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マジカルは突然に 4

 バスタブ何杯分の血が流れたのだろう。ビルの屋上から地上までをレモラの血液は染め上げている。人間の血液とは違う、水揚げしたばかりの魚に似た薄い生臭さが立ちこめていた。  魔法少年は近くにあったレモラの残骸を蹴り飛ばし、振り返って朋坂を見据えた。びくりと背が震える。レモラを憎悪の光線で灼いていた眼差しとは打って変わって、ひどくしらけたような眼をしていた。 「怪我は……」  朋坂の心配を遮り、少年はなにかを催促するように掌をゆったりとゆらめかせた。金属の爪がネオンを反射して鋭利にきらめく。 「ん」 「うん?」  首を傾げながら泳ぐ手を捕まえて握ると、思い切り振り払われた。手首がもげ落ちそうだ。 「なんっで、この状況で握手するんだよっ! 首輪だよ、首輪っ!」 「あ、ああ……。そっか、ごめん」  素直にチョーカーを渡す。見た目は怖いけれど、(かなり荒っぽい助け方ではあったが)一応命を救ってくれたわけだし、謝りこそすれ他人行儀なお辞儀はしなかった。  魔法少年は舌打ちをしながら素直にそれを受け取りかけ、伸ばした手をびくりと止めた。きらりと光るクリスタルは朋坂の血で真っ赤に染まっている。ただ単に血液で汚れているのではなく、はなから真っ赤な宝石だったと素知らぬ顔で主張するかのように、目の覚めるようなピジョンブラッドはどこまでも赤く赤く――――。 「それ……」  動揺した口を開く魔法少年の言葉を遮り、ビル全体が揺れた。ゴゴ、と地鳴りがする。 「こ、今度は何だ!?」  はっと顔を上げると、フェンスの向こうに黒い巨影が聳えていた。恨めしそうな複眼が一斉に開き、無数の赤い眼が屋上の二人をグルンと見止める。どくどくと流れるペンキめいた粘性の血が赤い眼に流れ、ぱちぱちと瞬きするたびに緑色の雫を跳ね上げる。長いまつげの一本一本が意思を持ってわななき、キィンという不快な音を立てながら光が集束する。深紅のレーザービーム。  烈火のような閃光が迸り、とっさに腕で視界を遮った。灼き殺される! 「――――ッ!」  しかし、死を覚悟した朋坂の前に一つの影が躍り出た。影は閃光をものともせず、小さな身ですべてを四方に弾いた。思わぬ反撃に、瀕死のマーテルは体勢を保てずフェンスの向こう側へと墜ちていく。ズゥンという幾度めかの地響きと、巻き上がる氷雪の煙。 「ライオ!」  嬉々とした魔法少年の声に、はっと顔を上げる。 「よかったあ、なかなか戻ってこないから心配していたんだぞ!」  少年は今までに見せたことのない、年相応の純真な笑顔で浮遊するドクロを撫でていた。その愛おしそうな手つきに、長い月日で培ってきた相当の信頼を感じる。  唖然とする朋坂など眼中に入っていないようで、少年らはきゃっきゃと楽しげに再会を喜んでいた。 「報告はあとで聞く。先にアレ、ぶっ殺すぞ。――というわけで、お前、何も聞かずに俺を殴れ」 「――――――はっ?」  あっけらかんと言い切る少年に、朋坂は眼を見開いた。 「いや、え? 殴る? 俺が? 君を?」 「ほら、そうやって聞いてくる。そういうのいいから、面倒くせぇ。俺が強くなるためだと思って、早く」  ちらりと視線を投げた先で、鉄がアスファルトを引っ掻くような不快音が轟いた。執念深いマーテルは、まだこちらを諦めていない。  逡巡する。しかし、突然「殴れ」と言われたところで、朋坂ははいそうですかと人を、ましてや多少言動に難ありとは言え、恩人を殴れるほど人間が廃れてはいない。それに、何よりも人間の赤い血液が苦手な朋坂は喧嘩などしたことすらないのだ。 「おい、早くしろよグズ」  短い眉を顰めて、少年は悪態を吐いた。 「ほん、本当に……」  どくどくと脈が上がり、自然と息が上ずった。浅い呼吸、ひどく緊張している。じっとりと湧いた手汗をジーンズで拭った。その様子を見やり、少年はふいに視線をボロボロになったマーテルに向ける。 「アレにトドメを刺すためだ。そのためには、俺の〝痛み〟が必要なの。そして、俺に〝痛み〟を与えられるのは、この世でお前一人だけだ。それだけ言えばもう十分だよな。分かったなら早くしろ。まだグズるなら、俺がお前を死ぬまで殴る」  ん、と瞳を閉じて少年はまっさらな頬を差し出した。 「痛みを……」  瞳が泳ぐ。泳いで泳いで、ちらつく視線がマーテルの黒光りする爪を捉えた瞬間、朋坂は覚悟を決めた。 (この人を、信じる――……)  ぐっと拳を握る。振りかざす手はぶるぶると震えている。  バチィン、という重く湿った音。よろめく少年がブーツの踵で踏ん張り、口端の血を拭った。不敵な笑みが深まる。 「サンキュー、マスター!」  少年の瞳が爛々と煌めく。浮遊するドクロが歯と歯に挟んで咥えている特大のピジョンブラッドが光を帯びて、その輝きに呼応するように少年の瞳が赤く染まっていく。フェンスの向こうで、所々甲殻が瓦解しているマーテルの哀れましい身体が、ぐぐ、と持ち上がる。 「ようッやく、粉微塵にしてやれるぜぇ」  少年の目に慈悲など欠片もなく、ただ愉しげに唇を歪ませて嗤っている。天に向けて掲げた籠手を、風を切りながら振り下ろした。 「コネクト! 魔砲、アストルム・ラディウス!」  合図を受けたドクロの宝石がカッとひときわ強い光を放ち、その小さな姿は黒い影となり光に埋もれた。すべてを灼き切る、赤い閃光。ピジョンブラッドそのままの色の、刃よりも鋭利な光の帯。 「――――――――ッ」  赤光はマーテルの断末魔さえも灼いてしまった。  朋坂はその長く伸びる深紅の光を瞳に焼き付け、じわじわと痛み始めた拳をそっと手で覆った。光はやがて集束し、小さな粒子となって霧散する。なおも残る風圧に黒いコートの裾が激しくはためいていたが、それすらも凪ぐと魔法少年はようやく手を下ろし、くるりと朋坂を振り返った。誇らしげで、晴れやかな表情をしていた。 「渋っていた割にはすっげえ痛かったぞ、マスター」  ああ、唇の端に、赤い血が。俺が付けた傷が。俺が付けた――――。  ぐるんと宙が廻る。 「あ、ちょ、……おい!」  今夜はこんなにも、星がいくつも瞬いていたのか。それともあれは、この少年から飛び出たパステルカラーの星々の残骸なのだろうか。駆け寄ってくるブーツのごつごつとした音を聞きながら、朋坂はがっくりと膝から崩れ落ちた。

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