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第22話

 再び乱れそうになる呼吸を、きつく拳を握りこむことでなんとかやり過ごし、落ち着いたところで改めて獅子雄に謝罪した。 「ごめん、獅子雄。――おかしなことして」  縋るように握りしめていた獅子雄の腰から手を引く。それでも獅子雄は俺の腰に手を回しながら、射抜くように俺を見つめた。その槍のような視線から逃れたくて、俯いた。しばらく沈黙は続いたけれど、何も語らない俺に諦めたのか(それとも呆れて疲れてしまったのか)、獅子雄は長く息を吐いて立ち上がった。身体が離されてみて初めて、それは心地よい温かさだと言うのに気付かされて自嘲した。 「帰るぞ」  遠ざかろうとする獅子雄の背を追いかけて、ハウスを出た。  受付の窓口に声を掛けると、じいさんは新聞紙に包まれた向日葵の花束(と言うには余りにも素っ気ない包装だった)を持ってやって来た。立派な茎と手のひらより大きく開いた花は、じいさんが持つには少し難儀に思えた。 「これね、今年最後の向日葵、あんたらの屋敷には植わってないだろう。椿坊っちゃん、持ってお行き。この花はね、向日葵は、いい花だよ。お天道様に顔向けて、真っ直ぐ伸びるんだもんね、眩しい花だよ。椿坊っちゃん、またいつでも遊びにいらっしゃいよ。屋敷からは遠いけど、バスや電車に乗ればあっちゅう間さ」  じいさんは花束を押しつけるようにして俺に抱えさせ、いつもありがとうね、と獅子雄に一言告げ手を挙げると、そのまま奥へ引っ込んだ。ありがとうございます、とお礼を告げたが、返事はなかった。それから一言も交わすことなく、獅子雄と連れ立ってゲートを抜け車に乗り込んだ。 「着くまで寝てろ、疲れただろう」 「……うん、ありがとう」  お互いの間に不自然でぎこちない空気が流れる。それから逃れるように、シートベルトを締めると花束を抱え直して目を閉じた。すると案外睡魔はすぐそこまでやって来ていて、身体の力を抜けばそのまま思考は深い闇に飲み込まれていった。 「椿、起きろ」  聞き慣れたその声につられて、意識は静かに浮上した。目を開けて辺りを見回せば、既に屋敷の扉の前に停車していた。ぼんやりとしたまま、ゆっくりとした動作でシートベルトを外そうとするも、寝起きのためか上手く力が入らない。もたもたしていると横から大きな手が伸びて、留め具を弄る俺の手に重なった。 「大丈夫か」  その手を辿って視線をあげると、獅子雄の首に残る指の跡が目に入った。咄嗟に俯いて、腕からすり抜けそうになった花束を慌てて抱え直してそれを強く抱き締めた。 「つば」 「呼ぶな」  俺の名を紡ごうとした獅子雄を黙らせる。やっとの思いでベルトを外し、前に向き直った。 「ごめん、獅子雄。俺おかしいよな、本当に」  はっと短く吐息が切れる。 「頼むから、その空気やめて」  甘ったるい空気。俺を慈しむような声色。熱い視線も、指先も、唇も。 「全部、やめろ」  俺を大切にしようとするな。もっと酷く、がらくたを扱うみたいに、枯れた花を捨てるみたいに、夏の道路で死んでしまった猫に触れるみたいに。  獅子雄に触れられる度、獅子雄が欲しいと全身が叫ぶ。頭から指先から爪先から、俺を構成する全てが欲してしまう。抑えようのない欲が、どぷどぷと溢れて抱えきれなくなる程に。それはいつか、噛み砕いてしまったようにぐちゃぐちゃになって、それでもまだ足りなくなって、俺はいつか壊してしまう。  獅子雄が欲しい。手に入れるだけじゃ足りない。際限なく、もっと、もっともっともっと、もっともっともっともっと。  いつの間にか、獅子雄の手は離れていた。顔色を窺う勇気も出ずに、俺は花束に顔を埋めて唇を噛み締めた。車内は重苦しい沈黙に包まれている。獅子雄も何も言わないし、俺だって何も言えないでいる。その空気にいたたまれなくなって、俺は黙って車を降りた。振り返ることなく扉の前まで歩き、手の甲で、泣き腫らしているであろう眼を何度かこすり、ドアノブに手をかける。  この扉を開けたら、いつもどおり。メイドふたりと時永さんが出迎えてくれて、当たり前みたいにただいまと言って、部屋に戻る。獅子雄が戻ってきても、何もなかったようにすればいい。きっと、日常が戻ってきてくれる。  扉を開けるためドアノブを握り直すと、中から控えめに押し返された。 「まあ坊っちゃん、お帰りなさいませ」  開かれた扉の隙間を伺い見れば、マリアが遠慮がちに顔を覗かせた。 「お車の音が聞こえましたので、お迎えに」 「あ………そうなんだ、ありがとう」 「まあ、綺麗な向日葵! 獅子雄様とどこかへお出かけに?」  マリアは俺の顔を見ても特に普段と変わることなく、至っていつもどおりだ。それに心の中で安堵する。 「うん、獅子雄が植松さんの植物園に連れて行ってくれてさ、じいさんから貰ったんだ。何処かに飾って」  俺は努めて明るく声を出す。わざとらしくならないよう、細心の注意を払いながら。 「あらあら、坊っちゃん、お帰りなさいませ。学校はいかがでしたか」 「坊っちゃん、お帰りなさいませ。お疲れでしょう、お茶をご用意いたします」  マリアから少し遅れて、エティ、時永さんと続く。みんな、何も言わない。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。大丈夫だ、日常が戻ってきている。気付かれないよう、ほっと胸を撫で下ろした。 「学校、変な奴と一緒だったよ。蛇岐っていう、蛇みたいな顔面ピアスだらけの大男」  大袈裟に身振り手振りを加えながらそう話し、マリアに向日葵の花束を渡すと、背後で扉が開いて小さく肩が震えた。振り返らず話を続けようと口を開くと、後頭部を小突かれた。 「いたっ」 「いつまでここで話し込む気だ。邪魔だ、さっさと部屋に戻れ」  叩かれた後頭部に手を当てながら獅子雄を仰ぎ見ると、不機嫌丸出しの仏頂面がそこにはあった。 「聞こえなかったか、クソガキ」いつもどおりの、獅子雄だ。 「……うるせえ、いちいち叩くな」クソジジイ、と続ける。  いつもどおり。普段と変わらない、獅子雄。それを自ら望んだはずなのに、胸の辺りがちりちりと痛む。さっきまでの甘さは鳴りを潜めて、お互いの間に深く抉られた溝ができたように錯覚する。せっかく近付いた距離は、俺の我が儘と身勝手で、いとも簡単に離れていく。それは俺の望んだことなのに、どうしてこんなにも苦しくなるのか。  その想いを払拭するように頭を左右に振った。全ては自分の夢だったと思えばいい。目の前のこの光景こそ、本物だ。優しい獅子雄も、恋人のするそれみたいなキスも、獅子雄の首に手をかけてしまったことも、俺が獅子雄に寄せる想いも、全部。  かちり、とまたひとつ、記憶の箱に鍵をする。大丈夫だと、強く言い聞かせる。変わったことは何もない。いつもと違うことなんて、何ひとつ、なかったんだ。

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