19 / 56

第19話

 しばらく三人で他愛もない雑談していると(主に蛇岐が月崎に対して一方的に、だったが)定刻を伝えるチャイムが響き、外の廊下が賑わい始めた。 「始業式、終わったみたいですね。教室まで案内しますよ」  月崎は席を立ち、部屋を出るよう俺たちを促す。俺と蛇岐は黙ってそれに続いた。一年の教室は職員室から少し離れた棟にあるらしく、校内をしばらく歩き、その道すがら上級生だか知らないがたくさんの生徒から不躾な視線を浴びせられた。ほとんどの視線は、蛇岐に向けてだった。どうしたって蛇岐のこの長身と派手な外見は悪目立ちし過ぎる。当の本人は黙ってはいたものの、先ほどまでのへらへらとした軟派な姿勢は鳴りを潜め、眼光鋭く威圧的に周囲を睨みつけながら闊歩していた。これも、こいつの言う「仕事」のひとつなのだろうか。気にはなるものの、蛇岐の今の目を見ればそれも気が引けた。 「こちらです、呼ばれたら入って下さい」  月崎は教室の前まで俺たちを案内すると、私はこれで、と踵を返しその場を後にした。目の前の引き戸一枚を隔てた向こうから、浮き足だっているような落ち着かない空気を感じる。転入生の存在は、何をしなくてもその響きだけで妙な期待をされるものだ。 「椿姫、もしかして緊張してる?」  俺の隣にぬらりと立つ蛇岐は、すっかり元のへらへら顔に戻り、人懐こいともとれる笑みまで貼り付けている。  緊張は、していない。友人が欲しいとも、ここで上手くやっていこうとも思っていないのに、緊張などする訳がなかった。人との繋がりなど脆くて薄っぺらなものだと痛いほどによく分かっている。俺はただ、無事に卒業できればそれで充分だ。 「つうか何なの、おまえ、さっきの。こっちに向かってる間ずっと人殺しみたいな顔しやがって」  視線は正面に向けたまま、蛇岐に文句をたれた。 「へえ、椿姫、人殺しの顔なんて見たことあるんだ」  意外、と蛇岐は続ける。 「あげ足をとるな」 「あげ足なんか、とってない。本当に見たことがあるんだと思ったんだ」  蛇岐の声色は冗談を言っているようには感じず、不審に思い首を横に捻る。恐る恐るその表情を確認すると、きょとんとこちらを見ていた。その風貌に似合わず純真な瞳で。思わず鳥肌がたつ。本当に冗談を言った訳ではなさそうなその態度に、そこはかとなく不穏さが漂う。人殺しがごく自然に、世間に当たり前に紛れていることを知っているような。そしてそれが、世間の暗黙の了解だと、勘違いしているような。 「………人殺しなんか、見たことねえよ。それよりおまえ、教室では普通の顔してろよ」  ははは、と蛇岐は口先だけで笑う。 「大切なお姫様に余計な手を出される訳にはいかないからねえ」 「……………」  この男の言っていることが、一体どこまで本気なのか判断しかねる。身を脅かすような恐怖はないものの、言い知れぬ妙な気味の悪さがあった。 「……おまえといると、目立つからいやだ」 「俺がいなくたって、椿姫は充分に目立ってる」  獅子雄の所為でな。そう言おうと口を開きかけたとき、教室内から担任に呼ばれた。  引き戸を開けて、教室へ一歩足を踏み入れた瞬間、刺さるような視線が俺に集中した。蛇岐にではない、間違いなく、俺にだ。ほら、俺の言ったとおり、と背後で蛇岐が小さく囁いた。素早く教室内を隅々まで見渡す。中途半端な時期の転入生を快く迎え入れてくれている視線ではない。珍しいものを見るような、嫌なものを見てしまったとでも言うような、無数の針でちくちくと肌を刺激する、気持ちの悪い視線だ。  気持ち悪い。  堪らず顔を歪めてそうこぼしそうになったとき、背後に立つ蛇岐が突き抜けるような明るさで口を開いた。 「いやあ、可愛い女の子たちばっかりだねえ」  蛇岐は、あのにやにや顔でそのでかい図体を猫背に丸めて、教室内を見渡している。俺に集中していた視線も、ごく自然に蛇岐に向いてほっと息を吐き安堵する。確かに中々役に立つ男かも知れない。その後、簡単な自己紹介を済ませると俺たちは指示された席に着いた。蛇岐は俺の後ろの席だ。暫くは、不躾な視線も投げかけられたけれど、その度に蛇岐はあの手この手で注意を反らしてくれていた。非常に癪ではあるけれど、獅子雄の言うことに従っておいてきっと不利益はない、そう判断して、俺は蛇岐の醸し出す空気に紛れるようにして身を縮めた。  新学期始めの今日は授業もなく、昼前には終礼も終えて教室は一気に賑やかになった。気持ち悪かった刺すような視線も、今は好奇心に近いものに変わってはいたが、誰も俺たちに話しかける者はいなかった。それが楽でいい。鞄を膝に載せながらぼんやりと窓の外を眺める。数ヶ月前には想像もしなかった。それまでの日常とは余りにもかけ離れていて、急速に全てが変わっていって、その流れに置いて行かれないようついてくのに必死だ。今のこの日々が、いつか「日常」になるのだろうか。獅子雄と共にいることが、当たり前になるつつあるように。 「椿ちゃん」  背後から肩を突かれて我に返る。振り返れば蛇岐がズボンのポケットに手を突っ込んで立っていた。 「車、呼ばないの? 今朝、獅子雄さんに言われてたでしょ」 「ああ、そうだった」 「もしかして、今朝あんな別れ方だったから、気まずかったりして」  蛇岐は面白がって笑っている。確かに今朝は気持ちのいい別れ方ではなかったけれど、気にするほどのことでもないだろう。獅子雄の今朝の態度には相当頭に来たし今も納得のいかないことばかりだが、険悪な雰囲気を蒸し返すつもりもない。きっと獅子雄も普段どおり素っ気ない態度だろうし、どうせ歩いて帰れる距離でもないので、俺は素直に獅子雄に電話をかけた。コール数を重ねることなく、案外早く電話は繋がった。終わったか、と訊ねる獅子雄の声に図らずしも胸が小さく鳴るのが分かった。うん、と短く返事をする。すぐに向かうから待ってろ、と獅子雄は言う。また、うん、と返した。なんだか身体がむず痒く、落ち着かない。電話をあてている耳が熱い。ぷつん、と通話は切れて、心なしか寂しさすら感じてしまう。気持ちが悪い、変な気分。 「獅子雄さん、なんだって?」 「………今から向かうって」  ああそう、と蛇岐は興味なさそうに返事をした。 「椿姫は素直だなあ、何考えてるか、丸わかり」 「………なんだよ」 「獅子雄さんのこと好きって、顔に書いてある」  俺は蛇岐を見る。やっぱりへらへらしていた。好きじゃない、そういうことじゃない、と否定する気にもなれなかったし、図星をつかれたとも思わなかった。ただ、蛇岐の考えてる感情とは違うんだと説明したかったけど、蛇岐にそこまでする必要があるだろうか。 「……そういうのじゃないから」  小さな声でそう言うと、あはは、と蛇岐は笑った。ちっとも楽しそうじゃないのに。 「そういうおまえは、何考えてるのか全然わかんねえ」 「だろうね、特に何も考えてないし」  蛇岐が話すたび、舌のピアスが見え隠れする。蛇岐を飾るアクセサリーは、立派な体躯を更に武装させているように見えた。太い二の腕、大きな手にはたくさんのリングがはめられている。この腕に殴られたら痛いだろうな、とそんなことを考えた。 「獅子雄待つだけだから、おまえ先に帰れよ」  再び窓の外に目を向けながら、蛇岐にそう声を掛ける。 「残念。そうはいかないのが俺の仕事よ」  本当に帰るつもりはなさそうで、一度立ち上がったにも関わらずポケットに突っ込んだ手はそのままに、机に腰掛け直した。 「なんなの、その仕事って。警備会社か何か?」 「はは、椿姫って面白いね。俺が真面目に会社なんかに勤めてるように見える?」 「見えねえよ」  お互い目も合わせずに、会話ともつかない会話を続ける。その会話らしいものも、弾むどころか噛み合わない。それに焦れったさを覚えて、俺は早々と口を噤んだ。蛇岐も蛇岐で、言葉の端々に俺への無関心さがありありと見て取れた。しかしそれも、どうせお互い様だ。

ともだちにシェアしよう!