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マジカルは突然に 3
「はっ、はあ、はぁ……っ!」
よりによって魔法少年が跳んだ先は廃ビルで、もちろんエレベーターが作動するわけもなく屋上まで走らざるを得なかった。入り口のドアは逡巡ののちに蹴破ったのだが、目撃者がいないことを祈るしかない。立派な不法侵入だ。
ぜえぜえと喘ぎ、肩で息をしながら屋上に繋がる錆びたドアを開ける。金色の髪が夜風に靡き、少年は面を上げた。朽ちかけそうなフェンスに背を凭れさせる身体のあわいを、真向かいの電光掲示板のライトが浮かび上がらせている。背から伸びるコートの長い裾がばたばたとはためく。
「遅くねえ?」
幻想的なたたずまいを一気に崩落させるのんきな声が、息を呑む朋坂を現実に引き戻した。
「あのなぁ……!」
朋坂は長めの前髪を掻き上げ、熱い息を吐いた。眼下は絶対零度の靄が立ちこめているというのに、ほんの僅か上空は真夏かと思う。汗がだくだくと流れ、たまらず羽織っていたジャケットを脱いだ。明日あたり筋肉痛になるかもしれない。
憤慨する朋坂に興味がないのか、魔法少年は背を向けて足下から上ってくる氷雪をねめつけた。
「面倒くさ……」
だるそうにため息を吐きながら、少年は手にした杖を二、三度振って握り直した。
「ちょっとそこで待ってて」
「あ、うん……わかった」
素直な返事を聞き届け、彼は身軽に跳躍する。一度フェンスを中継し、高く高く舞った。見えない床があるかのように宙を蹴ると星が弾けて散らばる。まさに魔法だった。
「あ……」
朋坂の瞳の湖面が光る。黒いシルエットが描く流星の軌跡に見惚れた。
上空で体勢を立て直し、魔法少年はくるりと回転を加えながら落ちていく。朋坂は駆け寄り、ぶつかる勢いでフェンスに身体を押し当てて行く末を見守った。
少年は落下の勢いを借りて急降下し、手にした杖をマーテルの頭蓋に打ち付けた。爆裂。
「――――――――」
すさまじい怪音波の悲鳴を上げ、巨体は雪花を巻き上がらせながら一撃でアスファルトに沈んだ。
「す、すごい……っ」
眼下の勢威に、喜色を露わにする。くるくると数回立て続けに回転し、魔法少年はムスッとした表情のまま着地する。たった一度の攻撃であんな巨体を地に伏せたというのにみじんも表情を崩さないのだと思うのと、少年が今一度杖を構え直したのはほぼ同時だった。びくんびくんと痙攣するマーテルの腹から一筋、二筋と青緑の体液が零れ、そして――――。
辺りは瞳を灼く蛍光緑に包まれた。
小蜘蛛型のレモラの大群が、母胎を突き破り我先にと路上にあふれ出す。異国の路上で鳴らされる大祭の鈴の音めいた音がガチャガチャとけたたましく鳴る。黒い渦の大行進。レモラ達の鋭く尖った爪がアスファルトを削らんばかりの勢いで蹴り駆けている。
「ちょ、ちょっと! なんでこっちに来るんだよ!」
硬質な多重奏はみるみる大きくなってくる。なぜか、レモラ達は一番の敵である少年ではなく、朋坂めがけて一目散にビルを登ってきているのだ。遠目から見れば黒い靄がビルを覆っているように見えるであろう。遠くからバラバラという中継ヘリの羽音がする。巨大なライトを向けられて、眼が眩んだ。
「邪魔!」
何度目かになる衝撃に転ぶ。
「なんで君はそう、いちいち突き飛ばすんだっ」
「いいから、邪魔だっての! あっちに行ってろバァーカッ!」
黒い靄を蹴散らしながら跳躍してきた少年が、朋坂を庇うようにして立ちはだかる。朋坂はさすがにムッとしたけれど、一応は護ってくれるらしい少年の素振りに仕方なく口を閉ざした。
「破片とか内蔵とか飛んでくるかも。眼に入っても知らねえからな」
不穏なことを宣うや否や、少年は杖に籠手を翳し、垂直に滑らせる。薄桃色の光が彼の掌から生まれ、それは光の刃として大鎌の形状を造った。
「はぁ~、便利なもんだなあ……」
緊張感の欠片もなく感嘆すると、少年にぎろりと音がしそうなほど睨まれた。
今日だけで既に何度か死にかけているというのに、不思議とあまり不安を感じなかった。それどころかいま、わくわくしている。目の前の少年の存在が、恐怖を払拭している。
「便所虫ども、マジカルエンペラーの前にひれ伏せぇ!」
「マジカルエンペラー?」
派手な音と共にフェンスが瓦解し、黒い海がなだれ込んできた。自称エンペラーはお構いなしに大鎌を一振りして、パステルカラーの星々の洪水でそれらを一薙ぎする。
「痛………ッ」
少年の言うとおり、散り散りになったレモラの破片が爆風で暴れる。頬に鋭い痛みが走った。
マーテルの姿は映像などで見たことがあるのだが、産まれたてのレモラを、こんなにも鮮明に、こんなにも近くで見たことは初めてだ。思ったよりもずっと、一体一体がデカい。鋼鉄の甲殻はネオンをぬらぬらと反射して、赤い複眼が四方に瞳孔を向けている。歪な動きで足をバタつかせ進軍する傍らで、共食いをしながらここまで登ってきた個体もいる。統率はまるでないが、そのどれもが朋坂を狙っているように感じた。
「これっ、何体くらいいるんだ!?」
「知らねえ! 忙しいんだから、――ッ、くそ、話しかけんな!」
牙を剥き出しに、食らおうと襲いかかってきた個体を鎌の柄で受け流し、飛びかかってきたもう一体を頭突きで跳ね返す。星が舞い夜気に溶ける。柄に噛み付く個体をそのままに振り回し、背後の一体をなぎ払う。また破片がはじけ飛び、蛍光緑の血がびしゃりと屋上のコンクリを濡らした。
(強い……っ!)
朋坂はごくんと唾を呑んだ。汗がじっとりと湧き出す。冷や汗ではなく、興奮に昂ぶった純粋な発汗だ。
「もーッ! うぜぇ!」
桃色の刃が半月の軌跡を描く。弾ける。星。ざり、と踏み込んでまた一閃。突っ込んでくる固体にはチンピラのようなキックで蹴り飛ばす。踏みつけ潰す。獅子奮迅の勢いで、はじめは黒い海が襲いかかってきたように思えていたのに、いまやかわいらしい水たまり程度の規模にまで減少している。
「――――っ!」
群れから外れた一体が火花を散らしながら爪で地面を蹴り、朋坂めがけて跳んだ。その一匹も見逃さず、少年は鎌をブン投げて射貫き、ビルの壁に縫い止めた。
「これでッ、最後だぁッ!」
武器を失った少年は、もはやマジカルやファンタジックな星とはほど遠い、籠手の爪でレモラの土手っ腹に腕を貫き通した。噴き上がる蛍光緑の血しぶきの中、魔法少年は瞳孔を開いて犬歯を見せて狂気に笑む。
ぞくりと背筋が震えた。その笑みは耐えがたい憎悪一色の、悪魔の笑みだった。
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