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ガランティス演舞(3)

(3) 「きっもち悪ぃんだよ、下水に沈んでろクソカス! 死ね!」  威勢の良い声が高らかに響く。片手で振るう大鎌は、ゴキブリ型のレモラの海を灼き払った。辺り一面にひどい悪臭が立ちこめる。あまりに臭いに、祥馬は体勢を崩して着地し、おえぇと声を上げてしまった。 「ゲホッ、さいっあく。超くっせえ。吐きそう。だめ、吐く」  言うやいなや、祥馬は上体を曲げて幾度もえずく。涙と鼻水が同時に溢れ、急いで魔力で洟を蒸発させた。ずいぶんと間抜けな魔力消費だが、さすがに鼻水を垂れ流しながら戦う気にはなれない。 「もーほんっと無理。帰りたい。最悪。なんだよゴキブリって。ふざけんな。死ね」  本能のままに呪詛を吐き出し、路地に溢れるレモラの群れを魔力の風で吹き飛ばす。 「祥馬、早く本体を叩いたほうがいいんじゃないか? これじゃキリがな……オエッ」 「風下にいないほうがいーよ。臭いがやばい。焼くのはもうやめる。ごめんね」  相当な悪臭に自分でも後悔しているのか、祥馬は殊勝に謝罪して申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。 「気にしないで良……、オエッ。俺、しばらくメシ食えんかも。帰ってからの晩酌もいいや。塩辛とか当分食べたくない。賞味期限、近いのに」  大型犬サイズのゴキブリを、ホームランを打つ野球選手さながらに打ち返しながら朋坂は低い声を出す。飛び散る体液は、ライオネルの障壁が律儀に弾いてくれる。が、すっかり朋坂は意気消沈していた。 「太ってきたこと気にしてたからちょうどいいじゃん。……っと、あぶね」  レモラ同士が結合し合い、タワー状になった物体が祥馬めがけて倒れてくる。 「ライオ!」  しかし、その程度の陳腐な攻撃など、祥馬が鎌を振るうまでもなく、ライオネルの障壁に傷ひとつ付けることはできない。 「馬鹿の一つ覚えで特攻するしか能がないと思ってたけど、こんなこともしてくんのな」  ふうん、と祥馬は感心する。見た目はもちろん巨大化した害虫でしかないが、脊髄反射だけで行動しているわけではないのかもしれない。ビジュアルに騙されそうになるが、レモラはただ単に巨大化した虫ではないのだ。本質は、もちろん異界の生物。その身を構成するものももちろん、地球上には決して存在しない組織や遺伝子だ。 「これはゴキブリじゃない……、これはゴキブリじゃない……だから平気、平気」  祥馬は呪文のように唱え、息を整える。 「よし、早期決戦だ! ヨリ、ちゃんと付いてこいよ!」  鋭くも頼もしい声かけに、朋坂は青ざめた顔をはっと上げた。みるみる内に血の気を取り戻した顔色で、歯をこぼして笑う。こんな状況でも笑みを浮かべてしまうのは――――。 「もちろん!」  待っていろ、でも、逃げていろ、でもない。  〝付いてこい〟  その言葉が朋坂の胸を熱くさせ、無限の勇気を与えることに、祥馬はきっと気が付いていない。 「退けコラァ!」  勇ましくドスを利かせた声とは裏腹に、祥馬のブーツの踵からきらきらとこぼれ落ちるのは、やはりやわらかいパステル調の、乳白色の星々だ。砂糖菓子やマカロンめいたころころとした星々は祥馬が振り上げた足の動きに合わせて飛び散り、竜巻となってレモラの群れを遠くに吹き飛ばす。 「形状変更ォ! タイプ=ランス!」  獰猛な人狼を思わせる笑みを浮かべ、祥馬は鎌を振るう。振り抜きざま、その形状はまさしく〝槍〟状へと姿形を変えた。もちろん、ロッドの形状を変えるのにかけ声は必要ない。けれど、これは祥馬にとって大事な儀式のひとつなのだ。  戦闘でハイになればなるほど、アドレナリンが放出されればされるほど、恐怖心はかけらすら残さず吹き飛ぶ。消えてしまう。ただただ、いまはコンビニのレンジ前でつかみかかってきた男の言葉も、自問自答も忘れ、愉しい戦いに興じる。  いまこの瞬間の祥馬は、天帝であり、魔神であり、神将であった。  声に出し、最終的に具現化させたい魔法の〝かたち〟に名を付け、ことばにすることで底力を引き出す。炎神の仮面をかぶる。  それが自分を最強たらしめてきた、最大のマジカルだ。 「邪魔!」  飛んできたレモラを籠手で貫き、ランスを地面に穿つ。ルビー色の焔をたなびかせるランスの残光はそのまま地で燃え続け、高い火柱を月に向かって聳えさせる。 「もう一丁!」  同じ要領で、ひとつ、またひとつと魔焔の柱を立てていく。追従するライオネルが、柱と柱の間に障壁の膜を張る。  いま祥馬がレモラを弾きながら支柱と障壁で描いているのは、――――虫籠だ。 『どうにかして一カ所に集められないかな。ほら、普段はライオネルの障壁に俺たちが護られているだろ? そうじゃなくて、逆に、レモラを覆っちゃうんだ。そして一塊にしたものを、一気に焼く。そして、次のレモラが産み落とされる前に、マーテルを探し出して叩く。……ってのはどうだろう』  息を乱しながら果敢にゴルフクラブを振る朋坂がそう言ったのは、つい先ほどのことだ。  祥馬は目を見開き、ライオネルを見上げる。こくん、と髑髏もクリスタルをぴかぴか光らせながら頷いたのを確認して、祥馬は朋坂の背をばしばしと叩いた。いい作戦じゃん! と、にやりと犬歯を煌めかせながら。  そして今、その虫籠は完成に近付きつつある。障壁から漏れ出しそうになったレモラは、朋坂が小さく悲鳴を上げながら叩き潰している。 「明日は俺、筋肉痛で絶対に動けないよ」  額に汗を光らせ、ぜえぜえと肩で息を吐きながら朋坂は肩をすくめた。 「大活躍のお礼に、マッサージしてやるよ」  籠手にへばりつく体液や肉塊を払っておどけると、まんざらでもなさそうに短く切った前髪を掻き上げてくしゃりと笑う。 「ほどほどの力で頼むよ」  同じくくしゃりと破顔して、祥馬はくるりと朋坂に背を向けた。コートがはためく。  笑みを引っ込めて、面を上げる。魔力を帯びたルビー色の瞳が、障壁の中でうごうごと蠢くレモラの群れに見据えられる。  まるで水槽のなかで出口を求める、アシダカガニの群がりを思い起こした。歪で、おぞましくて、異形そのもので、そして……憐れな、いきもの。 「一瞬で終わらせてやる」  籠手に朱鷺色の焔が上がる。燐光の粒子達が互いに反発しあい、無限の火花を散らす。  軽やかな跳躍。鋭い金色の爪が付いた籠手を掲げる。魔力の焔が一層ふくらみ、巨大な火球にかたちを変えた。  祥馬の横顔が、うす紅い輝きに照らされる。鉄火や火の粉を粒子のようにまとい、コートは闇夜に羽を広げる。 「想像だ。俺のマスター……ヨリみたいに、想像力で新たな魔法を顕現させる。魔法は……」  自由だ。  火球が廻る。収束される。紙縒りのように練り上げられ、一匹の強靱ないきものの形になる。 「焔はいま、天を統べる炎龍となる! ピュリプレゲトン=ドラーク!」  即席の名を与えられたいきものは、祥馬の空想通り焔の龍の姿となって一直線に放たれた。灼熱の爆風から朋坂を護るように、ライオネルが小さな身で躍り出る。冥府に流れる炎の川を体現した炎龍は迷いなく虫籠をめがけて下降し、地表に頭がぶつかると同時に、祥馬の槍が作った炎の柱へと四方に流れていく。炎の濁流はしばらく続き、ようやく消失したのちには文字通り、塵すら残らなかった。 「はぁ……つっかれた。やっぱ俺って、想像以上に天才なんだな」  すとん、と地面に降り立った祥馬は肩を回しながら息を吐いた。 「おーい、ヨリ、大丈夫?」  焦土に目を瞬かせる朋坂に声をかけると、ひょろりと高い、影みたいな背が身体ごと振り返った。怪我はなさそうだ。ほっと胸を撫で下ろす。 「ああ、ライオのお陰でね。祥馬も大丈夫か? なんか、すごいの出てたけど」 「ぜんっぜん。よゆーすぎてヤバイ。それより、あんがとね。俺、ヨリのおかげで魔力の使い方とか、魔法の応用みたいなの? も、更に解ってきたかも」 他愛もなくそう言うと、朋坂の肩が大きく跳ねた。四白眼気味の黒目がきゅっと縮こまり、やがてじわじわと歓喜に震えるようにして破顔する。 「それは、よかった。ほんとうに……、よかった」  あまりにもやわらかい笑顔で、満足げな顔でそう言うものだから、とてつもない慈愛を感じて祥馬の方が面食らってしまう。ばつが悪くなってライオネルを抱きしめた。二の句が継げずに落ち着きなく唇を噛む。 「……なあ、いっつも思ってたけどさ」  灼熱の龍に抉られた地からはゆらゆらと陽炎が立ち昇っている。朋坂はゆらぎをしげしげと見やりながら、頬を掻いた。自身の発した声音の柔らかさに気恥ずかしくなったのか、口角を上げたままシニカルに瞳を細める。 「おまえ、夜中にこっそり神話とか調べてるのって、呪文のため?」 「それ、いま聞くこと?」  呆れたように目を眇める祥馬の耳がほんのりと色付いた。戦闘中は顔色ひとつ変えなかったくせに、朋坂の揶揄ひとつで頬を紅潮させる。 「調子に乗りすぎ。ほら、早くマーテルんとこに行って倒しちゃおうぜ。レモラの気配が消えたから、どこにいんのかすぐ分かるわ。ため池の方。あのでっけーとこ」  早口でまくしたてて、祥馬はふいと背を背けて歩き出した。  朋坂が大人しく後ろを付いてくるのを確認して、祥馬はチョーカーの先で揺れる紅玉をそっと握った。  魔力コントロールがうまくいかなかった。想像以上に消耗している。いつも以上に、魔力のほうに引っ張られるかたちで、思いもしないほどに流れ出てしまった。  本来なら、たかがレモラ相手にあれほどの魔力を放出しない。 (身体がなまってんのか……? こんなこと、はじめてだ)  腹の底から這い上がってくる、黒蛇のような不安がさらさらと形を解けさせて、臓腑に染み渡っていくようだった。 (中途半端に補充したせい? 不完全な補充だったとか、関係あるのか?)  幸い、朋坂は祥馬の不安には気が付いていないようだ。  魔力残量が思いのほか少ない。マーテルの巣に向かう前に、補充してもらったほうが良いだろうか。  祥馬がそう考えて振り返ろうとした瞬間、 「あぶないッ!」  衝突。朋坂の鋭い声とともに、背に覆い被さる体温。人の、重さ。 「うっ……、いっ、てェ」  ぐ、と喉が潰れたような呻きとともに、うなじにぽたぽたと温かい液体が降ってくる。錆のにおい。鉄の、におい。 「ヨリ!」  硬直しかけた身体に無理やり力を入れて、覆い被さる朋坂の肩を抱いて顔を覗き込む。  かたちのよい、ちいさなほくろが穿たれた右耳の上部が欠けている。そこからどくどくと血が流れ、朋坂の片頬をしとどに濡らしていた。後頭部も切ったのか、驚くほど出血量が多い。 「ヨリ………?」  萌芽しかけた記憶を撫でるように、弥言が着ていた木綿の着流しの袖が、ひらひらとひらめく。懐かしい白檀と寒椿に似たかおりを追いかけたくなるが、祥馬はその懐かしいかおりを振り切る。考えるより先に魔力を朋坂へと向けた。傷口を塞ぎ、出血を止める。 「ヨリ、ヨリ……?」  身じろぎすらしない朋坂は、しっかりと祥馬の腕を掴んだまま失神していた。以前から多量の血液を見ると、過去のトラウマから失神するのだと言っていた。ただ気絶しているだけなのだとしても、あまりにも危険すぎる。  そして、ようやく何が起こったのか、理解した。  力なく横たわる朋坂の向こう側に、煙る夜空を背景に据えて巨大な齧歯類――――ネズミ型のマーテルが鎮座していた。 (ため池のほうの反応は、ブラフか……? でも、どうやって)  でっぷりとした腹から飛び出た紐状の、ぬるぬるとした生命体。贓物がはみ出ているのかと思ったが、ごわついた毛皮から飛び出しているそれは、回虫だった。  ひとつひとつが丸太ほどの直径もある回虫がうぞうぞと蠢き、粘着的な音を立ててアスファルトにこぼれ落ちた。まるで悪趣味な出産だ。のたうち回る乳白色の虫を、マーテルが踏み潰す。踏まれた地点を軸にして虫は膨らみ、やがて膨張に耐えきれなくなる。水風船が弾けるようにして、膨らみきった虫は破裂した。緑色の粘液があふれ出し、そのなかでビチビチと最期の痙攣をした。回虫が抜け落ちたあとの皮膚は膿み腐って、肉色の穴が開いている。しかし、その穴から次の回虫が頭を出し、また同じようにうねうねと滅茶苦茶な動きで穴から這い出ようともがく。蠢く。  祥馬の腕に、びっしりと鳥肌が立った。  あまりにもおぞましい立ち姿に戦意を削がれるも、はっと気を取り戻して朋坂をかばい抱き、ロッドを構える。赤光が散り、鎌の刃が現れる。瞳が燃えるように、熱い。 「よくも、ヨリを」  怒りの本流がうねり、自分のなかで出口を求めてとぐろを巻くのを認めた。燃えさかる怨嗟の蛇が体内で暴れる。肉体という檻から解放しろと、祥馬自身にすら牙を突き立てる。  奥歯が砕けそうなほどに歯を食いしばり、朋坂の身体を離した。ライオ、と短く呼ぶと、髑髏はすっとマスターの前に立ちはだかり、どんなちいさな砂粒すら触れさせないという覚悟の闇を眼窩に漲らせた。  ずり、と踵を引きずる。脚力をばねのように跳ねさせ、飛ぶ。パステルの星が追従し、飛ぶ風圧は琥珀糖のきらめきへと変わる。  空中で一回転。愚鈍に立ち尽くすマーテルに向かって急降下。どんよりとしたマーテルの、ねずみ特有の黒目が回転する。緑がかった膿が飛び散る。 「首!」  首を苅る。ぶあつい脂肪に護られた頸に狙いを定める。ねずみは動かない。眼球だけが廻り続ける。  ひゅっ。  小さな風音。祥馬の眼前に、まっしろい波が見えた。 「ッ!」  咄嗟に身を翻して鎌を振り下ろす。狙いははずれ、刃はマーテルの肩口に刺さった。が、そのまま力を込め、押し開いていく。不自然に軽い手応えとともに、巨体に似合わぬほどに貧相な片腕が落ちた。  ごとんと鈍い音を立てて転がる腕が、執拗に痙攣を繰り返す。動きに釣られて目線をやり、眉を顰めた。本来手指がある箇所には、鈍く錆びた刃が埋め込まれている。異様な風体に注意が集ったせいで腕のシルエットから意識が逸らされていたが――――。 「ネズミじゃない」  この巨体は、カマイタチだ。  イタチ特有の細長い胴体は見る影もなく、腹のなかで虫が育っては絶えず排出されていく。腕を落とされたというのに、鎌鼬は鳴き声ひとつ上げず、あいかわらず鈍色の眼球を回すばかりだった。生命体としての統率を感じない。あまりにも無感動で、無表情で、――――気味が悪い。  眼球の回転とともに、祥馬の眼前、わずか数センチの距離で大気が圧縮し、そして渦を巻いた。風に色はないはずなのに、高度な圧縮のせいか、風が渦巻いて白く閃光する。それが打ち寄せる白波に見えたのだ。 「ッ、くそ……!」  圧縮が早い。超高速の鎌鼬が、一瞬で破裂する。 「ライオ! ヨリの近くで白い光が現れたら、ヨリじゃなくてその光を包め!」  先ほどの虫籠と同様に、護衛対象を包むのでは無く、攻撃そのものを障壁でラッピングした方が確実に相殺できる。ライオネルは理解を示し、いつ飛んでくるかもしれない攻撃に備えて集中する。 (なんだ、この違和感……)  あまりにも捉えどころがなさすぎる。  祥馬の危惧すら観取せず、マーテルは相変わらず沈黙していた。ただ、わずかに首を下げてアスファルトの上に転がるおのれの腕を見ている。腕の断面からはみ出た回虫の、ちぎれた胴体から緑色の血がスライム状にまろび出る。と、うなだれて見えた頭が緩慢に持ち上がる。玉虫みたいに照る眼球が、祥馬を捉える。  あ、と息を飲むその一瞬に、祥馬は自身の腹の感覚が無くなったことに気が付いた。生体活動そのままに呼吸をすると、胃の底から鉄錆の味がこみ上げてくる。 「ァ、カハッ……!」  強烈で、鮮烈な吐き気に咳き込んだ瞬間、ごぼりという重い音とともに喉奥からおおきな、おおきな芋虫が飛び出てきた。  ひ、と祥馬の喉が鳴る。眼球が揺れる。信じられないものを見たとき、たとえ生命の危機に直面したとしても、どうあがいても動けない瞬間があるのだと知った。  アスファルトの上に転がっていたはずの、マーテルの腕がいま、祥馬のうすい腹を貫通している。 「来るな!」  ライオネルが飛んでこようとするのを制する。  身体から切り離された身体の一部を操ることができるのなら、反応のあった地点と別の場所に瞬時に現れたことの説明が付く。  攻撃を加えたわけでもないのに、マーテルの尾は断裂している。が、その尾はいまこの場にない。 (尻尾を断ち切って置いてきたのか)  冷静に分析する傍ら、祥馬はこみ上げそうになる悲鳴をどうにか押し込めた。  歯の根が合わないほどに際立つ腹部の違和感、生理的嫌悪感に足が震える。虫を吐き出すときに喉が傷付いたのか、声がかすれる。喋ろうとするたび、血の塊がことばの代わりに幾度もこぼれた。 「う、ぅうあァッ!」  這うような声音で叫び、ひと思いに腕を引き抜く。腹の肉を、筋繊維を引きちぎりながら鎌が抜き取られた。こぼれ落ちそうになった腸を抑え、治癒魔法を腹に一点集中させた。朱鷺色の焔があたたかく祥馬の腹に空いた巨穴を舐める。痛覚は無理やり魔力回路を遮断させることで覆い隠す。一時的にごまかしているせいなのであとがひどく痛むのだが、四の五の言ってなどいられない。 「気っ色悪いことしやがって……」  多分に血が混ざる唾を吐き捨て、籠手に焔を喚ぶ。マーテルの錆びた鎌とは比べるべくもなく、透き通るほどに神聖な焔に包まれた鎌が燦然と煌めく。  予備動作すらなく、耳元で鎌鼬が弾けた。籠手で弾き飛ばす。鼓膜が破壊されたけれど、祥馬は顔色ひとつ変えない。  ――――灰燼すら残さない。  ゆらりと身体の軸がぶれるようにして一歩前に進む祥馬に、今までとはまるきり違う覇気を感じたのか、マーテルは本能で残ったほうの腕を掲げる。が、わずかに持ち上がった段階ですでに、その腕は胴体から切り離され、細切れにされていた。  回転する眼球がゆっくりと、賽の目状になった肉片を見やる。  きゅるきゅる……。  回転が増す。祥馬の足下が弾ける。同じように、アスファルトが測ったような賽の目状に細切れになる。ものまね。まるで傀儡の動きだ。祥馬は鼻を鳴らして、真四角の破片となったそれに魔力を纏わせて撃ち出した。焔の弾丸と化したアスファルトが、蠢く回虫ごとマーテルの腹に無数の穴を開けた。  痛覚の有無が推し量れないほどに無反応な生物に、祥馬は一気に距離を詰める。 「消えろ」  顔面を籠手で覆う。そのままゼロ距離で小爆発を起こすと、マーテルの頭部はやわらかい果実の如く、簡単に爆ぜた。脳漿が飛び散る。が、それすら意に介さずたるんだ太鼓腹が裂け、無数の回虫が触手のように伸びてくる。粘液をまき散らしながら飛んできたそれらをひとまとめに握り、引きちぎる。まるで腸を引きずり出しているみたいだった。 (さっきの爆発で魔力は使い切った。……あと武器になるのは、この両手両足だけ)  力任せに引っ張ると、ぶちぶちと千切れる音がする。と、いままで感情を見せなかったマーテルがにわかに動揺と痙攣を見せる。ずっと感じていた違和感の正体。やはり、マーテルの本体は回虫の方だ。カマイタチは器に過ぎない。回虫の巣。はらわたと化した虫を護る、皮。 「てめぇのいのちは、どこにある?」  回虫の源――――発生源は、おそらく膿んだ心臓だ。ためらいなく両手を突っ込んで、コアを握る。抵抗するように新たな回虫が伸びてくるが、歯で食いちぎって吐き出した。両手で心臓を掴んだまま、右足をカマイタチの横腹に突いて思い切り引き出す。 「巨漢のくせに、ちっせー心臓。おまえ、実は小心者だろ」  頭部と両腕を失ったマーテルは、それでもまだ蠕動する。あとはこの両手に収めた心臓を握りつぶすだけだ。それで、この気色悪い戦いは終わる。 「ばけもの……ッ!」  と、蠕動するマーテルの向こうに、へたり込んだ人間を見つけた。薄い頭髪をなで付けた、壮年の男だった。ずいぶんと酔っているのか、退避に間に合わなかったらしい。ふと、あの日にコンビニでつかみかかってきた男を思い出す。あの時の血走った眼が雷光のように浮かび、祥馬ははっと動きを止める。 「ばけもの! ばけもの! 来るなっ!」  男と目が合う。ずれた眼鏡の奥の、怯えきった目。おぞましい怪物を見やる目で、マーテルの巨体越しに祥馬を見ていた。 「お、れ……?」  瞠目する。  おのれの血まみれの手を見下ろす。握りつぶす間際の、異形の心臓。回虫がうねうねと手首に巻き付き、肉片が袖口を汚している。  おのれの口元の、ねばつく体液。涎と混じり合う異形の体液。血液。肉片。  腹を貫かれても動ける身体。  魔力制御に失敗しかけた、先ほどの自分。 「おれは……、」  ばけものか。  体温と感覚がすうっと消え去る。手から異形の心臓が転げ落ちる。それは地表で一度バウンドし、その勢いを借りて最後の力を振り絞った。 「――――っ!」  回虫が、祥馬の右眼を貫く。  何が起こったのかわからない。ただ、顔面の上で打ち上げられた魚さながらに虫が跳ね回っている。 「祥馬! 祥馬ぁ!」  朋坂の声と共に、足を引きずりながら駆けてくる足音を聞いた。 (ヨリ、意識が戻ったのか……よかった。それと、あれは誰だ?)  知らないアルマの気配。仁見ではない、本当に知らないアルマだ。漁夫の利を狙っていたのかもしれない。鞭がしなる音が遠くで聞こえる。おそらく彼の武器なのだろう。半狂乱になって「ばけもの」と連呼していた男の気配も、もう消えた。  朋坂が抱き起こしてくれる。マーテルの消失とともに、眼窩を圧迫していた回虫も霧となって消えた。  なにも、成し遂げられなかった。  結局、なにも。  もっと魔力があったのなら。もっと精密に制御できていたのなら。  マーテルの生体探知も正確に行えていたなら、朋坂だって怪我をしなかった。  あの時だってそうだった。弥言さんの時だって。  強くなったつもりでいたのに、同じ轍を踏んでいる。  守れなかった。結局、なにも。ぜんぶ。今も。昔も。  もっと、たくさんの魔力を管理しなければ。  もっともっともっと、もっと。もっと。         たすけて、ヨリ。

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