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アスカトルのマーチ(1)

(1) 「ヨリ! 遅すぎ!」  いつものようにライオネルから襲撃を知らされ、祥馬は今までのぶんを取り返さんと意気揚々と駆けていた。空中に出現させたパステルの星雲を踏み台にして高く跳躍する彼とは違い、朋坂は年季の入ったマウンテンバイクに跨り、必死に漕いでいた。 「しょ、待っ……ッ!」  ぜえぜえと息を乱し、突然の運動に激痛を訴える脇腹を無視する。ふくらはぎなんて、今にも散り散りに爆発してしまいそうだ。それでも置いていかれるわけにはいかないので、必死に足を動かし続けた。止まれば死ぬ魚のようだ。スクーターでも買おうかと、酸欠に曇る脳内でそろばんを弾く朋坂の献身など露知らず、祥馬はひどく楽しそうに、跳ねる合間にくるくると身を翻していた。さながら回遊魚だ。緋色の尾をたなびかせ、漆黒の影なのにどの色彩よりも輝きを放つ、黒い金魚。月色の髪はかぼそい月影に光る。太陽などなくとも、立派におのれの力のみで光るのだ。  魔力が満タンに漲っているという精神的な余裕からか、祥馬はここ暫くの苦戦や葛藤を振り払い、表面上は普段通り、不遜で不適な調子を取り戻している。頬を打たれて儚げに微笑む貌も、弥言との思い出に引きずられうなだれる貌も、自身のアルマという特性が持つ、人間を超越した呪いの力もすべて夜の暗がりに置いてきたかのような清々しさで、重力の縛りすら彼方へと置き去りにしている。ただ自由に、あるがままに深夜を味方につけて泳いでいる。  雲ひとつない、冴え冴えとした冬の夜。街全体を深海に落とし入れるような青い月光は形をひそめ、沈黙する夜のビル群に透明度の高い月色のひかりを振りまいている。  猥雑な看板の照明や、蜂の巣めいたビルの明かりがすべて落とされているからだろうか。月光はアスファルトの粒ひとつひとつにまで浸潤しているように見えた。  夜の街が月光に溶ける。月光に、侵される。  朋坂もまぶたを下ろして、まばたきひとつの間に、唇の上にいつまでも残り続けるチョコレートの甘さと、やわらかい皮膚の感触を忘却した。 「あ、みっけた」  祥馬は身軽にバク転をして、身をひねる勢いに乗せて狙いを定める。先手必勝。いつも以上に手に馴染む愛用のサイズに魔力を乗せて振り上げる。片手での適当な一閃。切っ先から放たれた紅い粒子を振り撒く衝撃波は、飛距離が伸びるほどに拡散し、伝播し、標的地点を予想以上の範囲で焼いた。 「おぉ……、すごいな」  はてしなくうつくしい、雨上がりの夕焼けめいた朱鷺色の残火が夜に立つ。抉れた地面から巻き起こる土埃が晴れると、そこにはもう異形たちの姿はなかった。蛆虫に似た象牙色のレモラの群れを、ただ一度の振り払いですべて浄化してしまったのだ。ビルに這い上り、散開しようとうごうごとさざめいていたものもすべて、――――あまねくすべてだ。 「めっちゃめちゃ威力上がってんじゃん! 結構痛かったからなぁ、ヨリの補充。……あ、そうだ。ヨリ!」  おのれの放った焔風の威力に感心し続けていたが、祥馬はようやく我に返って我が主人の安否を気にかける。はるか上空にいたとしてもすぐに分かる。マスターの生命力が放つ光は……あそこだ。 「おっそ」   星空の階段を三段飛ばしで駆け降りて着地するや否や、肩で息をする朋坂に悪態を吐いた。 「毎回言っているけどね、もうすこし、ゲホ、速度を加減をして……」  後半はもはや言葉にならなかった。生意気な口を聞く祥馬はそれでもご機嫌なようで、酸欠に喘ぎながらも朋坂はわずかに安堵した。病的に痛ましい夜の儀式を引きずらなくて済む。  引きずらなくて……〝済む〟。  はっと目を見開いた。金縛り。 (済ませて、いいのか?)  夜毎に血を垂れ流す祥馬はたしかに朋坂がもたらす暴力によって傷付いて、その身とこころに激痛を刻んでいる。一秒ごとに、一瞬たりとも忘れずその現実を、事実を受け止め続けるべきなのではないか?  祥馬が元気だから悩まなくて済むだなんて、こころを持たない鬼畜の考えだ。祥馬は、マスターのこころを案じて無理矢理明るく振る舞ってくれているのに。 「暗い顔すんなって」  シルクの息を極寒の夜空に吹き付ける祥馬は、明るい声音でからりと笑う。 「ヨリのおかげで俺、こんなに戦えるんだぞ? 感謝してるくらいなんだから」 「……うん、」 「ほら、しゃきっとしろって。頼りないなあ」  喝を入れるように、馬鹿力で背中を叩かれる。本人は軽く小突いたつもりなのだろうが、その痛みたるや凄まじいものがあった。奇しくも彼の魔力の高まりをこの身で感じる羽目になるとは。 「いったいなぁ、もう! 」  大げさに身をよじると、弾けるような笑い声が転がった。つられて笑うと、しくしくと胸が痛んだ。いつだって励まされ、慰められているのは自分のほうだ。  寝入るいたいけな祥馬に、穢れを、与えたのに。 「あっはは、おっかしい。じゃあヨリ、俺はすこし先行して本体の場所を探ってくんね。ライオとちょびっとだけ留守番してろよ」 「無理……しないよな?」 「だいじょーぶ。俺の心配より、自分の心配してろよ。一応、護衛にライオを置いてくけどさ。今日も持ってるんだろ? クラブ」  祥馬の目線は、朋坂の手に握られたくだんのゴルフクラブに注がれている。あれほどレモラをぶっ叩いたのに、へこみひとつ付いていない。もはやこの強固さは、お守りにすら等しい。 「うん。いざとなれば、俺だってやれることはやるよ。心配いらない」 「心配しかできねーわ」 「そう言うなって。俺が言うのもなんだが、ライオは強いし頼りになるからな」 「当たり前。俺のアークは世界一強いもん」  祥馬の自信たっぷりのゆるぎない声に、ライオネルが嬉しげに高速回転する。はたからみればチープな恐怖映像だ。  軽快な応酬が続くが、祥馬がマスターを置いて先陣を切ることにかなりの躊躇いを感じているのは明白だった。軽口ばかりを叩いて、会話を引き延ばそうとしている。 「大丈夫、祥馬。俺、運だけは良いんだ」 「不運でこんなことに巻き込まれてるくせに」 「おい、野暮なこと言うなって」  祥馬は唇を尖らせて、足元の小石を蹴った。路地裏の青光りする水たまりの中で、波紋が広がる。 「俺は不運なんて思っていないよ。それに、祥馬は最強なんだろ? そんな祥馬のマスターになれた俺は、幸運ってことだよ。そうだろ?」  祥馬が顔を上げる。  愚問。爛々と輝く真紅の瞳から、そう悟った。 「信じてるよ、祥馬。……行ってらっしゃい」 「おう!」  拳を上げて破顔する子どもの顔。嫌な予感はしない。それでも……心配するなというのは無理な話だ。  軽いステップで跳躍して星々とともにあっという間に走り去る祥馬のちいさな後ろ姿をいつまでも見守っていると、ライオが背中をぐりぐりと押してきた。高いところへ行けという意味らしい。 「わかった、わかったよ。急ぐって」  ライオネルの力である程度の電子ロック類は解除できることが判明したので、先導してもらって近くの雑居ビルへと身を滑り込ませた。  祥馬がまた魔力を消耗させる。  そしたらきっと、今夜もまた……。

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