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第2話

 ベビーシッターとして、真咲さんの娘である茉莉ちゃんのお世話に通うようになってから2週間ほどが過ぎた。真咲さんの部屋に通い詰めてわかったことは、彼の生活能力のなさだった。今までどうやって生活していたのかを聞くと、身の回りのことや部屋の掃除なんかはマネージャーさんがずっとやっていた、と教えてもらった。  そこへ来て茉莉ちゃんのお世話まで任されてしまったから、マネージャーさんは過労で倒れてしまったらしい。当然だ。今もっとも売れている俳優のマネージャーをやりながら、身の回りの世話までなんて……オレでも倒れてしまう。  結局オレは茉莉ちゃんのお世話だけでなく、真咲さんの身の回りのことまでするはめになってしまっていた。「おい、おかわりくれ」 「はいはい……って、自分でやれよ。何度も言ってるけど、オレは茉莉ちゃんのためのシッターで、アンタの世話係じゃないんだから」  夕飯に準備した炊き込みご飯が気に入ったのか、真咲さんはカラの茶碗を差し出してふんぞり返っている。 「これ食ったら、また明日からロケなんだよ。雇い主をねぎらうって優しさはねぇのか、とおる。よくそんなので、ベビーシッターなんて務まるな」 「わかったよ、よそえばいいんだろ、よそえば……ったく」  ぶちぶちと小言を零しながら、オレはお代わりを茶碗によそう。すると離乳食を食べ終わった茉莉ちゃんが、小さな手を合わせていた。 「とおるちゃ、ごち」 「茉莉ちゃん、もうごちそうさま? ほら、お口拭いて」 「ん~……」  茉莉ちゃんの口の周りの汚れを拭いてあげていると、真咲さんも隣で箸を置いた。 「ごっそさん、と」  そのまま煙草とライターを取り出したもんだから、オレは真咲さんの手首を乱暴に掴む。食後の一服だろうが、いい加減茉莉ちゃんがいるのに煙草を吸うのをやめさせないと。 「ちょ、真咲さん! 煙草は吸うなって、何度言ったらわかるんだよアンタは」 「うるせぇな、だからベランダで吸ってくるだろ」 「それでもダメだ。身体に悪いし、臭いがついて茉莉ちゃんも嫌がるだろ。なー、茉莉ちゃん」 「ぱぱ、くちゃーい」  ちっちゃい鼻先を摘まんだ茉莉ちゃんが、苦い顔で真咲さんを見つめる。オレも隣でそれと同じ顔をして、真咲さんをにらんでみた。  さすがに子供にまで臭いと言われてしまってばつが悪いのか、真咲さんは取り出した煙草とライターをテーブルの上に置いた。 「おい茉莉。誰がくさいんだよ、誰が!」 「いい機会だし、禁煙したらいいだろ」 「はぁ? この俺に煙草やめろって言ってんのかよ、ありえねぇ……」 「テレビじゃ煙草は吸いません、なんて言ってるくせに」 「あれは役者の仮面をかぶった俺の話。役を降りたら誰だって素に戻る。その俺の楽しみは煙草とワイン。それだけは絶対やめねぇ。だいたい、煙草吸わなきゃ口が寂しくて仕方ねぇんだよ」 「だったら飴でも舐めてればいいじゃん。ほら、これあげますよ。今日ここへ来る前に道で配ってた試供品の飴」  胸ポケットの中に入れていた飴は、オレの体温で少し溶けてしまったようで形がいびつに歪んでいた。  レモン味を書かれたパッケージを確認することもなく、真咲さんは手渡した飴を床に放り投げる。 「ふざけんな、俺は――」 「ぱぁぱ……くちゃい、のやだ」  うるる、と瞳を潤ませた茉莉ちゃんが、真咲さんの服の袖を引っ張る。 「……なんだ、その目は茉莉」 「くちゃいのやなのね、ぱぁぱ」  まるで縋るような茉莉ちゃんの態度に、真咲さんは表情を引きつらせていた。 「……くそっ。おい、とおる。お前だろ、茉莉に変なねだり方教えたの」 「えー? なんのことだか」  すっとぼけてみたけれど、真咲さんの言う通りだ。娘のお願いなら、なんでも聞いてしまうのが父親というもの。特に真咲さんはあまり態度には出さないけれど、茉莉ちゃんを溺愛している。そんな真咲さんに禁煙をさせるには、茉莉ちゃんのおねだり攻撃が一番効果的だと思っていた。 「ぱぁぱ、おねがい。たばこ、めーよ?」 「ほら、茉莉ちゃんもこう言ってることだし……」 「……チッ、わかったよ。禁煙すりゃいいんだろ!」  まさかここまで効果があるとは驚きだ。でもまんまと策略にハマってくれたことが嬉しくて、オレは紅葉のような愛らしい両手にハイタッチをしていた。 「やったー」 「それじゃあ、これは俺が預かります。その調子ですよ、ぱぱ」  テーブルに置かれた煙草とライターを没収したオレは、それから家中にある予備の煙草も回収した。  恨めしい真咲さんの視線を気にせずにいたことを、オレは後から深く後悔するとも知らずに。 それから一週間後。 「とおるちゃー、ぱぁぱ怖いよぉ」 「こわいって……」 「なんだよ、お前ら二人が俺に禁煙させたんだろ。あれから一本も吸ってねぇ俺を褒めろよ、称えろよ、崇め奉れよ!」  言ってることがむちゃくちゃな上に、眉間のしわがいつもよりも増えている。 「かなりお疲れみたいですね、真咲さん……」 「お前に言われた通り、この一週間飴とガムでごまかしてんだよ。イライラするくらい大目に見ろよ」 「でも、人相がいつもの二割り増しくらいで怖い」 「……ちくしょう、あー……イライラする」  舌打ちしながらリビングのソファに座っている真咲さんに、オレはそっとガムを差し出した。 「じゃあ、ガムでもどうぞ」 「いや、いい。それより、ちょっと面貸せ、とおる」 「はい?」  真咲さんに言われるまま、オレは隣に座る。すると真咲さんは至近距離で、詰め寄ってきた。 「お前、茉莉の健やかな健康のためと毎日の生活のためにいるんだよな。で、茉莉のために禁煙しろ、とも言って来たよな」 「ま、まあ……」 「だったら、協力しろ。今から1分間、何があっても動くんじゃねぇ」 「な、なにをする気で……」  嫌な予感しかしなかったけど、どうも拒否できる空気でもなかった。 「いいから、よーい……スタート!」 「ちょ、……んんっ!?」  武骨な手のひらに頭を掴まれて、唇に噛みつかれた。抗議しようとして開いた唇の隙間から舌が入り込み、口の中を蹂躙する。甘く舌先を吸われて、頭の芯がしびれてしまう。 「ん、……は、……、ん、ぅ……ちょ、……ン…………んんっ!!」  するりと、指先がうなじを撫でたところで、ようやく我に返った。  勢いよく真咲さんの胸を押し返し、荒くなった呼吸を整える。 「あ、アンタ何考えてんだ!!」 「……口が寂しいならキスすりゃいいって、前に聞いたんだけどな。なるほど、こりゃいい。すっかり煙草が欲しいって思わなくなっちまった」 「だからって、オレで試すなよ! 男だぞ、オレは!」  熱い。身体の奥が熱くなるような感覚なんて、生まれて初めてだった。羞恥心と混乱で、頭の中がごちゃごちゃしている。そんな状態のオレに向かって、真咲さんは飄々とした態度で言い放った。 「ああ、言ってなかったか? 俺、男もイケるから」 「は……はぁああ!? あ、あああんた、何言って……」 「おい、茉莉が眠そうにしてるぞ。はやく寝かしつけてやってくれ」 「ちょ、まだ話は……!」 「これからもきっちり禁煙できるまで、協力頼むぞ、とおる」 「ふ、ふざけんなぁああ!!」  うららかな午後にオレの絶叫がこだまする。そんな中で真咲さんの上機嫌な鼻歌が心底恨めしい。  禁煙なんてやめさせてやる、絶対に!  オレは今度こそ、吉鶴真咲という男に関わってしまったことを深く後悔した。

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