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メサイア・コンプレックス(2)

(2)  翌日の仕事はずいぶんと上の空だった。  昨夜の襲撃で朋坂も祥馬もずいぶんと痛いダメージを負ったが、ファミリア自体の攻撃は比較的に大人しかったため、そこまで話題にはなっていないようだった。とはいえ、いくら被害が僅少であったといえど、立派な襲撃事件だ。半透明なフィルターがかかったアルマの姿が何枚かネット上に上がっていたが、当然身元が分かるような情報はまるでない。遠くからマーテルを映した短い動画もあったが、それも画面全体が不自然なノイズや幾何学模様を描く靄に覆われていて、投稿主によるねつ造や合成ではないかと揶揄され、ちいさく炎上していた。  朝礼後に山辺と顔を合わせ、伝達と一緒に軽く世間話を交わしたのだが、全身の筋肉痛に顔を歪めてぎこちない動作を繰り返す朋坂になにを思ったのか、彼はウインクをしながらゴルフクラブを振るジェスチャーを交え、 「どうだった? スコアは」  と、呑気な一言を寄越したのだった。  まさか夜な夜な外出をし、もはや非日常というカテゴリから外れつつある襲撃に参戦して、譲り受けたゴルフクラブを振るっていたとは夢にも思うまい。そして、朋坂の骨ばった大きな手が、人類……、いや、ひとりの亡き養父のために獅子奮迅する孤独なヒーローの顔面を容赦なく殴打していたとは、想像すらしないだろう。  曖昧に笑い、朋坂は急いでいるふりをして親切な同僚の側から逃げるようにして立ち去った。普段なら、一区切りついたら一緒にメシでも食いに行くかとなるのだが、今日だけは、どうにか一人になりたかった。  社用車で座席を倒し、仰向けになって目を閉じる。いやに明るい二月の正午に、ビルの外壁がまっしろに照っている。まぶしくて片腕を目の上に置いて、ため息を吐いた。  と、うっすら眠りかけていた意識が突然のノックに覚醒した。 「は、はい!」  コツコツと窓を叩いていたのは、警察だった。慌てて飛び起きてウィンドウを下げた。 「休憩中のところ、ごめんなさいね。おたく、このビルの社員さん?」 「あ、ええ。そうです」 「お疲れ様です。一応、免許証の確認だけ良いですか」  拒否する理由もない。財布から免許証を出して差し出すと、すぐに返却された。警官は三十代なかばの爽やかな男性で、やわらかな笑顔を崩さない。が、柔和に細められた目の奥で値踏みをするようないやらしさを感じた。 「なにか、ありました?」  おずおずと聞くと、警官はふっと眼力を翳らせて顎を撫でた。 「いえね、この近くのコンビニで不審者が出たという知らせを受けまして。昨日のことなのですがね」  付近のコンビニと聞き、瞬時に祥馬が働いているコンビニを思い浮かべた。 「不審者、って……」  そして、次いで浮かんだのが失踪中だという上津田のことだ。あゆみの話で、上津田が通り魔のようにふらふらと徘徊しているということと、コンビニ付近で目撃されていたという情報が上がっていたことを思い出した。 (まさかな……)  考え込む朋坂に、警官が怪訝な表情を浮かべる。 「何か?」 「いえ、知り合いがコンビニで勤めているので、他人事じゃないなって思いまして」 「ああ、そう。それはそうだね。……なんでも、ふらっと入ってきた客が店員さんに掴みかかって恫喝したみたいで。そういうことは、稀にだけど起こっても不思議じゃないんだけどね。こう言ってはなんだけど、当事者でもない人間がわざわざ匿名で通報することでもないし」  当事者でもない、ということは、たまたま居合わせた他の客か同僚が通報したということか。 「だけど、その不審者っていうのが相当おかしな挙動をしていたみたいでね。もしかしたらお薬をしていて錯乱していた、っていう可能性が高いし。だからこうして地道に聞き込みをしていたんです」  警官の目がさりげなく、車内に巡らされるのを察知した。お薬、と指すものの痕跡を探っているのだろう。濡れ衣だ。が、感覚を鋭敏にして平等に嫌疑をかけるのが彼の仕事なのだから、ここでむっとするのは大人げないと思い、落ち着かない気持ちで頭をかいた。 「――ちなみにですが、お勤めは平賀文具メーカーさん?」 「ええ。そうです」  社用車に印刷されているロゴを見て、警官は何度か頷く。 「失礼なことを窺いますが、……その、気を悪くされないでくださいね。退職者や同僚のなかに、何かそういったことで心当たりのある人物がおられたりは」 「……は?」  突然、話が想像もしていなかった方向に飛んで、朋坂は鳩が豆鉄砲を喰らったかのように目を丸くさせた。 「たとえばですが、元同僚の方がこの辺りで頻繁に目撃された、とか。聞いたことありませんか?」  喉仏が上下するのを不審に思われないかと、肝が冷える。  上津田。  まだ彼が正気を保っていた頃の快活な笑顔が、脳裏で咲いた。  時代遅れの眼鏡と、丁寧にセットされた清潔な頭髪。やわらかな物腰。生真面目そうな雰囲気とは裏腹に、ざっくばらんで明朗な物言いが、彼の営業成績を底上げしていたように思う。  警官が目星を付けて捜索しているのは、間違いなく上津田だ。 「い、え……。ちょっと、私には解りません」  ようやっと声を絞り出すと、警官は鋭い瞳で押し黙り、やがて唇を引き結んでウインドウから離れた。 「そうですか。お時間を取ってしまい、申し訳ありませんでした。ご協力感謝いたします」  敬礼をして、くるりと背を向けた。朋坂はしばらく放心したあと、流れ込んできた冬風にぶるりと背筋を震わせ、ウインドウを上げた。  上津田先輩。  彼の影がいまにもビルから颯爽と踊り出してきそうな気がしたが、やはりそんなことはなく、彼の行方は想像の彼方で霧中をさまよい続けるばかりだった。    *   *   *  帰宅すると、祥馬はラグの上で丸まっていた。朋坂のセーターとスウェットを枕とブランケット代わりにして寝こけている姿はあまりにもあどけなくて、一瞬、足が止まった。  ネクタイを緩めながら、真上から祥馬の寝顔を見下ろす。しゃがんで、手に握りしめたままのプロテインバーをそっと外してやる。 「虫歯になるぞ」  苦笑を交えながら小声で苦言を呈し、口の端に付いたチョコレートのちいさなかけらを摘んだ。握っていた菓子が抜き取られた手は、こぶしがやんわりと開いた形で口の前に置かれているものだから、まるで今にも赤子のようにおのれの親ゆびを口に含みそうな格好になっている。忍び笑いが漏れ、慌てて口を噤んだ。せっかく気持ちよさそうに寝ているのに、起こしでもしたら可哀想だ。 「しあわせそうな顔して。弥言さんの夢でも見ているのか?」  思わず口をついて出た言葉に、自分でも動揺した。何度かまばたきを繰り返して、やがて眉根を寄せる。逸るような、どうにかしなければならないというような、妙にせき立てられる焦燥が胸を焦がす。  人差し指の上で、チョコレートが溶けていた。ちいさな、甘くてほろ苦い染み。その指が祥馬の唇を彷徨う。気がつくと、朋坂はその染みを追うようにして祥馬の唇に自身の唇を重ね合わせていた。 「う……」  無防備に軽く開いていた祥馬の唇のあわいから、寝苦しさを訴える呻きが漏れ出て、朋坂はようやく正気に帰った。 「お、れは……」  信じられなかった。  いまの自分の行動が。  寝苦しい真夏に見る白昼夢のような、一瞬の出来事だった。ファミリアの襲撃よりずっと希薄な、非現実的な一瞬。  震える手で口元を覆い、目を泳がせる。  これも、祥馬の首のうえで慎ましく輝くクリスタルの影響なのか?  まさか。  

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