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庸は更に続けた。 「水樹は…発情抑制特効薬と鎮静剤、それから後避妊薬を今点滴されてる。それが済んだら帰れるよ。」 誠司のαの脳が再び顔を出す。 後避妊薬、の単語に反応して。 「…水樹は、俺の子を産んでくれなかったのか。」 それは無意識にポロリと溢れた呟きで、ほんの小さな囁きだったが、庸はそれを聞き逃してはくれなかった。怒りで人相の変わった兄の顔が、更に歪んだ。 「お前…何言ってるのかわかってるか?」 誠司は答えなかった。 何を言っているのか、自分でもわかっていなかった。いや違う、どうしてこんなことを思ってしまうのかわからなかった。 反応を示さない誠司に、庸の堪忍袋の尾がついに切れた。 ガツンと鈍い音が響く。 庸の拳が誠司の左頬にめり込み、誠司は長椅子ごと吹っ飛んだ。脳が揺さぶられ、口の中が切れて血の味がした。不思議と痛みは感じなかった。 「お前、お前のせいで!あの子達がどんなに傷ついたかッ!今後どんなに苦しむかわかるか!?その上水樹に子どもを産め!?ふざけるな!!」 「水樹は俺の運命の番だ!!」 咄嗟に出た反論に、今度は庸が言葉を失う番だった。 「俺が水樹を幸せにする!!俺にしかできない!!俺だけがあいつのαだ!!なんで俺の子を産んでくれなかった!!俺は、おれは…ッ!」 次から次へと出てきた言葉は、αの本能が言わせたものだった。誠司の意思など、とうに失われた。 しかし、αの本能も誠司の意思も、結局望むところはただ一つ。 「俺は水樹を幸せにしたかったのに、可愛くて大好きで愛していたのに、どうしてこんな…ッ…」 唯一の運命の番を、他ならぬ水樹をこの手で愛し慈しみ笑顔にしたい。それだけだった。 威勢も言葉も失ってその場に崩れ落ちた誠司を、庸は冷ややかな瞳で見下ろした。 優しかった兄のそんな姿を見たのは初めてのことで、しかし自分がそれだけのことをした自覚も充分過ぎるほどに持っていた。 「…訴訟を起こすつもりでいる。」 庸の声は静かで、どこかノイズがかかったように聞き取りづらかった。 まるで誠司の心がこれ以上の会話を拒否するかのように。 「慰謝料、龍樹の治療費、それから水樹の教育費も払ってもらう。番にしたんだから、当然今後の水樹にかかる金の責任は取るよな。中学はともかく…高校も大学も、やりたいことをやらせてやらないと許さない。水樹はまだ9歳だ。わかるね。」 知らない誰かが、異国の言葉で無名の物語を読んでいるかのように感じた。自分に向けられた言葉ということはわかるのに、内容は少しも入ってこない。 それでも人間の本能か、少しずつ理解して、誠司は漸く絞り出すように反論した。 「そんなの、払えるわけ…」 「なら死ね。」 その言葉だけがハッキリと聞こえて、そして瞬時に誠司の心まで響いた。 「Ωの水樹はお前が生きてる限りお前から逃げられない。水樹を不自由なく育てて幸せにできる現実的な生計を今ここで示すことが出来ないなら…死んで水樹を自由にしろ。あの子に未来を返してやれ。それが出来るのもお前だけだ。」 庸の言い分が正しいことも、痛いほどにわかっていた。 番になれば、基本的には結婚の道を辿る。αの誠司がΩの水樹を養うのは当然の流れだ。責任を取るというのは、気持ちの面だけでは済まないことも理解できる。 それに水樹はまだ小さい。 この先大人になって、もしかしたら誠司以外の誰かに恋をするかもしれない。しかしその時誠司が生きていたら、水樹がどんなにその相手を想っても誠司以外に触れることが出来ないのだ。 誠司は唇を噛んだ。 庸に殴られて切れた口の中に、再び血の味が広がり、顔が歪んだ。 「冗談にしたって笑えないよ。たった9歳の、生まれたその時から知ってる甥っ子を愛しているなんて…」 打ちのめされた誠司に、庸が何を想ったのかはわからない。庸はそのまま踵を返し、一度も振り返らずに去って行った。主治医のところかそれとも売店か、はたまた別の何処かか。気にもならなかった。 誠司はフラフラと立ち上がり、ゆらりと顔を上げて、そして驚愕した。 サッと隠れた人影。 それは確かに水樹だった。 聞いていたのだ。 庸と誠司のやり取りを。 どこからどこまでどの程度聞こえていたのかはわからない。しかし、誠司の前に姿を見せたくないと思ったから、隠れたのだ。 「…ははっ…」 全てが崩壊してしまった。 誠司は乾いた笑いを零し、病院を後にし家に戻り、手紙を一通認めた。 部屋に籠っていると、やがて家族たちが戻ってきた気配がしたが、みな思うところがあるらしく静かなものだった。 その日の晩、誠司はそっと水樹の部屋に忍び込んだ。 水樹はよく眠っている。 すぐ側にある錠剤は、恐らく睡眠導入剤だろう。 眠っていてくれて、良かった。 もしも起きていたら、無理矢理にでも連れて行ってしまったかもしれなかった。 誠司はその寝顔に触れるか触れないかのキスをして、枕元に先ほどの手紙を置いて家を後にした。 ─── 愛していた。 きっと、水樹が産まれて父と共に病院に駆けつけ、あの小さな頼りないふにゃふにゃした手を伸ばしてくれたその時から。 「水樹、俺は向こうで待ってるから…どうか…どうか誰か、水樹を幸せに…」 キラキラと降り注ぐ月と星の光が、返事をしてくれた気がした。

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