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第1話
「う、はー……すげー豪華なマンション……」
うららかな平日の午前。都内にある高層タワーマンションに足を踏み入れたオレの第一声だった。そのエントランスホールであほ面下げて大口を開けているオレは、きっとこんな場所には一生縁がない。大学在学中に就職に失敗し、現役就職浪人生。日がな就職サイトと新聞の採用広告と見つめあっているだけのオレに嫌気した母親からついに尻を叩かれた、物理的に。
怒りを露わにした母親から、住所の書かれたメモを手渡されて現在に至る。
母親が務めているベビーシッター派遣事務所『ハニークローバー』に来た仕事で、男性のシッターを探しているということらしい。こんな豪華なマンションに住んでるなら、家政婦の一人でも雇っていそうなのに。何が理由で男のベビーシッターなんて探してるんだろうか。
そんな疑問を抱きながらも、震える手でインターホンを鳴らす。
しばらくして、不機嫌な男の声が聞こえてきた。
『……はい』
「あの、オレ……ハニークローバーから来ましたベビーシッターの……」
『……ああ、今日か。最上階だ。玄関の鍵は開いてるから勝手に入れ』
「は、はい。よろしくお願いしま――」
挨拶もできないまま、声は途切れてしまう。その直後にエレベーターホールへ通じるドアのロックが解除される音が聞こえた。
「なんだよ、せっかちな人だな」
第一印象は最悪。悶々とした気分のまま、エレベーターで最上階まで上った。
最上階である42階には住居に通じる扉は一つしか見当たらない。どうやら、依頼人はこのワンフロアがすべて住居らしい。
少し気後れしつつも、鍵の開いているドアを開く。オレの住んでいるワンルームよりも広い玄関に足を踏み入れると、不機嫌そうな男が立っていた。
「失礼しま……」
「挨拶はいい。さっさと来い」
「は、え、ちょ、ちょっと……!」
眉間に何重もしわを刻んでいる人相の悪い男に、乱暴に腕を掴まれる。オレは抵抗する暇もないまま、部屋の奥へと引きずり込まれてしまった。
リビングに連れ込まれたところで、その惨状を見て絶句した。
「な、なんだこれ……っ!!」
足の踏み場もないとは、まさにこのことだ。新聞や雑誌の山に加えて空になったワインボトルと握りつぶされたビール缶、そして何日分かもわからない衣類の山。20畳以上ありそうなリビングがこんなに狭いなんて。
信じられないと目を見張っていると、男はズボンのポケットから煙草とライターを取り出した。
「うるせぇ、さっき眠ったところなのに起こすんじゃねぇよ」
男の視線の先は、リビングの隅に向いていた。散らかり放題のリビングの一角に、小さな女の子が寝かされいる。一応、子供が怪我をしないように配慮しているようで、その周囲にはベビーサークルで柵がしてあった。
女の子が起きないようにそっと近づこうとする隣で、煙草に火のつく音が聞こえた。
「ちょ、アンタ!」
男の煙草に火が点いたのを見たオレは、慌ててそれを右手でつかむ。じゅ、という音がしたが構わず男を睨み付けた。
「あ? 何すんだよ」
「なにじゃないだろ! 子供がいる前で煙草? 何考えてんだ!」
「……熱くねぇのか?」
「は?」
「だから、手」
「手って……あっ! あちちっ!!」
指摘されてようやく手のひらに痛みを感じた。すでに火の消えた煙草が手のひらで踊る。
「バカっ、さっさと冷やせ!」
男はオレの手首を掴んでキッチンの水道の蛇口を目いっぱいひねった。流水で冷やした手のひらには小さな水ぶくれができていた。
「はー……あのすみません、氷とかありませんか?」
「ンなもんねぇよ。つーか、冷蔵庫の中身はカラだ」
「なんで……」
「身の回りの世話はいっつもマネージャーにやらせてたんだが、あの野郎。過労でぶっ倒れやがったんだよ。だから急きょ、世話係にお前を雇った」
心底忌々し気に舌打ちをする男に、オレは恐る恐る問いかけた。
「あの、オレはあくまでベビーシッターで子供の世話をするだけなんですけど……」
「依頼人はガキの父親である俺。俺の世話もガキの世話も大差ねぇだろ」
「全然違います!」
なんてことを言い出すんだ、この人は。思わず声を上げてしまったせいで、柵の向こう側で眠っていたはずの女の子が泣きながら目を開けた。
「うぇえええ……」
「……チッ。お前が大声出すから、茉莉が起きちまったろうが」
「す、すみません……」
「おい、茉莉。びーびー泣くな、泣きやめ」
茉莉ちゃんという女の子を抱き上げもせず、男はそう口頭で注意する。
「そんなので泣き止むわけないでしょうが……もう。ちょっと失礼しますね」
オレはサークルをまたいで、泣きじゃくる女の子を優しく抱き上げた。
「よいしょ、と……えーと、茉莉ちゃん? ごめんね、大声出しちゃって。もう大丈夫だから、ゆっくりねんねしていいよ?」
小さくしゃくりあげていた茉莉ちゃんの涙で濡れた瞳に、オレの笑顔が滲んで映っていた。
「おにいちゃん、だれ?」
「オレは遊佐とおる。茉莉ちゃんと一緒に遊ぶために来たんだよ。まだ眠いだろ、ゆっくりねんねして……起きたらおにいちゃんと遊ぼうな」
「……うん」
小さく頷いた茉莉ちゃんは、そのままオレの腕の中ですやすやと寝息を立てて眠ってしまう。小さい子の体温はあったかくて気持ちがいい。まだかすかにミルクの匂いが残る茉莉ちゃんをもう一度サークル内の布団に寝かせてあげた。
「……さすがだな。ぐずった茉莉を一発で泣き止ませた上に、寝かしつけちまうとは」
「これでも一応、大学の専攻は幼児教育課だったので……。あとは母の教えです。子供を抱きしめるときは、大きな愛で包むように。これが基本だって」
「ガキの抱き方なんて知らねぇよ……女の抱き方なら別だけどな」
「なっ……!」
考えてもいなかった返答に、頬が熱くなる。男はからかうように口の端を持ち上げて、オレの顎を掬い上げた。
「なに赤くなってんだ。お前、その歳でまさか女の扱いを知らねぇなんて」
「そうじゃありません。ってか、そういう話……子供の前でしないでください」
「……へいへい。まあ何にせよ、あとはお前に任せる。俺はこれから仕事があるんでな」
すっかりオレから興味なくした男は、体を離すと出かける準備を始める。
「あ、ちょっと待ってください。この子のお母さんは……」
依頼人が父子家庭だったとは聞いてなかったので、素朴な疑問を投げかけた。だけど、どうやらこの質問は禁句だったらしい。男の纏う空気がいっそう険しくなったのを、肌で感じた。
「……母親はいねぇ。俺が一人で育ててんだよ、茉莉は」
「え……どうして」
「なんで赤の他人のお前に話す必要がある? それともベビーシッターってのは、他人の事情にまで首を突っ込んでくるモンなのか?」
「す、すみません……そういうつもりは」
しくじった、と思うときには後の祭り。なんとも気まずい空気が流れ、重たい沈黙が訪れた。
しばらくして、沈黙に耐えられなくなったのか、男の方がため息交じりに会話を続けた。
「まあいい。とにかく、茉莉の世話はお前に任せる。帰宅は夜中になるから、今日は泊まりで頼みたいんだが」
「はい、それは大丈夫です。いってらっしゃい、お父さん」
「そのお父さんってのはやめろ、慣れねぇ……」
「それじゃあ、なんて呼んだらいいですか?」
「……お前、俺のこと知らねぇのか?」
まるで信じられないといわんばかりに、男は驚いた表情でオレを見ていた。
「オレ、今日はとにかくここへ行けって言われただけなんで。依頼人であるあなたのことは他言無用、秘密厳守って母さ……じゃなくて遊佐チーフに伝えられているだけで」
そう、ハニークローバーではチーフマネージャーをしている母からは、依頼人の詳細については何も知らされていない。だからこそ、さっきの質問が出たわけだが。
男は短い舌打ちと共に、長い前髪を掻き上げる。
「……俺は吉鶴真咲だ」
「よしづるまさき……って、あの人気俳優の名前と同姓同名なんですね」
オレの知る吉鶴真咲という男は、舞台俳優を経てドラマに出たことがきっかけで、今やCMに映画と引っ張りだこの超人気俳優だけ。しかもテレビで見る吉鶴真咲は、男のオレでも惚れてしまうような整った顔立ちと紳士的な態度で世の女性を虜にしてしまうような完璧な男だった。
目の前にいるような天パでぼさぼさの頭をして瓶底眼鏡をかけている男とは、かけ離れた容姿をしていた。
「本人だ」
「は?」
本人?そんなまさか、と頭の中で男の、吉鶴真咲の言葉がぐるぐると回っていた。吉鶴真咲は眼鏡を取って、オレに顔を近づけてきた。
「だから、本人だって言ってんだろ。お前の上司の言う通り、俺にガキがいることは絶対に誰にも言うなよ。もし世間にバレでもしたら……お前のところの派遣会社とお前自身を訴えてやるからな」
テレビの吉鶴真咲とは似ても似つかないほど、人相の悪い顔ですごまれた。ああ、でもやっぱり眼鏡を外せばよくわかる。目の前にいる吉鶴真咲は、本人そのものだ。
信じがたい現実にオレがぽかんと口を開けていると、真咲さんのスマホの着信音が鳴る。
「――俺だ。ああ、支度はできた。すぐに降りる」
用件だけを済ませた真咲さんは、電話を切った後でオレに向き直って人のいい笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、あとはお願いしますね、とおるくん」
「は、はい……いってらっしゃ~い」
さすが役者。猫かぶりも超一流らしい……。オレはとんでもない相手の秘密を知ってしまったと、すでに後悔しはじめていた。
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