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第20話

発情期を漸く終えて登校した日の昼休みのこと。 既に持って来た水筒を飲み干してしまった水樹はお茶を買おうと久しぶりに自販機の前にいた。 小銭を探していると後ろからトントンと肩を叩かれて反射的に振り返る。 ぷに、と頬を突かれた。 誰だこんなベタなイタズラ、と若干イラッとしながらその手の持ち主を見上げて、絶句した。 「なんか久しぶりだね、お兄ちゃん。」 輝く薄い色の髪をふわりと揺らして困ったように微笑む水無瀬は、久しぶりに近距離で見ると心臓に悪いほどの美貌だった。 ─── 「僕避けられてるのかと思ったよ、全然会わなくなっちゃったんだもん。」 久々に聞いた上質なテノールが紡ぎ出す言葉は相変わらず柔らかい。 思わず聞き惚れてしまうそれはまるで子守唄のようで、苦笑する水無瀬をぼうっと見上げるしかなかった。 「流石に10円たかりすぎたかなーとかね。」 ふふ、と笑いながら、水無瀬は財布を取り出すと小銭を漁り始めた。 どことなく嬉しそうに見えるのは、気のせいだろうか。嬉しそうにする理由がどこにも思い当たらないから、きっと気のせいなのだろうが。 「…最近は、龍樹に10円たかってるの?」 「まさか。あんなことしてたの、お兄ちゃんにだけだよ。」 さらりと告げられた事実に、少し思考が止まる。 「最初の2回は本当に10円なかったけど、それ以降は嘘だよ。お兄ちゃんに話しかける口実。」 そういうと水無瀬は、財布からぴったり120円取り出した。 控えめに小さく笑った水無瀬の顔が、ちょっとした悪戯を成功させた悪ガキのよう。初めて見る顔だ。こいつこんな顔もするんだ、とほんの少しだけ赤面した。 「おかしいと思わなかった?いつもいつも10円足りないなんて。」 クスクスとおかしそうに笑う水無瀬から、視線をそらす。居心地の悪さからだ。 そりゃあ、おかしいと思った。 もちろん思ったけれど、10円足りないという水無瀬の困った笑顔が好きだったから。 (………ずるい。) お兄ちゃんにだけだよ、なんて、ずるい。 どう頑張ったって龍樹以上にはなれないのに、龍樹にもしていないことをしてくれていたんだと思わせられる。 内容が10円貢ぎ続けるという馬鹿げたものだというのに。 「な、にそれ…普通に話しかけてくれたら良かったのに…」 「だってお兄ちゃんすごい警戒してたじゃない。あれって僕がαだから?」 そう聞かれて、水樹はハッとした。 そうだ、確かに最初は警戒心を抱いていた。 最初に話したあの時の別れ際、あの冷たい本物のガラスのような視線。 あれ以来、あの目で見られることは無く、段々と仲良くなっていくうちに記憶の彼方にやってしまっていた。 そして今、再びその視線を向けられている。 つぅ、と冷や汗が伝った。 なぜ忘れていたのか、この絶対的な強者の瞳を。目をそらすこともできず、その場から逃げることもできず。 水無瀬はそっと頬に触れてきて、屈んでほんの少し顔を近づけてきた。 ひんやりした冷たい手と、常より近い距離にある作り物のような美しい顔に、息苦しささえ感じる。 「ねぇお兄ちゃん、発情期明け?それとも前?」 いい匂いするよ、と囁かれたときには、いよいよ全身が強張った。 ーここで怯んだら、喰われる。 弱者の防衛本能がそう叫んで、水樹は震え上がる身体に鞭を打ったが、なんとか動いた口からはか細い息しか出てこない。 グッと唇を噛んで、なんとか出した声はまるで自分のものではないような情けない声だった。 「昨日まで…休んでた…」 「ふぅん、だからか。」 頬を撫でていた手が少し下がって首輪に触れた。 カチャ、という金属の音。 小さな小さな音のはずなのに、それは辺り一帯に響き渡ったような気がした。 「知らない匂い。」 水樹は今度こそ竦み上がった。 脳裏に過るのは、発情期初日。 部室で、先輩に無理やり犯されたことだ。 (匂い…マーキングされてた?一週間も前なのに、残ってた?) いや、そんなことより。 (水無瀬、怒ってる…?) 整った顔の無表情が、まるで彫刻のよう。白い頬にうっすら差した赤みが、水無瀬が確かに生きていることを教えてくれた。 (なんで、こんなに怒って…) 震える身体は今度こそ声も出なかった。 冷たい青い瞳を見返すこともできず、ただ俯いてジッとしているしかない。 それはさながら、肉食獣に捕らわれた獲物のよう。 すぅ、と水無瀬が息を吸う。 怖くて怖くて、ぎゅっと目を瞑った。

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