26 / 32

アスカトルのマーチ(2)

   *   *   *  どんな奴が待ち構えているかと思ったら、本体であるマーテルのディテールは大百足そのものだった。褐色の体表は夥しく溢れ出る体液でつやつやと油分を帯びていて、一足一足に細かな毒の棘がびっしりと生えている。全長は三十メートルほどだろうか。側面だけでは飽き足りないのか、背にもポツポツと足が生えているのが奇形じみている。全長もさることながら、特筆すべきはその頭部だろう。体長と較べてみても明らかに頭部が大きすぎる。あまりにも大きな頭に自立できないのか、前進するたび、垂れ下がった頭部が地面に擦れ、緑青色の血糊がアスファルトに線上に連なっている。肉が削り取られる痛苦を感じているのか、マーテルは前進を続けながら奇怪な絶叫を上げ続けている。 「なんのために生まれてきたんだか……」  沈黙する信号機の上に降り立って奇怪な行軍を見下ろし、祥馬は一人呟いた。痛い痛いと叫びながらも前進することをやめられない大百足は、殉教者にすら見える。気味が悪いのに、その姿はあまりにも哀れだ。 「終わらせてやるよ」  醜悪極まりない行進に終焉を与えてやることができるのは、己のこの力だけだ。  体内でふつふつと湧き上がって仕方がない魔力を、一点に凝縮させて光刃を作り出す。魔杖を軸に朱鷺色の刃を伸ばせば、祥馬の好きな大鎌の完成だ。戦闘向きでは決してないのだが、見た目がかっこいいので執拗にこの形状を貫き続けていた。 『祥馬はバカですねえ。鎌なんて戦いに向いているわけがないんですよ。遠距離こそ最適解です。意地を張るのをやめて、弓か槍にしなさいな』  以前、ヒトミカナデにそう言われた。いま思い出しても憤怒してしまう。  大鎌こそ至高だ。古来より死神が手に携えるのは大鎌だと相場が決まっている。彷徨う魂を確実に導けるのは、遠巻きな槍でも、安全圏が確約される弓でもない。あわれな魂を手繰り寄せ、引き寄せ、抱き締める。死を齎す特権を与えられた自身にできる最上にして唯一の餞は、大鎌で魂を収穫してやることだけだ。  たとえ養父の仇だとしても。弔いの戦いだとしても。復讐に身を沈めたとしても、この個体は弥言を殺めたマーテルではないのだから。  それならば、葬送してやらねばならない。  跳躍。カリビアンブルー、ラベンダーミルク、ペパーミントサイダー、プラチナシトリン、アップルタルトタタン、ラズベリーナパージュ、アイビーオパール。七色の星が自身の踵から流星のように奔るのは、いつ見ても気持ちがいい。白い息とともに燐光が背後に流れる。ハイウェイを映した光跡写真みたいだ。愉しい。生きている。力が漲っている。  光の尾をたなびかせながら急滑空してくるアルマの存在に、愚鈍なマーテルが動きを止める。頭は持ち上がらない。このまま脳天に一発。鎌を振るうまでもない。爪先だけでも十分だ。 「雑魚アルマの管轄地区に降りてくればよかったのにな、おまえも」  哀悼の念を抱かざるを得ない。必死に頭を擡げようともがくマーテルまであと数メートル。踵落としの要領で右の足を持ち上げる。と、マーテルの背で死んでいた奇形の脚がふるふると蠕動して……、 「……っ!?」  が、ぱ。  マーテルの油まみれの背が、深淵の口を開ける。 「……っく、そ!」  飾りになっていた鎌を構え直し、急いで光刃を振るう。灼熱の燐光が夜を焼く。マーテルの背に現れた亀裂から、ネオングリーンのほそい光が目にも止まらぬスピードで幾重にも放出される。わずかでも触れてしまえば肉など一瞬で蒸発して跡形もなく消え失せてしまうほどの熱。熱のアイビーが。鉄線のように!  勢いに任せて振った刃から放たれた光刃はわずかに軌道が逸れ、マーテルのどてっぱら脇の地面を抉っただけに終わった。 「そんなブラフ、ありかよ」  巨大な頭部はただの飾りだった。餌を誘き寄せるためだけの行燈。これは百足なんかじゃない。アンコウだ。  マーテルの深淵から伸びた蔦はしゅるしゅると背の暗渠へと引き戻され、代わりに出てきたのは……。 「人間……?」  人間のあたまだ。頭部が生えてきた。剃髪された頭頂部と、羊水を纏うつややかな髪。落武者めいた、巨大な、巨大すぎる、人間の、あたま。羊水に似た血の混じる粘液をまとわせて、鼻から上だけどのっぺりと突き出して。  ヘドロの匂い。引き裂いた背のへりに手指を置いて、その頭部は重く腫れぼったい瞼を……開けた。 「っ……!」  視線を合わせてはいけない。取り込まれる。瞬時に悟り、身を翻した。視界の端でわずかに捉えた落武者の虹彩は、腐った卵のレモンイエローと、鬱血したどす黒い真紅が幾重にも混ざり合って重なり合って。円を、円をぐるぐると描く、虹 彩。 ぐる ぐる と。 「う、ぇ……ッ!」  これは、精神に干渉するタイプだ。鳩尾が捻り上げられるほどの吐き気。なんとか堪えるけれど、制御を誤った。一瞬、魔力が途切れる。その隙を愚鈍の皮を被った狡猾なマーテルが許すはずもなく、また緑色のアイビーが高速で伸びてきた。 「っ、ざけんな、クソ!」  こっちは満を持しての復帰戦なんだ。華を持たせろ。  祥馬の瞳が発光する。空中だろうが関係ない。こちとら天下のアルマ様だ。唯一無二の力を得た、最強のマジカルエンペラー。  鋼鉄の蔦が右腿を貫通するも、それを捕まえて握り、渾身の力を込めて引く。その力を借りて、一気にマーテルへと急加速する。風が気持ちいい。巨穴の暗がりから、目元から上だけを露出させている落武者と真に瞳を交える。 「っ、グ……」  負けるか。わずかにえずくが、捻転する胃を意地で抑圧する。まだ吐くな。まだだ。まだ。あともう少し。 「っしゃ、オラァッ!」  渾身の頭突きが、マーテルの青褪めた頭部に命中する。衝撃に七色の星と燐光がぶわりと舞う。うつくしい光の饗宴なのに、やっていることはチンピラめいた頭突きだ。 「っは、おまけだ!」  ついでに右手の籠手に魔力を込め、鋭い鉤爪で眼球を裂く。 『――――!!!!』  声帯が潰されている武者は引き攣れた絶叫を迸らせた。生類すべての聴覚を狂わせるほどの音圧は、立ち並ぶビル群の窓ガラスを悉く破り尽くした。 「っ……く、そ」  慌てて飛び退くが、耳を押さえて苦悶する祥馬の肩を、大きなガラス片が引き裂いた。鮮血。マーテルの顔面から流れる体液と混じり合ってアスファルトを輝かせるのが、心底いやだ。  マーテルは引き裂かれた水晶体で必死に祥馬のちいさな正体を捉えようとする。が、祥馬は立ち直りの早さと、底力が取り柄のアルマだ。雌雄は、はなから決していた。 「これで、終わりッ!」  天高く跳躍した祥馬は、両手で大鎌を振りかぶる。月光を背に、朱鷺色の刃が今日一番の光輝を見せた。すでにふたつの眼球を喪ってしまったはずのマーテルは、それでもなお視界を灼かれた。  ひかり。浄化の焔。  大鎌の切っ先が武者の額に振り下ろされる。  腐敗しきった脳漿を飛び散らせるマーテルは、しかし贖罪する使徒のように祥馬の断罪に身を任せていた。 「ぜんっぜん本気じゃないけど、ま、こんなもんよ。らくしょー」  左肩を押さえながら跳んできた祥馬はそう言って、主人たる朋坂の元へと舞い戻ってきた。 「あ~、まじで最高ッ! 大勝利のあとエナドリ、まじで美味すぎ!」  にか、と白い歯を見せて笑う祥馬はどこまでも溌剌としていて、元気が有り余っているのかライオネルとともにくるくると踊りはじめた。ぴしぴしと飛んでくる魔力を具現化した星を手ではたき落としながら、眉を顰める。 「ライオに見せてもらっていたけど、結構危なげだったぞ?」  朋坂の苦言にぐるんと振り返り、むっと唇を尖らせる。 「念願の戦線復帰なんだから、ちょっとくらい遊んだっていいじゃん」 「あのねえ、命のやりとりをしてるんだぞ? 俺がどれほど肝を冷やしたか……」  一夜にして老けこんでしまったかもしれない。遠くから見守ることしかできない身がいかほど辛いものか。  ああ、と嘆息して澄んだ月夜を仰ぐ朋坂を察してか、心優しい骸骨が祥馬の耳元にふよりと舞った。 「ん? どした、ライオ」  こそこそと耳打ちをする骸骨に、祥馬がちいさな耳を貸す。うんうんと相槌を打つ速度が緩慢になり、やがてその耳朶がわずかに色付く。 「あ、……おまえ、またライオを振り切って俺のところに来ようとしたん?」  呆れ半分、照れ半分に落とされた声。 「ちょ、ちょっと、なに吹き込んだの」  骸骨は素知らぬ顔でくるりと一回転した。煽られているような気がする。 「……まあ、実際、役には立たないし足手纏いになることはもちろん分かってるんだけどさ。それでも、何もせずに待っているだけなんて、やっぱり無理だよ。おまえが心配なんだから」  自身の肩よりも下にある柔らかい金髪を撫でると、困惑した表情が翳った。耳朶はまだ桜色を保っている。冬の真夜中だ。冷えたのかと両手で彼の耳を包むと、たしかに耳は冷え切っていた。感覚があるかどうかもわからない。硬直したまま頼りなげに目線を泳がせる祥馬に、朋坂は苦笑をこぼして肩を叩く。 「とにかく、お疲れさま。祥馬のおかげで今夜も侵攻は止められたんだ。ありがとうな」  わしゃわしゃと耳のあたりを猫っ毛とともに混ぜ撫でると、気に触ったのか頭を振って拘束を解かれた。 「べつに、ヨリに感謝される筋合いねーし」  怒ったふうの口調をしているが、不貞腐れる顔は火が付いたようにまっかになっていた。 「はは、祥馬おまえ、照れてんのか。かわいいな」  揶揄うと、音がしそうなほどの眼力で睨み上げられる。両手を上げて降参を示しながら、手を差し出す。 「帰ろう。おいしいもん食べて、今日はもう寝ちゃおう」  差し出した手をじっと見つめ、祥馬は黙する。しばらく無言で朋坂の無骨な手を観察していたが、やがてふはっと憎らしい笑みを浮かべてその手を叩いた。勝利のハイタッチには程遠いけれど、それでも意志は伝わった。 「ドーナッツ十個食べたい。全部違う味で!」 「太るぞ」  憎まれ口を叩きあって、同じ速度で帰路に着く。  毎回、こうだといいのに。  祥馬が圧勝して、五体満足で帰ってきてくれて、なまぬるく続く日々のなかで、こうして笑っていられたらいいのに。  自堕落な願望が胸のなかで肥大するにつれ、揃っていた歩幅も崩れる。気がつけば朋坂は、漆黒の外套を夜闇に滲ませる祥馬の背を数歩空けてのろのろと追いかけていた。  すべてのファミリアを退けたあとは、どうなるのだろう。 (アルマはマーテルの魂を吸収して生き永らえている……。それなら、ファミリアが襲来しなくなれば、彼らはどうなってしまうんだ?)  頭をもたげた疑問が、じわりと下腹のあたりで黒いとぐろを描く。 (ファミリアをこのまま倒し続けていても、良いのか……?)  昏い瞳が、スキップやターンを織り交ぜながら骸骨と歩く後ろ姿を見つめる。穴が開いてしまうほど、見つめる。踊る小柄な彼の裾で、きらきらと月光を反射する金色の飾り。しろい太腿。くるくると踊る楽しげなステップの向こうで、――――突然、轟音と共に粉塵を巻き上げながら瓦礫の洪水が雪崩れてきた。 「なっ……!?」  なんだ!? いったい、なにが。  突然のことに、澱みに片足を入れていた朋坂の意識が正気を取り戻した。 「祥馬!」  粉塵は治らない。咳き込みながらもうもうと立ち込める砂埃を両手で掻くが、意味を成さない。 「祥馬! ライオ!」  訳もわからないままがむしゃらに駆け出し、砂塵のなかで人型のをしたなにかを掻き抱く。 「よかった、無事か!?」  腕の中で微動だにしない人型は、しかしなんの反応も示さない。おかしい。これは……、誰だ? 「離してください」  怜悧な一喝にびくりと身体が竦む。慌てて身体を離して目を凝らす。穢らわしい土埃のなかでも崇高なサファイアブルーを纏う彼は……。 「仁見、くん」  なぜ。どうして。祥馬は。  すべての疑問を承知だと言わんばかりの視線で、落ち着きなく乱れた動作や声を縫い止められた。 「さっき祥馬が撃破した百足武者は、マーテルではありません」  潔癖な彼の立ち姿の向こう側で、黄土色の霧が晴れる。  大百足の背から覗かせた恨めしい横顔が、ぐるんと眼球だけで朋坂を捉える。目が、合う。 「ッ、おぇ……っ!」  腐った卵色と、鮮血の赤がぐるぐるぐるぐるととぐろを巻いた眼球が、頭の中で際限なく拡大していく。内側から脳と頭蓋が押し広げられる感覚。あまりにも強烈すぎる頭痛が三半規管をもひっくり返してしまう。ありとあらゆる臓器が引き攣れを起こす。膝をついて嘔吐するも、強烈な吐き気は断続的に朋坂を苛んだ。  なんだんだ、これは……。  呻きながら視線を上げると、百足武者を潰すようにして二匹目の大百足が、三匹目の、四匹目の……、もう数え切れない。大百足の海だ。落武者の巨顔を生やしたものもそうでないものも折り重なり、うごうごと大海を形成している。 「マーテルなんかじゃありません。彼らは働き蟻です。レモラでしかありませんよ。本体は……別にいます」 「なん、……」  なんで、という疑問は声にはならなかった。絶句する。絶望という二文字が攪拌されたあたまの中で飛び交う。 「あれが、レモラだって……?」  眩む頭を必死に振って意識を保つ。目を凝らすと、祥馬がレモラの群れに向かって跳んでいた。真顔で、いつも罵詈雑言を並び立てている唇を真一文字に引き締めて、ただ集中を極めて鎌を振るっていた。 「あなたは後方へ。護衛はアストラが致します。マスターが待っておりますので、そちらで待機してください。念のために祥馬のアークは借りていきます。彼の障壁硬度はとても役に立ちますので」  仁見はそう言うと、返答を待たずに地を蹴った。蒼海の燐光。白檀の香りを残して、彼の純白の袴は夜空で翻った。どうやら祥馬の加勢に行ったらしい。  朱鷺と蒼海が激しい火花を起こしながら疾る光景は、朋坂の動揺を鎮めてはくれない。  それでも……、  迷惑をかけるわけにはいかない。指示通り、仁見のマスターが座す地点まで撤退しなければ。 『よう! こっちだぜ!』  透明度の高い、青の魚影が宙から霜の霧とともに急降下して、朋坂の眼前に身を踊らせた。 「アストラ!」 『悪ぃが、全力で走ってもらうぜ。説明は後だ、早くしろ!』  口を開けば百の揶揄を生み出す蒼魚が、憎まれ口を叩くでもなく朋坂の身体に纏わりついてくる。頷いて、震える足を殴って立たせた。力が入りさえすれば、歩ける。走れる。 『いやな予感がするな……』  仁見のアーク……蒼魚のアストラは低く呟き、全速力で走る朋坂を導く。背後で派手な爆発音がするたびに足を止めたくなったけれど、こころで負けてはいけないと言い聞かせた。  だって、そうしないと、今にも絶望で倒れてしまいそうだから。  

ともだちにシェアしよう!