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メサイア・コンプレックス(1)

 躊躇する朋坂をなだめるように、昨夜の戦いで欠けてしまった左耳の上部を撫でられる。祥馬の治癒魔法ですでに傷口は塞がっているのだが、完治したというわけではない。半円状に抉られた耳の切り口は、うす桃色の上皮に包まれてぴりぴりとした掻痒を湛えている。その過敏になった桃色の上皮を、祥馬はなんどもあやした。沈痛を胸の奥に秘めたまま、眉根を寄せて、なんども冷たい指で撫でた。祥馬のこまやかな指紋が微細でやわらかな刺激を与えるのを、朋坂は膝に目を落として享受していた。 (1)   『また、負けた。』  帰宅して一番に口にしたのが、そのことばだった。そして、 『あとで補充、頼むわ』  腹減ったから夜食を作ってよ、と独り言つのと同じ抑揚、同じテンポでそうこぼして、祥馬は浴室へと向かった。声をかける隙すら与えないほどに明確な、鉄壁のヴェールがちいさな背を護っていた。シャワーカーテンが閉まる音、カランが回る音、そして清流みたいな水音。非日常が日常へと洗い流されていく。血生臭い夜の幕が剥がれる。 「ライオネル。結局、俺は肝心なところで……、あいつを一人にさせてしまった」  直接的な戦力になれなくても、強烈な痛みを堪え、肉片を散らしながら文字通り身を粉にして奮迅する祥馬の戦いを、目をしっかりと開いて見守ることはできたはずなのに。  行き場のない不甲斐なさが、鳩尾で黒い龍となる。螺旋を描いて臓腑を食い荒らし、喉元からせり上がりそうになる。熱い塊が喉を圧迫し、呼吸が荒くなる。  自分を呪いそうになっている朋坂の背に、硬質で軽い質量の物体がぽすんとぶつかってきた。顔だけで振り返ると、ライオネルが背に額を付けていた。なぐさめてくれているのか、なだめてくれているのか。  きっとライオネルも、同じことを考えていたのかもしれない。  強固な障壁を自在に操れるライオネルは、しかしその力と引き換えに直接的な魔法を行使できない。仁見のアーク、アストラのように氷雪の霜柱を突き上げてファミリアへダメージを負わせることはできない。  それに、祥馬はライオネルの障壁を、全面的に朋坂へと注力させる。  もちろんそれが何よりも重要なことは、誰もが理解している。  けれど、ライオネルはもっと祥馬を護りたいはずだ。  おのれの持つ障壁にすべての誇りをかけて、だいすきな祥馬を護りたいはずだ。 「俺、もっとちゃんと強くなるからな」  完全に振り返り、ちいさな頭を抱き寄せる。こどもような、ちいさな頭。  こもったシャワーの音が鳴り止まない。きっといま、浴室は血のにおいで噎せかえるほどだろう。  排水溝に吸い込まれていく赤い湯を想像して、唇を噛んだ。    *   *   *  風呂上がりの祥馬の身体は格別にやわらかくて、あたたかい。湯でふやけているのに張りのある膚は、朋坂の拳をたおやかに受け止めた。  「イっ……、っはぁ、はっ、うぅ、」  ぐず、と鼻を鳴らして項垂れる少年のかたちの良い鼻から、ぼたぼたと血の塊が落ちてくる。それらは壊れた蛇口のように止まることを知らず、何度も、何度もフローリングの上に墜落しては血痕が乾くことを許さなかった。 「うっ……、げほ、ごめんな。一旦、休憩するか」  胃の底から湧いてくる吐き気を飲み下して、臓腑の痙攣をやりすごす。そして、項垂れるあたまを撫でた。やさしくする資格なんてないくせに。 「いや、らい……、らいじょうぶ。もうちょっと、あともうちょい、がんばって」 「……っ」  がんばって、なんて。 「祥馬……、ごめんな」  ごめん。ごめん。何百回もつぶやいたことばは祥馬には通用しない。もうやめようか、なんてとても言えない。  だって、これこそがいま彼を彼たらしめる、存在意義なのだから。 「いいから、もういいって。いいから、あとすこし、あと少しで満タンになる。だから……っ、」  陰惨にもほどがある光景から目を背けることなんてできなかった。朋坂はこの立体的な残酷絵を直視しないといけない。何度か右の拳を開閉して、感覚を確かめる。  謝罪をする暇があるのなら一刻も早く魔力を満たして、暴力の澱みから解放してやったほうがいい。〝こころを鬼にする〟というの言い分は詭弁だと思っていた。免罪符として持ち出す、卑怯でずるくて勝手な〝赦し〟の代弁だと思っていた。  こころを鬼にする。  今まさに、見下していたはずのその言い回しが脳裏に浮かんで。ひとのこころでは、到底こんな非道なこと、できるわけがない。 「……ッ!」  けれど、人間のこころを失くして祥馬に向き合うのは、それこそ鬼の仕打ちだと思うのだ。 『祥馬の体を傷付ける痛みを以って、あなたも痛苦を背負ってください』  仁見の声が寄せては返す蒼海の白波のようにリフレインする。  獣じみた唸り声を漏らし、歯を食いしばって渾身の一発を華奢な顔に叩き込む。せめてあと一発で終わらせてやろうという慈悲は、朋坂の想いとは裏腹に無慈悲な暴力へと昇華してしまった。心臓が痛いほどに暴れる。強烈な不整脈と目眩。血圧の乱降下。存外に力を込めすぎたようだ。祥馬のちいさな顎が破壊される鈍重な音に、寝室が一瞬、静まり返った。胃の底が締め上げられる感覚。臓腑を食い荒らしていた黒龍が満足げになまぬるい炎を吐く。 「ゥ、ぐっ……」  倒れ込む少年の姿を目の端に捉えながら、朋坂はバネのように跳ね上がり、一目散にゴミ箱へと向かい嘔吐した。 「っ、う……い、……より……?」  大きくぜえぜえと肩で息を吐いて吐き気を宥めていると、背後で身じろぐ気配がした。慌てて顔を上げ、弛緩しきった足を引きずる。しかし、立ち上がることはできない。情けなくも、腕だけで祥馬の元へと這いずった。 「しょ、ま……?」  手を伸ばすが、自身の拳にべったりとこびりついた血糊が手首のほうまで流線していることに気が付いて、はっと引っ込める。この、痛みばかりをもたらす手で触れてはいけない。あたまがいたい。 「だいじょうぶ、か? おい、祥馬……」 「う……。だいじょうぶ、ありがとう」 「あ、ありがとう、なんて……」  のろのろと上体を起こした祥馬の顔面の造形に、崩壊の形跡はいっさい見られなかった。垂れた血液はそのままだけれど、彼が首元のクリスタルに触れると、生乾きのそれすら細かい霧状へと変化してどこかへと消え失せてしまった。 「な。ほら、大丈夫だろ? そういうふうに出来てんだから、俺たちアルマは。むしろサンキューな。さっさと終わらせてくれて」  何かを言わなければ。そう思うのに、感情がゴム毬みたく跳ねて暴れ回る。片鱗すら捕まえられなくて、なにも言えない。なにも……、なにも、言えない。 「あ……」  情けなく瞳のきわから溢れる熱い涙を拭うと、祥馬は軽やかな笑い声を上げた。 「ヨリのほうが死にそうになってんじゃん。ウケる」  朋坂は両手で顔を覆ってその場にうずくまり、嗚咽を漏らす。垂れた首は、斬首を待つ罪人にすら見えた。  薄暗闇の部屋は汚泥のように閉塞している。酸素ごと塗り固められた息苦しい寝室は、祥馬の吐きだす吐息で清浄されていく。汚泥が靄のように、大海に落とされた墨のように融解していく。 「ヨリは、そのままでいてよ」  罪人は斬首を待ち続ける。けれど、振り下ろされるのは刃ではなくあたたかで柔らかい、未発達な少年のてのひらであった。見た目にそぐわない優しい手つきで頭を撫でられ、贖罪を受け入れられた錯覚に陥る。恩赦を感じられる身ではないはずなのに、痛苦を糧に生きる少年に救いを求めてやまない。  欠けた左耳を、慈しむ手つきでうやうやしく撫でられると、大声を上げて泣き出したくなった。  うしろめたい。  せめておのれの身体が無残に挽肉のように破裂して、彼の糧になるのだったらしあわせだったのに。 「そろそろ、魂のほうも補充しないとなぁ。……ああ、腹が減ったなぁ」  血生臭い儀式なんて何もなかったと言わんばかりに、いっそ興味すらなさそうに、祥馬はそう呟いて細い息を朋坂のつむじに吹きかけた。  神聖な息吹を浴びても、罪人が贖罪を終えて面を上げることはなかった。

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