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マジックアワー(5)
* * *
「てめぇで最後だぁッ!」
落ち武者の生首を生やした最後の一匹を鎌で串刺して、踵で頭を踏みつけて脳を破壊する。びくんびくんと跳ねる百足の胴体を蹴飛ばし、おまけにつばを吐く。
「次のレモラが湧いてくる前にカタを付けねぇと」
祥馬は鎌を振り、刃にこびり付いた脂肪や血液を飛ばした。
「おいアストラ。この下に居るのは間違いねーんだよな? なぁんの気配もねーけど」
霜の煙霧で祥馬の奇襲をサポートしていたアストラは、胡乱な眼差しを一蹴する。
『いや、ちょびっとだけど、たしかに臭いがしてるぜ。……地響きが近い。……おい! 昇ってくるぞ!』
アストラが言い切る前に、足下のマンホールが一斉にはじけ飛んだ。
『クスイ!』
噴き上がる瓦礫に潰されなかったのは、アストラが咄嗟の判断で生成した堅氷が盾代わりとなったお陰だ。勢いを殺された巨大な瓦礫を鎌で薙いで、次いで飛んできた街路樹は足で蹴飛ばした。
「あっぶねぇ。待たせた割に、ど派手な登場じゃん。どれどれ、どんな姿を……」
と、余裕ぶっていた祥馬の声音がそこでぷつりと途切れた。
「髪の蛇?」
正確には、注連縄……。黒光りする髪の束がうねうねと地表から伸びて、切れ切れになった毛束が雪のように舞い落ちる。
祥馬は自身が怯え、そして両足が畏れに震えていることにようやく気付いた。
「なに……、これ」
全身が震える。寒い。おのれの体をかき抱き、白く凝った息を吐く。歯ががちがちと鳴る音がうるさい。〝怖い〟という感情を、制御できない。
いままでだってグロテスクな敵ばかりだった。人間の生理的嫌悪感を直接刺激するような虫が大抵で、すでにそんなものには慣れたつもりだった。
しかし、意思を持ち、くねる巨大な人体の一部というのは、こんなにも気味が悪いものなのか。
それに、――――なぜだ。なぜこんなにも、神仏を〝穢している〟気がするのだ。
『ル……ルル……、るー、るーーるるーる……、るるーるーる』
すとんと足から力が抜け落ちる。その場に膝を着いて、祥馬は右手に持ったままの鎌を持ち上げる。
『ばかクスイ! 唄を聴くんじゃねえ! 耳を潰せ! 死ぬよりましだ!』
アストラの叫びは、しかし遅すぎた。祥馬はぽかんと開けた口からよだれをひとしずく垂らして、鎌の切っ先をためらいもなく己の頸動脈に添えた。
『バカッ!』
慌てて氷柱を飛ばして鎌を弾こうとするが、祥馬の弛緩した身体とは裏腹に、切っ先は微塵も揺るがない。しろい頸の表皮が裂ける。
『るー、るる……ルル。ルル、る……る、る。る。る。る。る。』
小刻みにふるえる異界の唄。不思議な節を付けて、喉を突っかえさせる唄い方。壊れた蓄音機のように、まき戻る。単音が永遠に巻き戻る。まるでモールス信号のようだ。祥馬のうちに眠る潜在意識が必死に自害衝動と闘い、切っ先をどうにか押し込めようとしている。
『クスイ! 耐えろ! オレがなんとかしてやるから!』
「ハー……、ハー……、」
大きい呼吸を繰り返す。鎌を握る両手はぶるぶると震え、汗が玉を結んでこめかみを流れている。瞳孔は開ききっており、深紅の虹彩は不安になるほどに微細な震えを見せていた。
『このっ、クソが! 唄うんじゃねぇ!』
アストラは憤怒のまま、そびえ立つ漆黒の注連縄へと光速で駆けた。しかし、密度の高い髪束は千切ることが精一杯で、なかなか切断とまではいかない。何度か氷刃に化けてがむしゃらに切り込むも、髪束は切れた端からすぐに伸び、アストラにえぐられた箇所をより強固に覆ってしまう。完全なるイタチごっこに、アストラは舌打ちをして眼下の祥馬を見やった。
『オイこら、チビ! てめえ! こんな気色悪ィ洗脳ごときに負けるつもりかよ!』
もはや怒りは祥馬にすら伸びている。
けれど、揺れる焔の昏い眼光は拡散し、闇のようにとぐろを巻くばかりだ。
「みこ、とさ……、いま、会える。いま、会いにいくね……」
祥馬の青ざめた顔は、しかし恍惚にしっかりと彩られていた。ひどい熱に浮かされ、荒い息を煙のように吐き出しながらうっとりと鎌を頸に宛がっている。
『ふっざけんな! 天下の最強アルマ様がこんなところで終わるつもりかよッ!』
もはや祥馬を止めるには、彼を傷付けて昏睡させるほかない。最終手段だと思っていたが、その時は案外すぐにやってきてしまったということだ。
『恨むんじゃねえぞ』
アストラは覚悟を決め、忌まわしい注連縄から地上の黒衣へと標的を変更する。魔力を一点に集中させ、なるべく痛苦をかけないよう、細く、細くキリのように練り上げた。
――――――ヒュッ
しかし、矢に変化して祥馬の右腕を切断しようとしたその瞬間、蒼い雪花を纏った矢が祥馬の二の腕を貫通した。
「…………ッ!」
声にならない絶叫が祥馬の喉からほとばしるも、歯を食いしばって声を堪えているさまが背のわななきからうかがい知れた。理性が戻っている!
唖然とするアストラは、おのれの脳が揺れるのを感じた。
この矢は、間違いなく仁見の魔力を帯びている。けれど、バタバタと駆け寄ってくる人間は――――。
「間に合ってよかっ、よかった!」
ぜえぜえと息を切らしながら走ってきたのは、朋坂だった。膝に手をついて上体を折り曲げて息を整えている。
『ぐずマスター、どうして………』
アストラは蒼矢から魚の姿に戻り、目を丸くさせながら無意識に尾びれを振っていた。僥倖を喜ぶ犬のようだ。
「ひとっ、仁見くんに力を借りて、あぁ、」
全力疾走に喘ぎながら額の汗を拭う朋坂のてのひらは、無残なまでに焦げていた。しかし通常の火傷ではない。そのてのひらを埋め尽くす焦げ痕からは、蒼い燐火が鱗粉のように立ち上っている。
『おまえっ、アルマの魔力を素手で握る奴がいるかァ?』
「あ、はは。なんかもう、夢中でさ」
魚が人間の言動にあきれ果てているという妙な構図のなか、よじれていた髪が再び身を擡げる。また唄が始める、そう身構えたと同時に朱鷺が奔った。
憤怒の焔。その焔を操ることができるのは、ただひとり。
「俺、精神攻撃は苦手だっつってんじゃん」
怒気を孕んだ声は祥馬のものだ。ゆらりと立ち上がり、投げた鎌の刃が旋回して戻ってくるのを片手で受け止める。ブーメランの要領で投げられた刃は髪型マーテルを無残に切り裂いていた。
「コネクトォッ――――!!」
燃えたぎる憤怒を具現化させる声で祥馬は叫ぶ。怒号に引き寄せられるようにして疾走してきた炎塊は、間違いない。ライオネルだ。強すぎる魔力にバチバチと朱鷺色の雷を帯電させながら、すべての力を宝玉へと収縮させる。
『るっ…………?』
細く細く束ねられ、強靱な針金みたく練り上げられた強烈な光線が、爆炎とともに髪蛇に風穴を開けた。あまりの爆風に、誰もが鼓膜の奥でざらついた金属音を聞いた。
メロディーにもならない声をかすかに唄い、マーテルは魔砲の下に完全に沈黙した。祥馬に切断された髪の一本一本から鮮血を吹き出させ、それはとぐろを巻きながら地面で事切れた。
毛髪が焼ける、タンパク質の焦げる強烈な臭いが一面を漂う。残るのはにおいだけではなく、一気に上昇した地熱と、陽炎。ぴかぴかと輝く、朱鷺色の魔力の残滓。火種。
「ンだよ。レモラに力のほとんどを割いてたのか。はー、あっけな」
祥馬は武器を肩に担いで吐き捨てた。
「なあヨリ、ヒトミはどうした?」
『ッ、そ、そうだ! おいトモサカ! ヒトミはどうした!』
矢を託したまま姿を見せない仁見に一瞬で嫌な想像をしたのか、アストラは大量の霜をまき散らして動転している。
「それが……、」
朋坂は口ごもり、曖昧に唸った。
「ンだよ、はっきり言えよ」
祥馬は吸血をしながら、煮え切らないマスターを横目で睨む。燃えたぎる焔の眼光と、吸血という見慣れぬ光景に気圧され、朋坂は何度か口を開閉させるも声が出てこない。何度か呼吸をやり直し、ようやく声を絞り出す。
「――――竹間さんが救援に……、来てくれて……」
あまりにも予想外な言葉だったのだろう。祥馬はおろか、アストラまでも月光に縫い止められた形で静止する羽目になり、しんとした妙な緊張感がその場を支配した。
蒼魚を雲に見立て、そこからしとしとと降る氷の粒だけが夜のステージで踊り続けている。
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