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第21話
じいさんに言われたとおり、ふたり並んでハウスへ向かう。その道中どこを見ても美しい花ばかりで、確かに植物は全て大切に育てられていて、客足がこれほど遠退いてしまったのが勿体ないほどだった。程なくしてハウスに到着し、獅子雄に促され中に入った。
「うわ………」
そして思わず熱いため息を漏らす。そこには壮観とも言えるほど、多くの椿が美しく咲いていた。
「俺、椿って赤色だけかと思ってた。こんなにたくさん種類があったんだ……」
赤や黄色に、薄桃色と白。大きさも様々で、まだらに模様が入っているものもある。見渡す限り、椿ばかりが所狭しと咲き乱れている。花になんて(それこそ自らの名である椿でさえも)今までじっくりと見たこともなければ、興味すらなかった。それがどうして、今日はこんなに美しく儚げで、そして妖しく魅せられてしまうのか。自分と同じ名を持つこの花に、どうしてこうも惹き付けられてしまうのか。
ハウス内を隅々までを見て回り、深い朱を湛えた椿の前で獅子雄を振り返ると、中央にあるベンチに腰掛けて静かにこちらを見つめていた。椿の花群の中からそれを見ると、何故だか胸が締め付けられるような、切なく、泣き出したい気持ちに駆られた。
「すごいな、綺麗だよ」
獅子雄に言うと、そうか、と頷いた。俺は椿を優しくかき分けて、獅子雄の隣にそっと腰を下ろした。
「椿って名前、母さんが付けてくれたんだ」
植松のじいさんに、良い名前だと褒められたときは、とても嬉しかった。
「椿って枯れるとき、花弁が散るんじゃなくて、そのままの形で花ごとぼとって落ちるだろ。だから縁起が悪いって言われるけど、母さんはそれが好きだって言ってた。潔くて良いって、綺麗なまま死ぬのが、良いって…………」
だから、生きてる間も死ぬときも、潔くあれと願ってそう名付けられた。母がまだ生きていた頃、そう聞いた。
母さんの死に様はどうだっただろうと考える。記憶の糸を手繰りよせようにも、それは不自然なくらい途中でぷちりと切れていて、思い出せない。どうやって死んでしまったのか、それすらも上手く思い出すことが出来なかった。
こつこつと記憶の蓋を誰かがノックする。開けるもんか、と無意識に抵抗した。今にも溢れ出てしまいそうなのに、ほんのわずかな隙間を埋めるように、幾重にも幾重にも蓋をする。記憶の蓋、感情の蓋、決して見られてはいけない。俺の中には見られてはならないものばかりだ。
「椿」
不意に獅子雄の手が伸びて、俺の髪に触れる。名前を呼ばれたのか、花の名を呟いたのか分からずに、俺は顔をあげて獅子雄を見つめた。視線が絡み合う。俺の髪を撫でていた手が、するりと移動し俺の頬をひと撫ですると、そのまま顎を掴み少し強引に上向かされて、しっとりとした唇が俺のそれに重なった。何度目だ、獅子雄とキスをするのは。そんなことを頭の隅で考えながら、俺は当たり前のように目を閉じた。合わさるだけのキスをして、獅子雄の唇は離れてしまった。突然のことでも驚きはしなかった。お互いに視線を外すことなく見つめあうと、再び獅子雄の顔は近付いて、俺は甘んじてそれを受け入れる。添えられている獅子雄の手に擦り寄るように顔を傾けると、獅子雄は空いた手で俺の腰を抱いて強く引き寄せた。
不意に、頭の中で激しい警報が鳴り響く。
きつく閉じていた蓋ががたがたと暴れ出し、少しずつ開いてその隙間から徐々に漏れ出る。塞がなければと思っても、間に合わない。一度溢れ出すと、それは堰を切ったように止め処なく垂れ流される。駄目だ、ともう一人の自分が叫ぶ。これ以上は駄目だ。それでも溢れ出る勢いは留まるどころか、さらに激しさを増し、それはいつか鎖を引き千切り鍵を捻じ開け、蓋を壊して箱を粉々にして。
これ以上は、駄目だ。頭が、がんがんと揺さぶられるほど、警報が轟いている。
気付けば口付けは深くなって、自らの意思に反して俺の身体は躊躇いもなく口を開く。獅子雄の滑った薄い舌が差し込まれ、ひとつひとつを確認するように俺の口内を蹂躙する。這い回る舌に翻弄されて、鼻からは甘みを帯びた吐息が漏れた。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。頭の中で、何度もそう繰り返す。
獅子雄の逞しい腕が腰と後頭部に回されて強く抱き込まれたまま、それに酔いしれた。獅子雄の腿に触れていた俺の手は無意識にどんどん這い上がり、獅子雄の胸の上にまで移動すると、するりとした手触りのシャツにきつい皺を作った。頭では何度も自制しようとしているのに、肉体と脳は別の持ち主が存在しているかのような、そこにはもう、本能しか存在していないようだった。
「っは、ん………獅子雄……」
重なり合う唇の隙間から、どうにかして言葉を紡ぐ。駄目だ駄目だと思っているのに、俺の両手は今や獅子雄の襟を掴んで引き寄せている。
駄目だ、もう。自分ではどうしようもない。もう、自分では止められない。だから誰か、俺を止めてくれ。とめて、誰か、誰か、誰か。
獅子雄、とめて。
「獅子雄……っ」
口の端から、どちらのものともつかない唾液が顎を伝う。ハウス内に荒い息遣いが充満する。熱にうかされたみたいに、何度もその名を呼んだ。
獅子雄、獅子雄、獅子雄。
助けて、獅子雄。どうか俺をとめて。でないと、取り返しのつかないことをしてしまいそう。お願い、獅子雄、早くとめて。壊してしまう、ぼろぼろに壊して、もう二度と、動かなくなってしまう。どれだけ強く後悔しても、取り返しがつかなくなってしまう。俺はまた、そんなことをしてしまう。そうなる前にどうか、獅子雄、俺をとめて。
「椿、」
獅子雄の熱を持った声に、ぞくぞくと背筋が痺れた。もう、駄目だ。駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ。
獅子雄が欲しい。
理性が本能に支配されたその瞬間、唐突に唇は離された。不意に訪れた喪失感に、寒気すら覚える。
「椿」
呼ばれ、真っ白に染められた脳に意識を引き戻す。間近に見える獅子雄の顔。
「あ………」
急速に頭は冷え、我に返る。獅子雄は身動きひとつ、瞬きすらせずに俺を見据えていた。かたかたと小刻みに、身体が震え出す。違うんだ、と首を横に振った。ごめんなさい、そう呟くと涙が溢れた。こんなこと、するつもりはなかったんだ。そう釈明したいのに、出来ない。獅子雄の陶器のような白い顔が、少しずつ赤く色付く。ごめんなさい、唇の隙間からその言葉が滑り落ちる。ごめんなさい、ごめんなさい。何度もそう呟いているのに、手を離すことが出来なかった。獅子雄の首を握りしめている両手を、気道を塞いでいるその両手を、俺は離せなかった。
どくんどくんと、血管が強く脈打つのを指先で感じながら、顔を歪めながら更に力を込めると、俺の両手は次第に温度をなくしていった。その感覚にさえ、恍惚とした気持ちを抱えた。両手の中で、獅子雄の喉仏が上下する。
「椿」
掠れた獅子雄の声は、それでも優しさを帯びていて、苦しいのは獅子雄の方なのに、何故だか俺の胸が締め付けられて辛くなった。充血した獅子雄の瞳を覗きながら、両手の力をゆっくりと抜く。
「ごめんなさい………」
はっきりと口に出すと、同時に溢れた涙が次々と零れた。獅子雄は長く息を吐き、乾いた咳を一度だけした。首筋には、指の痕がくっきりと残っている。
「ごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさい。まるで、それしか言葉を知らないみたいだ。
「ごめんなさい」
涙は滝のように流れて、俺は俯かせた顔を両手で覆った。獅子雄の首を絞めた、その両手で。何をしようとしてたかなんて、そんなの愚問だ。一目瞭然だ。だけど、違うんだ、そうじゃない。
「ごめん、獅子雄、ごめん」
思考は混乱するばかり、口を開けばそれしか出ない。心臓の鼓動は激しさを増し、ちっとも落ち着いてはくれない。後悔の波は、後から後から押し寄せる。身体の震えは治まるどころか増していき、涙は止め処なく零れて頬を濡らした。両手を顔に押し付けて、爪を立てる。
「ごめんなさい、ごめん……」
恐い。俺は、俺自身が恐い。
「椿、」
上半身を折り曲げ、背を丸める俺に覆い被さるように、獅子雄が俺を抱き締める。
「息を吐け、ゆっくり」獅子雄が背を撫でる。「吐け、ゆっくり、椿、息を吐け」
まるで子供に言い聞かせるみたいに、獅子雄は囁きかける。そう言われて初めて、自らの息が荒く短く、呼吸が極端に浅いことに気が付いた。ひっ、ひっ、と不自然に喉が鳴る。
「……し、しおっ…くるし………」
「落ち着け、息を吐け」
あまりの苦しさに、身体を起こし獅子雄にしがみ付く。心臓が収縮したように痛んだ。
「椿、集中しろ。大丈夫だから、息を吐くんだ」
獅子雄は俺の背中に両腕を回し、背中を撫でながら力を抜くように促す。その感触に集中しながら、努めてゆっくりと息を吐き出す。獅子雄の肩口に顔を埋めながら、なんとか息を吐き切る。
「………目を閉じろ、深呼吸」
促されるがままに従うと、褒めてくれたみたいに頭を撫でられた。深く吸って、長くゆっくりと吐き出す。吐き出したらまた吸って、また吐き出す。
「椿」
名前を呼ぶ声に意識を傾けながら、何度も深呼吸を繰り返す。呼吸は落ち着き、最後にほっと息をつくと、獅子雄の身体からも力が抜けたのが分かった。身体の震えも治まって、獅子雄の肩にもたれたまま指先で額の汗を拭った。
身体中に酸素が駆け巡るのを感じながら、頭の中で壊れた箱を一生懸命に組み立て直す。そしてもう一度蓋をして、鍵をかけ鎖で巻いて、重りをつけて深い谷底へ。深い深い、谷底へ。そうやって知らないふりを繰り返す。なかったことにする。何も、ない。花弁をなぞるより丁寧に、感情を殺して、己をも圧し潰して、粉々にちぎって、殺して。
獅子雄の肩に頬を押し付け、一度だけ強く抱き締めた。きつく閉じていた目を開く。伸びた襟足と、俺の涙や唾液で濡れたシャツが目に入った。もう一度目を閉じ、ゆっくりと開けて確認する。きちんと自分が「戻って」来られているのか。最後に鼻からゆっくりと息を吐き出し、丸めていた背を戻した。上体を起こし獅子雄を見ると、切れ長の双眸が俺の瞳を窺っていた。
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