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第20話
しばらくして携帯へ獅子雄からの着信が入り、俺たちは黙って教室を出た。玄関までの道すがら、またしても蛇岐は注目を浴びていたけれど、ふたりとも無視を決め込んだ。そして校門前で獅子雄と合流すると、蛇岐は「椿姫、ばいばーい」と小学生さながらの挨拶をしてさっさと帰って行ってしまった。その後ろ姿を途中まで見送り、助手席に乗り込む。
「話は聞いたか」
乗り込むなり、獅子雄は開口一番そう訊ねる。
「聞いたか、じゃねえよ。意味わかんねえっつの、ばか。大体あいつ何なの」
「外見はああだが、仕事は出来る」
「そういうことを言ってるんじゃない。それにその仕事って」
運転席側へ身を乗り出し、そこまで言いかけて口を閉じる。聞きたいことも言いたいことも、たくさんあったはずなのに、獅子雄の顔を見るとそれはとても些細なことに思えた。知らず、かたく緊張していた身体がほぐれていく。多少なりとも不安はあって、落ち着かなくて苛々していたのが嘘みたいだ。文句もたくさんあったのに、愛着を持ち始めた獅子雄の顔を見て安心してそれまでの疲れが一気に押し寄せた。深く腰掛け直し背もたれに身体を預けると、横から獅子雄の長く無骨な腕が伸びて、汗ばんだ俺の額に触れた。
「疲れたか」
獅子雄は前を見ながら、片手で器用にハンドルを握り、額に触れていた手で俺の前髪をすいた。心なしか、車内に甘ったるい空気が充満する。
まただ、と思った。また、獅子雄の気まぐれ。気まぐれと分かっているのに、この空気に、獅子雄が醸し出す甘い雰囲気に、俺はいちいち反応してしまう。本当は分かっている。自分が何を想っているかなんてことは、しばらく前から自覚している。でも駄目だ、そう言い聞かせる。この感情が、獅子雄に知られてしまうのは駄目だ。そして自分自身で認めてしまうのも。
俺の頬に触れる獅子雄に大して取り合わず、俺はいつものように目を閉じた。いつもそうしていきた。思考と感情を遮断する。そうだ、ずっとこうしてきた。いつもどおり、きつく蓋をして、鍵を掛けて鎖を絡ませ、奥底に沈めて。ひとつひとつ丁寧に、感情を殺していく。ぷちり、ぷちりと全てを殺し終えたら、目を開く。それと同時に、獅子雄の手も離れていった。これでいい。
ちらりと獅子雄を見やると、何食わぬ顔で運転を続けていた。目が合わなかったことに少し安堵した。
「行きたいところはあるか」
唐突に訊かれ、え、と腑抜けた声が漏れる。
「このまま屋敷に帰っていいのか。行きたいところがあれば、連れて行く」
予想していなかった言葉に胸が弾んだ。単純な奴だ、と自らのことながら呆れてしまう。
「じゃあ、コンビニ」
しばらく考えたが、結局出た答えがこれだった。
「コンビニ? コンビニなんかに何の用だ」
「用もないのに、とりあえず行っちゃうのがコンビニだろ」
言い切ると、獅子雄はなるほどな、と笑った。確かにそうかも知れない、と。
駐車場のあるコンビニを探してしばらく走った。学校から少し離れた場所にそれはあり、獅子雄はスマートに車を停める。やっぱりベンツは目立つのか、ちらちらと視線を感じて反射的に身を縮めた。そして獅子雄が車から降りると、周囲が一気に色めきだったのを肌で感じた。そうだ、こいつは容姿がずば抜けて良かったのだと改めて実感する。
「どうした、降りないのか」
助手席のドアを開けたまま惚けていると、獅子雄が声をかけてくる。
「いや降りる、降りるけど……」
気分が良くない、色々と。
そう悪態つきたいけれど、いかんせん顔がいいのは獅子雄の所為ではない。むしろ、こんなに注目されて辟易しているのは、俺ではなくきっと獅子雄の方だ。獅子雄の性格を考えてみても、注目を浴びてしまうのは本意ではないはず。否、そうに違いない。
「……………ごめん」
車から降りられず、助手席のドアに手を掛けたまま俺を待つ獅子雄に謝ると、怪訝な表情を見せた。
「何に対しての謝罪だ、それは」
「色んな人にじろじろ見られるから、おまえ。………それなのに、こんな人が多いところ……コンビニとか行きたがって、ごめん………」
獅子雄は虚をつかれたように目を瞠った後、さも可笑しそうに微笑った。
「おまえが謝ることじゃない。人の目なんか、生まれてこの方、気にしたことがない」
さらりと言いのけられる。そうか、と俺は言う。
「そうか、おまえ、強いね」
優しくて、強いね。呟くと、獅子雄から笑みが消え、今度は俺を観察するように上から下まで隈なく眺めた。その視線を受け流し、それでも俺は車から降りなかった。
獅子雄は、強い。俺とは大違い。俺は優しくないし狭量で、いつも何かに怯えていて、ひどく弱い。必死に強がり虚勢を張らないと、自分を保つのでさえ難しい。自らの感情でさえ、認めるのが堪らなく恐ろしい。だから知らないふりしか出来ないし、なかったことにしようとする。そうだ俺は、こんなにも弱い。
「場所、変えるか」
獅子雄は俺が開けっ放しだった助手席のドアを閉め、自身も運転席に乗り込んだ。
「え?」
「コンビニなんか、いつでも行ける」
獅子雄はハンドルを握り直すと、颯爽と駐車場を後にし迷いなく車を走らせた。どこに行くのかを尋ねても、答えてくれなかった。結局それから二十分ほど走って行き着いた場所は、閑散として寂れたテーマパークのような所だった。だだっ広い駐車場の割りには、車は獅子雄のベンツ以外、一台だって停まっていない。車を降りて、数メートル先に見える入り口ゲートへ向かう。大きさだけは立派なゲートではあるものの、風雨にさらされ古ぼけて、ペンキはどこもはげていて、サビがいくつもの筋を作っていた。見上げて目を凝らすと、辛うじて『うえまつ植物園』と書かれているのが分かった。
「植物園…………」
予想もしていなかった場所。時代に取り残されてしまったようなこの場所に、黒塗りのベンツも獅子雄自身も、どうも不釣り合いでおかしかった。車に施錠をして後からやって来た獅子雄は、立ち止まったままの俺を無言で通りすぎ、躊躇いなくゲートをくぐった。中から人の気配は感じられないし、そもそも営業しているのかさえ怪しいものだが、獅子雄に置いて行かれまいと慌ててその背を追った。
ゲートをくぐると不揃いな石畳があり、その先には筒の上に赤い円錐を重ねただけの積み木みたいな建物があり、そのてっ辺には三角の黄色い旗が立っていた。おもちゃの家のような小さな窓から獅子雄が一声かけると、中から消え入りそうな返事が聞こえ、それから数刻遅れて腰の曲がったじいさんが顔を覗かせた。
(営業してたんだ……)
俺は獅子雄の背に身体を隠しながら、顔だけを突き出して建物の中を覗く。じいさん以外に人はなく、薄明かりの中で味気ない長机がコンクリートの上に四つ並ぶばかりで、他に目につくものは特になかった。首を引っ込め、獅子雄の背後からゆっくりと姿を現わすと、今度はじいさんが身を乗り出した。
「獅子雄坊っちゃんが、人を連れてくるなんて珍しいね」
「えっ」
獅子雄坊っちゃん。
じいさんは、しわくちゃで垂れ下がった瞼を一生懸命持ち上げ、入れ歯がずれるのか顎を左右に動かしながら、俺をまじまじと見つめた。
「椿、このじいさんは、うちの庭師の植松の親父だ。昔はこのじいさんが、庭の手入れをしてくれていた」
じいさんと見つめ合ったままお互い黙りこくっていると、獅子雄がそう紹介してくれた。庭師の植松と聞いて、あの人か、と合点が行く。いつも脚立や剪定鋏を持ち、庭の手入れをしている四十代半ばほどの男だ。獅子雄の屋敷に厄介になってから、たまに花をくれたり虫を捕まえてきては見せて来てくれたりと、メイドふたりに続いて俺の面倒を見てくれている気のいい男だ。
「あの……はじめまして、我妻椿です」
ぺこりと頭を下げると、じいさんは、んん、と喉を鳴らした。それが相槌なのかそうでないのか判断しかねる。
「……息子さんとは、たまに草むしりとか一緒にしたり、あの、花とか……たまに貰ったりします………」
果たして話す必要があったのかも分からないが、きっと沈黙よりはましだろう。じいさんは年齢のせいか小刻みに身体を震わしながら、うん、と一度だけ首を縦に振った。
「あんたが椿坊っちゃんか。うん、息子から話は聞いてるよ。いい名前を貰ったね、椿は綺麗な華だよ」
はい、と俺は小さく返事する。
「ここはもう、客足はだいぶ遠退いてね。こうやって獅子雄坊っちゃんが来てくれる程度だけれど、植物はね、私が全部大切に育てているから、うん。椿はね、本当ならまだ時期じゃないんだけれど、ハウスの中で綺麗に咲いてるよ。ふたりで見てらっしゃいよ」
じいさんはそう言い残し、こちらの反応を待たずに奥へと引っ込んでしまった。いつもああなんだ、と獅子雄は苦笑した。
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