21 / 32

ガランティス演舞(2)

(2)  いつもならやかましく帰宅するはずの祥馬が、〝労働のごほーび〟なのだという極彩色のグミすら持たずに帰ってきたのですこし妙な感じがした。憔悴しきっていて、伏せた睫毛が下瞼に蒼い影を落としている。元々痩せ型だった身体が、より細くまとまってしまったように見える。生気がひどく薄まっている。 「どうした、祥馬。体調でも悪いか?」 「んーん」  ジャカードの派手な裏地がついたボアブルゾンを脱いで、祥馬はとぼとぼと冷蔵庫に向かう。ぱき、と扉が開いて、黄色い照明が寂しげな横顔をライトアップする。まるで月光に照らされているみたいで、ふと昨夜の儀式を思い出し、朋坂はそっと目を伏せた。 「ヨリ、わがまま言っていい?」  ラップのかかった豆腐の皿を持って、祥馬は振り返る。切実な表情と、生活感のありすぎる冷蔵庫内の背景があまりにもちぐはぐだ。 「なに? 何をしてほしい?」  ゆるく上がった口角は、諦めの笑みにも見える。なんでもしてやりたいという贖罪の気持ちは、不純だろうか。魔力補充に罪を感じていることは、祥馬にはあまり知らせたくなかった。  知らしめてしまえば、祥馬が気に病んでしまうから。  祥馬はやさしい。ともに過ごして、それははっきりと分かっていた。  自分が強くなるために必要な儀式によって朋坂が罪を感じていると、彼ももちろん理解して、納得しているはずだ。  それでも、理解をしているといっても、割り切れるものではない。朋坂が罪悪感にかられて嘔吐し、震えている姿を見て、やさしい彼が『仕方の無いことだ』と納得するはずがない。祥馬は、そう割り切れるほど強くない。  ピー、と甲高い音が鳴る。冷蔵庫が庫内の温度上昇に反応して警告しているのだ。  嫌な予感が足下から這い上ってくる。  困ったように微笑む祥馬が、うすい唇をひらく。警告音は鳴り止まない。なにに対して警告しているのか、わからなくなる。 「ヨリ、俺を、罰して」 「え……?」  さまざまな色の絵の具を落とした水が、マーブルを描くようにして世界がくらりと回る。身体が一瞬、軸をうしなう。 「俺を、罰して」 「祥馬……、一体、なにがあったんだ」  動揺に瞳が泳ぐのが、自分でも分かった。そのゆらぎを真正面から吸収する祥馬の瞳が、しずかに水気を増していく。絶え間なく湧き出る清らかな涙が膜をつくって、その湖面の中でしずかな焔が戦火みたくちいさな火花を起こす。  清流で泳ぐ、まっかな金魚を想像させる。 「おれ、は……、戦っていても、いいのかな」  戦いこそ、力こそがすべてだと、一切の逡巡もなく言い切っていた祥馬が、存在意義に迷いを見せている。  弱々しくむき出しにされたおさない彼の核を知らしめられて、朋坂の喉は低い音を立てて詰まった。大きくごつごつとした胡桃が詰まったように、喉が内側から際限なく圧迫される。  金魚を泳がせていたふたつの湖面が、かろやかに下方へと流れ出す。ぴんと張った下睫毛が、水面にたゆたう水草のように、涙の雫の重さに耐えている。  開け放されたままの冷蔵庫が、再度の警告音とともに素早く明滅する。光に誘われるまま、朋坂は大股で歩み寄った。祥馬は身じろぎもせず、朋坂の長い腕にかき抱かれる。 「祥馬に救われたひとは、たくさんいるよ。俺も、俺もそのひとりだよ」  折れそうなからだ。甘い、菓子のにおい。熱い体温。しずかな呼吸。生きている、ちいさな命。 「俺は、ずっとずっと、あこがれていたんだ。テレビで見るアルマに。立ち向かう姿に、誰にも功績を讃えられなくて、自分が脅威を退けたんだって胸を張って言えなくて……」  孤独な戦い。ありがとうと面と向かって言われることもなく、あたたかな声援でこころが満たされることもない。がらんどうになった一画で、人々が嫌悪する醜悪なバケモノに対峙して、ボロボロになって。 「痛みばっかりの戦いに向かうために、痛みを得て力を蓄えてさ。そんなこと、もちろん祥馬に出会うまでの俺はぜんぜん知らなかった。きらきらしたおとぎ話のなかの、ふしぎなヒーローを応援するみたいなふわふわした気持ちで、ただ鮮烈に、惹かれていたんだ」 「……うん」  ひどいノイズにまみれた画面のなかで、魔法少年は砂塵に巻かれながら立っていた。凜とした背中と、まっすぐ伸びたうつくしい姿勢で報道カメラに捉えられたあのアルマも、夜ごと怪物の血にまみれ、生傷を幾重にも拵えて、そして人間に暴行されて泣きながら力を蓄えていたのだろうか。  なんて哀しくて、――――なんてひどい話だ。  腕のなかに収まった祥馬は、小さく鼻をぐずつかせながら朋坂の背に手を回した。普段の馬鹿力とは結びつかまいほどにたおやかな力で、朋坂のシャツを掴んでいる。 「だけど、たぶん俺は、祥馬がアルマじゃなくても、……祥馬自身の強さに、あこがれていたよ」  ぴくん、と背中でちいさな反応があった。シャツを掴む指に力が入った。強ばる身体を解くように、痩せた背を撫でる。 「祥馬は、どうして戦っていられるんだ? 祥馬は、痛みを堪えてまで、どうして戦うことを選び続けてこられたんだ?」  ふわふわした猫毛が跳ねる頭に顎を乗せて尋ねる。思いのほかやさしい声音が出たことに、自身でも驚く。子を慈しむ親の声音だ。朋坂の胸に顔を押しつけていた祥馬がふいに面を上げる。瞳は正気を取り戻し、磨かれた黒曜石の虹彩をつやつやと光らせた。 「――――弥言さんのため」  芯を持った、鋭くも力強い声だ。先ほどの朋坂のやわらかい声とは対照的な、物質的な声。 「弥言さんを悩ませる原因になったファミリアをぜんぶ消し去りたい。弥言さんが生きていたこの世界で、あいつらが一ミリでも自由に動き回るのが許せない。だから、俺は絶対に戦うことをやめてやらない」  深い夜色の眼に、ふたたび陽が昇る。火柱が立つ。  ひとを暴虐に狂わせるひとみ。  このまま抱き締め続けて、渾身のちからでねじ伏せてしまいたいと思わせるほどの、ひかり。 「……それなら、迷う必要は無いだろ?」  痛みを選び取ってでも、堪えてでも戦う理由になる『弥言』という存在の大きさに、朋坂は頭の片隅が紅く燃え上がるのを感じた。  声音だけは、自分の喉から冗談みたいにやさしくこぼれるのに、もしかしたら祥馬に見えないのをいいことに、今この瞬間、般若みたいな顔になっているのではないかと不安になる。  そんなはずはないけれど。  そんなはずは、ないけれど。 「――――そう、だよな」  腕の中の身じろぎが大きくなる。するりと、なめらかな猫の動きで祥馬が身体を離す。追いすがるようにして腕を掴むと、祥馬は唇だけを歪めて笑った。 「弥言さんのために、俺は戦う」  言葉の強さとは裏腹に、祥馬の瞳の炎は種火のように、慎ましやかな炎上で燻っていた。魔力というものは、雄弁に不安や迷い、葛藤を語る。  ――――亡くなった弥言さんもそれを望んでいるのか。  そういった台詞を口にすることは、決してない。  これは祥馬の戦いなのだ。祥馬の戦う理由なのだ。そこに、弥言本人の意思や望みはいっさい関係ない。  祥馬の魂のために、誇りのために彼自身が決意した戦いだ。  だけど、もしもその隣にだれかが立てるのだとしたら、それは、〝今〟を一緒に生きている朋坂だけにちがいない。 「一緒に戦うよ、祥馬。俺も、一緒に戦うからな」 「ヨリ……」  握るてのひらのなかで、祥馬の血潮がどくどくと拍を刻んで、生命の灯をともす。瞳のなかで発現する焔とは違う、星明かりに似た灯りだった。弱々しい生命力が、朋坂のことばに呼応する。細い腕の中で、清らかな流れとなり小さな身体を巡っている。 「――――がんばろうな」  無理に笑顔を作ると、祥馬は安心したように笑った。うん、と幼い返事を返す。  がんばろうだなんて、ばかみたいに残酷なせりふ。  朋坂はあたまのなかで、自分を嬲り殺す想像をして瞳を閉じた。  俺を、罰して。      *   *   *  午前零時。  うすい雲がかかった夜空に、真綿でくるまれたような月光が淡く散光している。残業続きの日々であったが、ようやく明日はゆっくりと休日を謳歌できるという運びになり、帰宅早々ビールを飲んで早めに眠った。しかし、結局数時間眠っただけで、すぐに脳が覚醒してしまった。スマホに手を伸ばして時刻を確認すると、ちょうど日付を跨いだところだった。 「う……」  身体が痛い。深い疲労感が、血流とともに体内をぐるぐる回り、そしてへばりついている感覚。冷たい水が飲みたくなって起き上がり、居間に入る。うすく漏れていた明かりから予想していた通り、ダイニングに祥馬がいた。 「ヨリ、目ぇ覚めたん?」  緩慢に振り仰いで、スナック菓子をばりばりとかみ砕く姿に、妙な安堵感を覚えた。 「うん。結構眠ったような気がしたけど、まだまだ夜だな。はぁ……、祥馬、それ夜食か?」 「おー、ヤショク。ヨリも食う? イカ焼き味だって。今日入ってきたばっかの新商品なんよ。けっこー美味いよ」 「いいや、いらん。胃もたれする」 「おじいちゃぁん」 「うるさいぞ。おまえも夜中に菓子食ってられんのも今のうちだけだかんな。そのうち、食べたら食べただけ脂肪になるんだから。……お、やった、塩辛残してくれてたんだ。呑み直そうかな」  冷蔵庫を開けて塩辛の瓶が目に入ると、眠気は更に吹き飛んだ。浮き足立ちながら瓶とビール缶を取り出すと、祥馬は眉根を寄せて大げさに顔をしかめた。 「ビールも太るぞ」 「液体は太りません」  正論を適当にいなしてプルトップに指をかけ、まさに力を入れようとした瞬間――――。  ビカッという鋭い赤光に、ビール缶を取り落とす。  スナック菓子を摘まんで口を開けている祥馬もぴたりと止め、朋坂に目を合わせる。細い指に絡みついていた菓子のかけらがぱらぱらと、砂時計のようにこぼれる。 「……襲撃だ」  本能的に危険を連想させるルビー色の輝きは、テーブルの上で置物然として鎮座していたライオネルのクリスタルから生じていた。  祥馬は摘まんだままの菓子に目をやり、勢いよく平らげる。先よりも大きいかけらの菓子片が、買ったばかりのラグに容赦なく降り注ぐ。 「行くかぁ」  伸びをして、小さなあくびを零しながら、祥馬はさりげなくチョーカーに触れて魔力残量を確かめているようだった。結局、補充らしい補充は行えていない。とはいえ、あの夜、冴え冴えとした蒼い月光のステージで、祥馬の頬を何度か張ったので、満タンとは言えないもののいくらか残量が増えているはずだ。  祥馬はひとつ頷いて、ライオネルに手のひらを乗せる。指に残った塩気が着くのがいやなのか、表情が無いながらも、髑髏はわずかに頭を振った。が、大好きなアルマには強く出られないのだろう、拒否することはなくクリスタルから光を放ち、祥馬を照らした。  わずかな瞬きのあいだに、祥馬の衣服はいつもの戦闘服に替わっていた。 「いつ見ても不思議な光景だなあ。一瞬だったけど、どういう原理で服装が替わっているんだ?」  ジャケットを羽織りながら首を傾げると、祥馬は軍帽に似た帽子の角度を治しながら同じように首を傾げる。 「ヨリには見えてねーの? なんかほんと、アニメみたいな感じよ。靴が変わって、手袋がぴしゃんって張り付いて、……って感じだけど、へー、そっか。他の人間には一瞬で着替えてるふうに見えてんのか」 「時間の認識がねじ曲がってんのかね。奇っ怪だなぁ。……っと、そうだ。俺、これを持って行くよ」  電話代の横に立てかけていたゴルフクラブを手に取り、何度か握り直す。手馴染みの良い、高級なグリップだ。握りやすい。 「なん、それ」 「武器だよ。銃刀法に抵触しなくて、傘よりずっと強度があってリーチのある武器っていうと、これしか思い付かなくってさ。同僚に無理言って譲ってもらったんだ」  ゴルフなんかやらないだろう、と胡乱に目を見張った山辺の顔を思い出して、思わず苦笑がこぼれた。 「ふーん。……まあ、頼むから前には出てこないでよ。本当に」  以前なら、『そんなもん、持つだけムダ。邪魔』と一蹴していただろうに。祥馬は祥馬なりに、ともに戦いたいという朋坂の想いを汲んでいるのだろう。 「大丈夫。迷惑はかけないさ」  せめて自分の身くらいは守れるようにならなければ。  なにか言いたげな祥馬はしばらく朋坂の握った鉛色のクラブを眺めていたけれど、ひとつため息を吐くと諦めたてコートを翻した。裾を彩る金色の房飾りが月色に輝いて、クラブに光色の影を映す。  夜がはじまる。

ともだちにシェアしよう!