19 / 226

第19話

トントン、と軽くドアを叩く音がした。 水樹は布団の中から少しも動けなかったが、誰が訪ねてきたのかはわかっていた。 「水樹ー?入るよー?」 お邪魔しまーす、と軽い調子で部屋に入ってきた奈美は、バタバタと物音を立てながら部屋を行ったり来たりしている。 物音から察するに頼んだものを買ってきてくれたようで、冷蔵庫を開け閉めする音が何度か響いた。 「ちょっと、多少は食べてんの?何もない!」 などと母親のようなことを時折叫びながら。 発情期中で、迂闊に窓も開けられないために篭った空気を少しでもなんとかしようと換気扇を回してくれたりもした。 やっぱりこういう時、痒いところに手が届くのは同じΩだ。 「水樹、鍵…って、ちょっと大丈夫?薬打ったばっかり?」 「なんか、冷たいもの…」 やっとの思いで布団から手だけを出すと、奈美はすぐに冷えたペットボトルを持たせてくれた。 飲むわけではない。 身体に篭った熱をなんとかしたくて脇に抱えると、ひんやりとして気持ちが良かった。すぐに温くなってしまったが、いくらか楽になったような気がした。 そっと顔を覗かせると、奈美は水樹が散らかした部屋を片付けてくれている。 発情期中なので仕方ないといえば仕方ないのだが、女の子に自慰の後始末をしてもらうのはいたたまれない。 「ごめん…」 「何言ってんの、いつもは私がそっち側でしょ!」 そう言って奈美はニカッと笑った。 そして再び片付けにとりかかる。 テーブルに置きっぱなしにしてあった後避妊薬を手にした時、一瞬だけ動きを止めたが、それも何も言わずに片付けてくれた。 「しかし辛そうだね、全然効いてない?」 「や、副作用が…」 「そっか、まぁ食べられそうな時に食べなね。」 奈美はポンポンと汗で湿った水樹の頭を叩くと、今度は自分の鞄から数枚の紙の束を取り出した。恐らく、発情期で出席出来ない水樹へ出された課題だろう。 脇に抱えたペットボトルを額に当ててみると、もうすでに温かった。 「水樹は弟くんを頼るかと思ってた。」 徐に呟いた奈美の言葉に水樹は瞠目した。 様子を伺うと、こちらに背を向けていてその表情はわからない。 「…龍樹はαだよ。」 「だからよ。」 意味がわからなくて言葉を失う。 αなんて、発情期の間は一番近寄れないのに。 寮に入る前、まだ実家で暮らしていた時に発情期が来た時なんて、離れに隔離されていた。 奈美はちらりとこちらを見た。 言っていいのか悩んでいる様子だったので視線だけで先を促すと、少し言葉に悩んで話を続けた。 「…避妊だけしてもらえれば…αに抱かれたら多少は楽になるじゃない。仲良いみたいだし、今まで水樹が発情期で休んでた時は、その、弟くんと一緒なのかなって思ってた。」 奈美は少しバツが悪そうにちらりとこちらを見た。 そこまで聞いてやっと合点がいく。 αと性行為に及べば少しの間は発情も治るしもちろん特効薬の副作用に悩むこともない。 龍樹とは普通の兄弟より仲が良い自覚があるし、そう思われていても不思議じゃないのかな、と。 「いつも、ひとりだったよ。」 いつも、ずっと。 αばかりの家の中でたった一人Ωの自分は、独りで耐えるしかなかった。 発情期を終えて離れから戻ると、泣きそうな顔をして迎えてくれる龍樹がいるから、寂しいとか辛いとか言えることもなかった。 両親も祖父母もαでありながら、Ωに生まれついた水樹を煙たがることは全くなく寧ろ猫可愛がりする傾向にあったので、余計に発情期中だけがたった独り地獄のような日々だった。 もちろん奈美はそんな水樹の事情までは知らない。いつもひとりだったという言葉をどのように受け取ったかは水樹にはわからない。 振り返った奈美は泣きそうに見えた。 お互いの境遇を詳しく話したことはないが、奈美は薬が殆ど効かない体質だし、発情期に関しては水樹よりずっと苦労していることはよくわかっていた。 程なくして涙目になった奈美は、唇を戦慄かせた。 「薬も信用できない、家族も頼れない、それじゃ水樹は何処に頼るの?」 という問いに、すぐに答えることが出来ず。 黙ってしまった水樹を見て、奈美はいよいよ涙を零した。 こぼれた涙を、女の子だというのに男前に拳で拭って、気丈にグッと顔を上げたその顔は、笑顔だった。 「なんてね!この奈美様をずーっと頼ればいいのよ!」 乱暴に涙を拭ったせいで折角の化粧が崩れてしまって、目元は少しだけ黒くなっている。 お世辞にも綺麗ではなかったが、その強さが眩しかった。 「…奈美、やっぱ俺のこと好きでしょ。」 「はぁ?ないわ!藤田くん一筋だし!」 「え、なに、まだ好きなの?諦め悪いねー。」 「うるさいうるさい!これでも飲んでなさい!」 そう言って額に押し付けられたイチゴオレは、冷蔵庫から出したばかりで冷たかった。 ひやりと冷たいそれが、まるで水無瀬の手のように思えてしまって、ジクリと胸に痛みが広がった。 「ていうか、水樹イチゴオレなんて飲むのね。じじい味覚のくせに。」 諦めが悪いのは、俺の方。 「たまに…飲みたくなる。」 ストローを吸い上げると、人工的な甘ったるい液体が口の中に広がった。 やっぱり、好きじゃない。

ともだちにシェアしよう!