125 / 125
エピローグ
「きゅるるるるん」
聞こえてきた不可思議な鳴き声に彼は足を止めました。
「……こいぬ……?」
数歩、来た道を引き返せば、通ったときにはまるで気づかなかった段ボールが道端に置かれていました。
雨降りでもない快晴なのに古めかしい番傘がすぐそばに立てかけられています。
段ボールの表面にはこどもが描いたような字で「ひろってください」とメッセージが残されていました。
「きゅるきゅるっっ」
中には、それはそれは真っ白なかわいらしい仔犬……ではありません、ちっちゃな子ぎつねがコンコンしていました。
「捨てられたの?」
しゃがんだ彼が頭を撫でてやれば子ぎつねは気持ちよさそうに目を瞑りました。
「かわいい」
近くの工事現場から響き渡る騒々しい機械音。
遥か頭上を横切る飛行機の轟音も地上にまで届いて空気を震わせます。
「よいしょ」
優男お兄さんによく似た、でも児童と呼ばれる年齢の、学帽に半ズボンの詰襟姿をした少年は子ぎつねをそっと抱っこしました。
子ぎつねはクンクン匂いを嗅ぎます。
それはそれは昔のこと。
地上より安らかに旅立っていった想い人。
忘れもしない優男お兄さんの残り香に、子ぎつねは愛らしいおめめをパチクリ見開かせ、また出会えた喜びで胸をいっぱいにしました。
「きゅるるるるーーーーっっっ」
「元気いっぱいだね。よしよし。いっしょに帰ろ」
スクールバスを降りたばかり、少年のおうちはもうすぐそこです。
「きゅるるんっ」
「変わった鳴き声。珍しい犬種なのかな」
「きゅるるるるんっ」
やっぱり、どーにもこーにも、一途な想いを捧げる想い人の前ではカマトトぶりっこな九九なのでした。
色とりどりの花々が咲き渡る春の野原。
蝶々らが蜜を求めてのんびり舞っています。
「あ」
儚い夢の一片 さながらな蝶がとまったのは野に咲く花ではなく。
「九太に蝶がとまった」
灰色の狐耳でした。
九太はなるべく耳を動かさないようにして「おれの耳なんておいしくないのに」とくすぐったそうに言います。
九と意地悪お兄さんの間に生まれ落ちてから数多の四季が巡りましたが、まだ一度も狐の姿になったことがない、灰色狐耳と尻尾がぴょっこんしっぱなしの灰色ぎつね。
見た目は十代前半、灰色髪に華奢な体つきで、こざっぱりした作務衣姿。
桃の木に背中を預けて素足の両足を柔らかな草むらに伸ばしていました。
「きっと安心できそうな場所だと思って一休みしてるんだ」
九太に膝枕してもらって麗らかな春の野に寝転んでいた黄金は言います。
「おれと一緒だ」
容姿も格好も前と何一つ変わっていません。
しかしながら九太を見つめる眼差しは前にもましてアチチでした。
明けても暮れても親ぎつねに常々頼み込んで、ようやく叶った、月に一度の逢瀬。
夢色の薄翅が至福のひと時を彩ります。
「綺麗だね」
黄金は灰色耳にとまる蝶を気遣い、やたらゆっくりと身を起こしました。
「そんなにきれいな蝶々?」
健気にじっとしている、自分の耳にとまる蝶を見ることができないでいる九太の頬に、黄金は、そっと片手を添えます。
「うん……すごく綺麗だ」
細められた金色の目は九太だけを見つめていました。
桃の甘やかな香りがする木漏れ日の中、スパイシーでキュンな美男子なる面差しを耀かせて、じっとしている灰色ぎつねに顔を近づけていきます。
気を利かせて飛び立っていった蝶。
夢色の一片が去ったことにも気づかないで、もうちょっとでふたりの唇が触れ合いそうにーー。
「時間ですよ」
木漏れ日の中に唐突に舞い降りてきた九朗によって触れ合うことは叶いませんでした。
「もう時間? まだ会ったばかりだ」
黄金がそう言えば九朗は氷柱 の如き眼差しで妖虎を射貫きました。
「九朗」
座ったままの九太が名を呼べば底なしの愛情に一瞬でブクブク溺れ、相も変わらず自分より小さい兄ぎつねに笑いかけました。
「帰ろう、兄さん、ボクたちのおうちに」
「うん……あ、九彦も来たんだ」
「ッ……あ~~……フライングかましやがって、このズル狐ッ……ふざけんなよ、九朗……ッ」
九朗に遅れて末っ子の九彦もやってきました。
九太と三つ子にはやっぱり見えません。
十代後半くらいの外見で、白と黒を基調としたモード系和風コーデに雪色ポニテ、無駄に透明感満載、まるでジェンダーレス双子です。
「虎なんか置いてさっさと帰ろーぜ、アニキ」
「うん、今すぐ帰ろうね?」
九朗と九彦に両手をとられて立たされた九太。
黄金はまたその場に寝転がります。
いつの間にカンフー服の間から生えてきた長い尻尾が、したーん、したーん、地面を叩 いていました。
お別れは淋しいです、嫌です、もっともっと長い時間をふたりきりで過ごしたいに決まっています。
でも九朗・九彦への口出しはNG、親ぎつねの九とそう約束しているので受け入れるしかありません。
「「べーーーーー」」
九朗・九彦に揃って、あっかんべー、されて。
黄金の尻尾は、したーんッ、したーんッ、状態です。
すると。
「黄金。またね。また会おうね」
九朗と九彦の間で九太がくるりと振り返りました。
『おれを待ってて、九太、約束だよ』
「黄金。おれのこと待っててね。約束だからね」
寝転がる黄金のすぐそばにしゃがみ込むと、ちゅっ、その唇に自分から口づけしました。
「ッ……ッ……ッ……!!」
「あーーーーッ……ッ……ばっ……ばか……っ……!!」
青ざめた九朗と九彦はすぐに九太の腕をそれぞれ掴んで黄金から引き離します。
そして狐なのに脱兎の勢いで虎の元から愛する兄を連れ去っていきました……。
「ああ。約束だ。九太」
桃の木の下、黄金は狐の手真似で「コンコン。またね」と自分の命よりも大切な想い人を見送るのでした。
古より息づく一本桜が咲いています。
あやかしの美しい古狐がその下で眠っています。
「やべぇ、最高すぎじゃねぇか、このロケーション」
モフモフ巨体の懐では意地悪お兄さんが花見酒の真っ最中でした。
「春っちゃあ春だけども、風はまだ冷てーし、でも九がいれば風除けにも寝床にもなる、一石二鳥だよな」
我が子の九太とお揃いの作務衣を着た意地悪お兄さん、眠れる狐夫の懐で手酌してお花見をウキウキ満喫していたのですが。
「あ、やべぇ」
手元が狂って九の雪色の毛にお酒を零してしまいました。
「もったいねぇッ」
雪色の髪から覗く雪色の狐耳をピーンと立たせ、平気でぺろぺろします、あっという間に酔っ払ってこの体たらく、酒好きのクセして酒に弱いところは、ほぼほぼあやかしになろうとも変わらないようです。
「くすぐったいよ」
瞬きよりも短い一瞬で人の姿になった九。
着流しの合わせ目に顔を突っ込んで胸元をぺろぺろする羽目になった意地悪お兄さんは、ジロリと頭上を睨め上げました。
「おい、今すぐ戻れよ、これじゃあ寒ぃだろーが!」
あー、やだやだ、意地悪な嫁です。
「ひどいことをお言いだね。夫の僕をお酒くさくしておいて」
「戻れよ~、寒ぃんだよ~」
「お酌してあげようと思ったのに」
「酌より寒ぃのなんとかしてくれよ~」
泥酔いまではいかない酔っ払い嫁に九はコンコン笑います。
「まったくもう。これでどう」
意地悪お兄さんを後ろからふわりと抱きしめました。
「うーん、まぁ、悪かぁねぇ」
春天に揺蕩 う花弁。
ふたりの雪色の髪や狐耳にも、はらり、はらり。
「僕にはお酌してくれないの」
賭け事で狸どもから掠め取った、お酒が尽きることのない魅惑のとっくり、御猪口 を一つだけ用意してきていた意地悪お兄さん。
「仕方ねぇな~」
まろやかで口当たりのいい美酒を御猪口にとくとく、それを自分の口に含んで、そして振り向きざまに九に口づけしました。
「……ほとんど零れてしまったよ」
半分零れ、半分は意地悪お兄さんが飲んだようなものでした、それでも九は機嫌がよさそうに微笑します。
普段はいけず、今は芳しい意地悪嫁の唇を一舐めしました。
「さくら~、さくら~、菜の葉にとまれ~」
「それ、ごっちゃになってやしないかい」
桜の木の下でくっつき合って花見を楽しむ九と意地悪お兄さん。
「お前さ、黄金 と九太の交際、いい加減認めてやれよ」
「どうして今その名を出すかな。ほんっとう、デリカシーが育たないよね、君って。そもそも九朗と九彦の方が反対してるっていうのに」
「でもまぁ。今じゃあ月イチデートか。丸くなったかなぁ、お前も」
「そうだよ、僕は寛大だよ、海並みに器の広い君と比べたら劣るかもしれないけれど」
「……」
……かンなり昔に俺が言ったよーな、しかもコイツ寝てたよーな……。
「君をあやかしにしてよかった」
腕の中で手酌している意地悪お兄さんに九は嬉しそうに囁きます。
「まだまだ君と一緒にいられる」
百の恋と千の愛。
今は千の恋と那由多の愛くらいまでぶっ飛んでいそうです。
「花見酒もいいけれど」
「ん?」
「花見契 なんてのも乙なものだよね」
輪廻転生など待ちきれずに本望のままに人からあやかしへ変えて意地悪お兄さんを伴侶に据えた九。
古狐にとって永遠の生き餌なるお嫁さんでした。
「いーやーだ、俺はまだまだ飲み足りねぇ」
「意地悪なお嫁さん。今度は僕が君に口移し、してあげようね」
「んぶぶぶぶッッ!!」
いえ、もはや永遠の新妻です、どれだけ長い歳月が過ぎようとも、いつまでも新婚気分が抜けないのです、やっぱり生涯現役助平狐です、そんなあやかしに魅入られた意地悪お兄さん、こればっかりはしょーがないです、もはや宿命なのです。
「ねぇ、この桜が散るまで愛し合ってみる……?」
でも。
そんな九に毎度毎度キュンする意地悪お兄さんも意地悪お兄さんなわけで。
「散るまでは無理すぎンだろ、でも、月が桜にかかるまでなら……」
「コンコン♪」
要するに。
親ぎつねと意地悪お兄さんはとこしえに幸せに暮らしましたとさ、コンコン。
おしまい
ともだちにシェアしよう!