまえに危害を与えるような奴じゃない」
安心しろ、と宥められるが、そういうことを言っているのではない。奴の見てくれがどうだとか、俺に何か危害を加えられるだとか、上っ面の話をしているのではない。身体の内側から霧に侵されてしまったように、形容しがたい疑念が胸に引っかかる。
蛇岐は、ぶっ飛んでいる。それが一番しっくりと納まる表現だ。
あいつはおかしくて、普通じゃない。それを隠そうともしない。自分が「普通」とかけ離れていることに、気が付いていないような、或いはそれを知っていて意図的にそうしているのか。自分の在り方について疑問など抱いたことのないような。
蛇岐は、何かぶっ飛んだことをしている。それは、きっと悪いことだ。この世で一番悪どいとされること。絶対に許されるはずのないこと、例えば――
「椿」
不意に呼ばれ、反射的に顔を上げる。片手にカップを持ったまま動かない俺を、どうやら不審に思ったようだ。
「まだ、何か気になることがあるのか」
眼差しは厳しくはないものの、俺に口を割れと言いたげな妙な強制力を孕んでいた。傍でティーセットを触っていた時永の手が、いつの間にか止まっている。
妙な空気だ。このふたりは、俺を探っている。何故だ。知られたくない何かがあるから。蛇岐と深く関係する何か。俺は今まさに、それに触れようとしている。
沈黙を読みながら、気配だけでふたりを観察する。獅子雄の視線は、依然俺にのみ与えられている。頭の中で慎重に、けれど不自然な長い沈黙にならないよう言葉を探したけど、納得のいく返事を見出せないままタイムアップだ。
「……今まで関わったことないタイプの奴だったから、どんな奴か気になっただけ」
そう告げて、冷めきった紅茶を口に含む。それを皮切りに時永は再びティーセットを構い始め、獅子雄は俺から視線を外した。
「仲良くしろとは言わないが、なるべく蛇岐から離れるな」
威圧感を持たせ、こちらに選択権を与えない獅子雄の口ぶりに、静かに頷くほかなかった。
お茶のおかわりはいかがですか、と時永が言う。ありがとう、とそれを快く受け入れる、ふりをする。獅子雄はテーブルの上に広げられていた新聞に目を落とす。それぞれが「いつもどおり」を演じ始める。ふたりは何かを隠して。それも、大切な何かを。
――絶対に言ってやるもんか。
ふたりが真意を隠す限り、こちらも正直になんてやれやしない。きっと俺の答えは、限りなく真実に近い。蛇岐はいけないことをしている。恐らくこの世で最も悪どいとされる、許されることのない行為。
それは例えば、人を殺していたり、だとか。
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