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マジックアワー
(1)
蒼光の硝子魚に先導されて駆け上がった屋上に、彼はいた。
竹間銀覚。
江戸の頃から連綿と続く超老舗呉服店の現当主という表の顔を取り払った彼は、寒々としたフェンスに寄りかかって怠惰に紙煙草を吹かしていた。
荒い呼吸とともに扉をぶち破る勢いで屋上に乱入してきた朋坂に一瞥すらくれず、紫煙を月光に吹き付ける。その姿は下界での戦闘など一切興味がないと言わんばかりの素振り。たとえ面と向かって対峙する日が来たとしても、おそらくは相手にすらされないだろうとは予測していた。していたけれど、ここまで一顧だにされないとは。
「……あの、」
水気の多い声に被せて、竹間は切れ長の瞳から放たれる怜悧なまなざしで朋坂を刺す。そぼ降る雨に濡れた黒曜石みたいな虹彩が、月光の下で刃物めいた輝きを見せた。
「朋坂さんですね。ある程度は承知しておりますので自己紹介などは結構です。私のことも、名前くらいはご存知でしょう。それとも、名乗りがいりますか?」
ほのかな煙草火が、午前二時の世界で蛍めいた運動を見せる。静かな、低い声。線が細いように見える竹間の外見にはあまり似つかわしくない、厚みのある低い声だった。柔らかだけれど取り付く島のない物言いに、身体の芯から威圧される。竹間はあくまでも悠然と気だるく煙草を吹かしているだけなのに、だ。
ごくん、と唾を嚥下して震える声を御する。
「いえ、大丈夫です。竹間さん、ですよね。仁見くんのマスターの」
気圧されまいとしていたのに、気付くと両手は緊張に拳を作っていた。竹間は鉄紺色の羽織の袖で口元を隠し、ふふと笑う。艶のある黒髪が生白い目元を舐める。慎ましやかな羽織紐にあしらわれた深海色の蜻蛉玉が、はかない月光を受けてちらちらと揺らめくのが気にかかった。その色は蒼のアルマを強く連想させる。
「さて、“下”はどうなっていますかね」
ぽとり。煙草がアスファルトに墜落した。竹間は当然のように草履でそれを踏み潰し、感情の見えぬ貌で眼下の街並みへと涼しい視線を滑らせた。
歴戦を誇る祥馬ですら、レモラとマーテルの姿を見誤っていたのだ。それだけでも如何ともしがたい緊急事態であるのに、竹間だけは戦乱の外側で、観客としての姿勢を崩さない立ち登る砂煙や爆音の一切に素知らぬ顔を見せ、口元に泰然とした笑みを刻むばかりだ。
『赤のマスター。見えそうか? いや、いい。あんまりフェンス際に寄らない方がいいな。……待ってろ、オレが見せてやる』
アストラが旋回して、口元の宝石に魔力を練る。
ジジ、というかすかな電子音に続き、夜空をスクリーンにして遠くの戦闘風景を投影させてくれた。ライオネルがやってくれていた、あれだ。目礼をして、蒼魚の隣に並んだ。
『チビアルマの気配は濃いからすぐにわかるぜ。ほら、ここだ』
「ありがとう、アストラ」
はじめて出会った頃よりもずいぶんと殊勝な態度なのは、真のご主人様である仁見がそばにいないせいであろうか。憂色を浮かべたアストラが八の字を描くたびに、水気の多い冷気がふよふよと漂う。歯が鳴りそうになるのを必死に堪えた。
「……なんか、圧されてないか?」
動揺に半歩ほどよろめいた。
投影された風景は、朋坂たちにとって芳しくない状況だった。レモラの海は依然として数が減っておらず、二人が片付ける端から洪水のように後続の波が押し寄せていた。
『ちくしょう、ヒトミの魔力が尽きかけている』
アストラは活気のない声音で零し、堪えきれない不安感から旋回速度を速めた。冷気が勢いを増し、今度こそ歯がかちかちと小刻みに鳴った。
「アストラ。朋坂くんが凍えるぞ」
『あ、す、すまねえ。悪いな』
竹間の一声にアストラは申し訳なさそうに身を縮めて速度を緩めた。けれど不安は刻一刻と倍加していくのか、落ち着きなくふらふらと緩慢な弧を描きながらの旋回はやめようとしない。仁見を案じる気持ちは痛いほどに理解できるので、その挙動を咎めることはできなかった。
「なあ、アストラ。ライオネルと交代したらどうだ? 仁見くんを援護しに行ってやってくれ。このままじゃ共倒れだ」
『でも……、オレにはあのボロ骸骨みてぇに強い障壁は出せねえ。駆けつけたとして、援護に足るか……』
覇気のない声に、朋坂は面食らう。とても初手から煽ってきたあのアストラとは思えない。
「おいおい、なんでそんなに弱気なんだよ。よく知らないけど、アストラにはアストラにしかできないことがあるんじゃないのか?」
『オレにしか……』
蒼魚は奇妙な格好でぴたりと制止し、遠くで上がる狼煙にも似た黒煙を見据える。
「ライオは障壁こそ大得意だけど、攻撃には特化していないんだ。その点、おまえはそういった事もできるんだろ?」
矢の姿に化け、おのれを武器に転じさせることだってできたはずだ。
祥馬に並ぶくらいに不遜であるはずのアストラがこんなにも弱気になっているということは、この事態は仁見やアストラにとっても予想していなかった展開なのだろう。
『そう、だな。けど……』
本心ではすぐに飛んでいきたいのだろう。けれど、仁見本人からの言いつけもある。逡巡と葛藤に揺れるアストラの青瑪瑙の眼球がきょろんと動き、竹間の顔色を窺う。その視線を知ってか知らずか、竹間は瞼を下ろして顎をしゃくった。
「私には仁見くんの“指”があります。すこしの間なら彼と二人きりでも問題ないよ。……あの子をこっちに寄越しなさい。補充を行います」
『……承知』
補充という行為についてアークがどういう感情を抱いているのか知るよしもないが、動揺の陰を窺わせるには十分だった。しかしすぐに迷っている時間はないと折り合いを付けたのだろう。蒼魚は矢の姿へと変化し、光すら凌駕する速度でぱっと夜空を翔んだ。
「わっ……!」
後に残された氷の鱗粉はぱらぱらとアスファルトに落ち、しばらくの間、迷いを残すように溶けなかった。アストラの迷いを引き継ぐようにして、朋坂は竹間と向き合う。
「仁見くんが帰ってきたら、補充を……するんですか?」
魔力補充の対価がいやでも脳裏に浮かぶ。祥馬のかよわい頬骨に食い込む己の拳の感触がこころに粘つき、絡みつく想像。想像のなかで、祥馬の顔は仁見の繊細な相貌に変容した。
仁見のすべらかな白い頬にダリアの大輪が咲く瞬間を朋坂が目撃してしまうのは、いくらなんでも気の毒だと思ってしまうのだ。年頃の男子は、おのれが弱るところを、ましてや正当な理由があるにしろ大人に暴力を振るわれるところを見られたくないのではないか?
朋坂の問いに合点がいかないのか、竹間はフェンスに凭れたまま首を傾げた。
「当然でしょう。でなければ、仁見くんの身が危ういのですから」
それは、そうなのだ。確かに間違っていない。
「なら、仁見くんが帰還したら俺は一度、建物に入りますよ。……彼だって、第三者に見られるのはいやでしょうから」
「貴方がそうしたいのなら、お好きにどうぞ。……それはそうと、朋坂さん」
「なん、でしょう」
改まった口調に、朋坂は返答を噛む。
「……明らかに、以前と比べてファミリアの様子が異質。というふうに思いますが、同意されますか?」
「……は、」
「うちの仁見くんも、“あれ”がマーテルなのだと、本体なのだと信じて疑っていなかった。ここで観測していましたけれどね、そちらの九吹くんと百足型レモラの力は拮抗していたように見えました。本来、彼ほどのアルマならば、拮抗どころか一人でだって圧倒できていたでしょうね」
含みを持たせる言い方に朋坂は顔を上げて瞳を眇めた。〝本来〟と強調する物言いは、まるで祥馬の弱体化は朋坂に起因していると非難しているようだった。
「敵は段階的に強くなっている。ともすれば、今は凌げたとして、はたして次はどうでしょうか」
「……分かりませんよ、そんなことは」
気圧されながらもそう唸ると、竹間は細い柳眉を持ち上げた。反抗的ともとれる朋坂の返答は、予想外のものだったのかもしれない。
「手放しに大丈夫とは言えません。だけど、俺は祥馬を、そして仁見くんを信じています。彼らが負ける未来を冷静に分析するなんて無粋な真似、できませんよ」
九吹祥馬はプライドが高い。アルマとしての在り方に誇りを抱いていることは、ともに過ごした短い時間のなかでも一番に見えていたことだ。マスターであるおのれがはなから悲観して敗北を予感しているなんて、生命を賭して戦い続ける彼に対して不義理でしかない。
「俺はこうして遠くから傍観することしかできないけど、だからって祥馬に諦めたり、ましてや勝敗の天秤を物知り顔で測ったりなんて絶対にしたくない。永遠に勝利を願って、信じてやることもマスターとしての責務だと思っています」
たどたどしくも、闘志の宿った言霊。言葉にしながら、まるで勝ち鬨を上げるかのようにして背筋がぶるりと震えた。妙な高揚感に支配されて、両腕にぽつぽつと鳥肌が浮き出るのが自分でも分かった。
竹間の表情は変わらない。青臭い、希望的観測に満ちた若輩者のことばに呆れているのか、――――それとも、知ったような口の聞き方に怒りすら覚えているのか。
彼がその気になれば自分のような雑魚が消し炭にされてしまうことなんて本能で解っていたはずなのに、おのれの言葉に発破をかけられて気が大きくなる。ここで睨まれたからといって尻尾を巻いて逃げては、遠くで生死を賭して奮迅する祥馬に顔向けができない。マスターにはマスターとしての、引けない戦いがある。
まんじりともしないわずかな対峙の末、竹間はひとつ短く息を吐いて扇子を広げた。
「なかなか対話をする暇もありませんね」
竹間の瞳がすっと細まる。次の瞬間、
ドウッ――――!!
「なっ……!?」
銀色の突風が粉塵を巻き上げる。風圧によって滅茶滅茶に歪められたフェンスに、棘の生えた細い、細い脚がかかって、……びっしりと生えた棘の一本一本に、真緑色の粘液が、あれは、肉を一瞬で融かすほどの粘毒……。
「竹間さん!」
祥馬たちの遊撃に引き付けられていた大群から外れた一匹が、マスターの香りに釣られてこちらに襲来したのだ。
「大丈夫です。すぐにアストラたちが帰ってきます。……決して目を合わせてはいけませんよ」
手にした扇子を眼前に翳し、竹間はレモラを捉えてなお、動揺の欠片すら見せない。正常で、平静で、ただ瞼だけをすっと落とす。まるで神前で舞を披露する演者のような崇高さを秘めていた。故に、彼の唇が狡猾な笑みを象ると、底冷えのする薄ら寒さを感じてしまうのだ。
「私は以前、大怪我をしましてね。幸い後遺症もなかったのですが、仁見くんが大層こころを窶しまして、詫びを入れると言って聞かなかったんです」
朋坂はことばを呑む。すぐ近くに、これまでのマーテルに匹敵するほどに練度の高いレモラがいるというのに、まるで世間話を披露するみたいな余裕を持って、竹間は嗤う。
「あまりにもしつこいものですから、それならばいざという時に自衛ができるよう、アルマの力をほんの少しだけでも分けてくれないかとお願いしたんです。ほんの少し……指の先ほど、ね」
扇子の奥で、竹間は喉を鳴らした。せせら笑う、とういった表現がしっくりと当てはまる、裂けた笑み。悪魔の笑みだ。
がしゃ、がしゃ、がしゃがしゃがしゃ。
緩慢だったレモラの動きが俊敏になる。鋼鉄な音を鳴らしながらフェンスを越えらんと上体が持ち上がり……大百足の背がばっくりと割れる。正体を現す。
「竹間さ……ッ!」
「心配には及びません」
慌てて肩を掴んで引かせようとするも、朋坂の手が届くよりも早く、竹間は漆黒の足袋に包まれた足を踏み出した。
危ない、と声を発する暇もなく、紺碧の閃光が視界を蒼く、蒼く灼いた。この光は仁見の操る蒼とまったく同一の光度と光明。閃光は一塊の球体に収斂し、竹間の骨張った大きな掌の上で律動し続ける。
「仁見くんの力の、ほんの一部を御守り代わりに拝借しているのです。……まあ、その代償として彼は自らの足の小指を切り落としたわけですが」
「切り、落とした……?」
絶句する朋坂に、竹間は視線だけを投げかけて振り返る。光球から放たれる聖なる蒼光が、白い貌に青褪めた陰影を作るのを呆然と見詰める。
「御守りというよりも、呪具のようなものですね。清いものではありません。仁見くんの痛苦、後悔、懺悔、怨嗟、恐怖。そういったものがありったけ込められているわけですから」
うつくしい造作の指が光球に触れる。すると竹間を護るように、光球から光の矢が幾重にも錬成される。殺意を隠そうともしない、矢の盾だ。閃光をまともに浴びて前後不覚に陥っていたレモラの巨体がゆらりと揺れ、わずかに後退したかと思えば助走を付けて跳ねた。月光を背に、歪な巨頭を軸にして大百足の体が痙攣する。落ちてくる――――!
「自らの手で殺したいからこそ、あの子は懸命に私を護っているんですよ」
指を切り落としてでもね、と付け加えられたせりふを彩る、場違いなまでに穏やかな口調。しあわせを噛み締めているような声音を笑いで湿らせて、竹間は愉しそうに指で光球の側面を撫でる。
危機を感じたのは、レモラの方だった。本能で自身を脅かす脅威を察知したのか、標的を竹間にのみ集中させる。
しかし、レモラの跳躍によって生じた爆風すら、矢の盾がすべて跳ね返してしまう。微風にたなびく羽織の袖がひたすらに優雅で、竹間の“マスター”としての威厳をありありと見せつけられる一幕となった。
「落とします」
竹間は振り上げた手を緩慢に下ろす。矢の盾が陣形を崩し、迫り来るレモラの巨影に向けて一つ、また一つと高速で飛んでいく。
『――――――――!!!!』
レモラは自身を貫く魔力の矢に、地響きを伴う無音の絶叫を迸らた。細長い巨体を捻り、あるいは波うたせながら迫りくる矢を回避していく。
「案外、動けるものですね」
感心したように顎を撫で、竹間は口角を上げた。
矢と巨体。面と点ではこちらに分がある。屋上に到達することなく眼下の路地に墜落したレモラは衝撃などものともせず、棘の脚を蠢かせてすぐに体勢を立て直した。とぐろを巻き、幾本もの微細な触手を蠕動させてビルの表面を駆け上ってくる。
「来ますよ」
焦燥する朋坂をよそに、竹間は相変わらず綽然としていた。たかが一匹のレモラになぞ興味がないと言わんばかりに。
「さすがに、撃退は無理ですね」
竹間はため息交じりに、羽織の紐止めの蒼球に触れた。
「けれど、実物の矢と一緒にされては困りますね。得体の知れない力から錬成された矢なんてものは、物理法則すら通用しないのですよ」
ホーミングアロー。先ほど、レモラに命中しなかった幾本もの矢が、上空で軌道をゆるやかに曲げて目標を地表へと移した。射出時の威力はそのままに、撃ち落としそこねた標的に向かって急降下していく。
命中、また命中。背後からの追撃は想定外のようだった。二度目のレモラの絶叫。一帯の硝子という硝子がすべて弾け飛ぶ。
「っぐぅ……ッ!」
左手首で破裂した腕時計の破片が無慈悲に皮膚を貫く。幸い血管は掠っていなかったが、一瞬、あたまのなかが真っ白になった。血。真っ赤な血液が……。
慌てて口元を手で覆う。汗ばんだ掌が吐き気を誘因したけれど、さきほど胃の中身をすべてぶちまけてきたところなので、大事には至らなかった。万が一にでも竹間の目の前で嘔吐でもしようものなら、盛大に睥睨されそうだ。
スカイブルーの矢はレモラの体を屋上に縫い留めていた。胎動めいた光を放つそれは消え去る予兆すら見せない。暫くは杭となり、レモラの動きを封じてくれるようだ。
気になるのは、その巨体。屋上には収まりきらず、百足の身体はだらりとビルの側面から垂れて、地表ではとぐろを巻くようにしてめちゃめちゃに折り畳まれている。重さで建物が傾ぎでもすれば、さすがの竹間でもどうにもならないだろう。
「今のうちに、場所を移しましょう」
眉ひとつ動かさず、竹間は振り返った。その背後で、星灯りのまばゆい夜空をスクリーンにして、巨体が、細長い身体をバネ状にしならせてこの建物ごと押しつぶさんと高く跳躍していた。絶命寸前のレモラの、最期の賭け。みずからの生命を賭し、一矢報いろうと死に体に鞭を打ち、肉片を飛び散らせながら矢の檻を抜けたのだ。
「危ないっ!」
しかし、竹間は瞳を細めるままだ。
「――――おいでませ」
凜とした声に呼応するかのような、蒼い嵐。
朋坂の焦りを一瞬で吹き飛ばすほどの、蒼海の長大な矢が幾億もの雹粒とともにレモラを奈落へと穿った。
この蒼い光。極寒の風花。かつん、と響く硬質なヒール。
この力の源は――――。
「魔力が尽きたと報告を受けていましたが、まだまだ元気なようですね」
一瞬遅れて吹き荒れる氷点下の爆風は、フェンスに歯牙めいた氷柱を幾重にも纏わせた。
「どうせ退屈しのぎに遊んでいたんでしょう、マスター。あまり余裕ぶるようであれば、その玩具は取り上げますよ」
瓦解しかけの屋上に降り立った仁見は侮蔑の視線を主人に向けて、魔力の残炎がくゆる弓をロッド状に戻した。純白の羽織が羽のようにふわりと風を孕む。
「嫌ですよ。大体これは、仁見くんが自責に耐えかねて自分で指を詰めたものでしょうに。きみの身体から切り離されたものを私がどのように行使しようが勝手ですよね」
「……あれは、ほとんど脅しでした」
仁見が睨み上げると、竹間は愉快そうに唇を弧に歪める
「まあ過去の話はいいじゃないですか。どちらの解釈が正解にしろ、仁見くんはどんな手を使ってでも私を護らねばいけないのですし。……さあ、こっちに来なさい。補充を済ませてしまいましょう。そしてまた、再度あの地へ」
あの地、というのが、今この瞬間にも粉塵を巻き上げているビル街の一角であることは容易に窺えた。あの土埃は祥馬の攻撃によるものなのか。それとも、祥馬が地に倒れ伏した衝撃によるものなのか。
「……朋坂さん」
竹間へと亀の歩みを続けていた仁見が、追い越しざまに小さく耳打ちをする。
「私が戦闘区域に戻ったら、交代で祥馬を下がらせます。きっと私の力ではマーテルまで届かない。あなたも、魔力の補充の覚悟を」
冷たいけれど、どこか頼りなさげで、懇願すら窺わせる虹彩がわずかに揺れる。朋坂は少年を安堵させるためにしっかりと頷き、小さく彼の肩を叩いた。激励と、ほんのすこしの憐憫を込めたスキンシップは、来るべき痛苦に緊張するくちびるをふっと弛ませることに成功した。
「ありがとうな、仁見くん。祥馬と一緒に戦ってくれて」
「……いえ」
アイスブルーのクリアな瞳が柔和に細められるさまはあまりにも美しく、そしてあまりにも無垢だった。……そして、あともう十秒ほどでもすれば、その美しい瞳は容赦ない暴力に潤むのだ。
なんて惨たらしい代償なんだ。
燦々たる蒼海の矢は、こんなにもいたいけな懲罰の果てに錬成されるのか。
祥馬のためにも戦場へ戻る力を宿さんとする彼を辱めてはならない。その一心で、朋坂は屋上を後にした。錆びついた扉が硬質な音を立てて締まるのに紛れて、冷え切った頬を張る甲高い音が聴こえたような気がしたけれど、きっとそれは、いまここにはいない蒼魚が夜空を跳ねた音なのだと言い聞かせ、歩みを止めなかった。
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