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第1話

――――汗水垂らして己の葬儀代を稼ぐお前に。           路地の暗がりが果てなく続く中で、古ぼけた飲み屋のぼんやりとした電燈がちかちかと揺れる。投げ捨てられた自転車に、酔っぱらいの吐瀉物、ころんと転がった穴の開いたゴミ袋からはみ出る生ごみと悪臭。  誰かのがなり声、帽子を目深に被って、大胆な露出をした女性と共にホテルへ入る男。濡れ鴉のような紛い物の睫毛を瞬かせる女。性別もよくわからない人間が高いヒールで地面を踏み付けて颯爽と去っていく。雑多で、無関心で、ひたすらに騒々しい。道行く男に『小便をかけてくれたら金をやる』と、片っ端から声をかける青年や、心の底に沈めた欲望にピントを合わせ、的確に誘引する客引き。空はどこまでも昏いのに、目がちかちかするほどに眩しい。治安があまりよくないと噂の繁華街での唯一好ましいのは、きらきらとネオンが明るいところだけだ。  怪しげなレイトショーを上演する、“サテライト”という地下映画館の路地を直進し、三つめの電柱を右折、大通りを道なりに進み一つ目の街灯の傍、そこが神前(かみさき)の仕事場だ。  場所など必要ない、路上で十分だ。身一つと、ボクシンググローブを二セット持って、羽虫の集る街灯の下で俯き気味に佇む。 「あんたが神前さん?」  今夜初めての客だ。神前は人差し指を立てる。 「一分で千円。素手は無しだ。もちろん俺は、ガードはするが決して殴り返さない。それと、まず無いと思うが、俺がダウンしたらそこまでだからな」 「分かっている」  男は待ちきれないというように震える手で財布から札を取り出し、神前の足元へ投げた。その軌跡を目で追い、ため息を吐きながら神前は紙幣を拾い、ぞんざいにポケットへ仕舞い込んだ。くたびれたスーツの男はずれた眼鏡をかけ直そうともしないまま、グローブをはめて大きく肩で息をしている。こういった血気盛んな中年は、良い客だ。鈍くさく、そのくせ血が上りやすく、そして視野が狭い。  神前は鼻で笑いながら自身もグローブを嵌め、気だるく立ち尽くす。  男は少ない髪を振り乱し、奇声を上げながら拳を振り上げ、大きく一歩踏み込む。一発目の殴打をひょいと軽く避け、二、三度目のでたらめな拳もステップを踏むように避けていく。 「こんな調子じゃあ、一発も殴れないかもな、お客さん」 「ぅ、ぅぅうう……!」  同情交じりに呟くと、男は虫歯だらけの歯の隙間から唸り声を漏らし、血走った目をぎろりとひん剥かせる。鼻孔が膨らみ、羽虫の羽音に混ざって歯ぎしりまで聞こえてくる始末だ。忘我すればするほど動きは単調になり、避けられやすくなると言うのに。 (馬鹿な客で良かった。無傷で丸儲けだな)  リストラでもされたのだろうか。金を払ってでも人を殴りたい人間なんて、ごまんといる。一分で千円だ。常連もいるし、興味があるのかチラチラ見ながら何度も前を通り過ぎる人もいる。 (……阿呆みたいだな。俺も、このおっさんも)  ふらつきながら何度も何度も拳を振り回してくる中年と、その向こうに果て無く続く路地、立ち止まる見物人をうつろな瞳に映しながら、綺羅星をぼんやり見上げる。  夜だ。金を集めなければ。金を。  夜は、金儲けの時間だ。           神前賢吾が殴られ屋をやり始めたのは、ギャンブル中毒の父親のせいだった。とにかく賭け事での一発逆転が好きな人物で、競馬にのめり込んでいるとは知っていたが、まさか借金をしてまでギャンブルをしているとは思わなかった。正月だろうが盆だろうか実家になど帰らなかった上に、疎遠に近い状態に陥っていたので知る由もなかったが、嘆いても後の祭りで、父親が末期癌で入院したと病院から連絡を受けるまで、体を悪くして通院していたことさえ知らなかった。  そんな父が病気で伏してからすぐに亡くなってしまい、訳も分からないまま一人息子である神前が相続人となり、少ない遺産と共に借金も引き継いでしまった。父が亡くなるその日まで、遺された借金の存在など露ほども知らなかった。まさに寝耳に水という有様で、神前は二十九歳にして“人生”という、死でしか解放の得られぬ暗渠の半ばで独り、迷子になってしまった。  幸い、借金自体はそれほど高額ではなく、父親の生命保険となけなしの財産、使用する当てのない土地を売って返済したのだが、それから半年も経たぬうちに、その他の未返済の借金がいくつも出てきてしまい、神前は頭を抱えた。知人やセンターを頼り、時には友人に頭を下げて金を借りて借金の返済に充てた。  消費者金融からの借金は当人が亡くなった時点で返済義務が免除されるのだが、連帯保証人は世間で言われている以上にややこしく、これだけは何をどうしてでも返済せねばならなくなってしまった。こつこつ溜めていた貯金は他の返済に充ててしまったので、ごくごく僅かなはした金しか持っていない。通帳の残高など、見たくもない。考えただけで吐き気を催す。子も兄弟もいない。相続人は、神前ただ一人だけだ。破産ということばも頭を過ったが、ギャンブルで拵えた借金は免責されないと聞き、なんとか強張らせていた身体の緊張の糸がぷつりと切れ、すべての力が抜け落ちた。  その時点で、神前は少しだけ、ばかばかしくなってしまった。紙切れ、紙幣なぞただの紙切れだ。こんなものを借りるだの返すだの蓄えるだの、ばかばかしい。たかが紙屑を有難がって、紙屑のために労働をする。死ねば、紙に価値など無くなるというのに。  休みなく労働し、男手ひとつで息子を育て上げた男の末路がこれか。過酷な労働で蓄えた金は借金返済で消えてしまった。生きるために労働をして、賭け事のために借金をし、借金のためにまた労働に狂った。阿呆だ。労働のストレスで時折怒りをぶつけられた神前はどうなる。この世は、どこまでもクソだ。  すっかり腑抜けてしまった神前に、さらなる借金、それも悪徳な闇金からの督促状が届いたのはそれからすぐ後のことで、春の陽光が降り注ぐポストの前でハガキをぼんやり見続け、桜の香りのする重力の、どんよりとした鈍い重さを生まれてはじめて知ることとなった。          *   *   *       「賢吾さん、いますかー?」  チャイムを連打した後、鈴川学は乱暴にドアを開け、乱雑に靴を脱ぎ捨ててドカドカと安アパートに上がりこんだ。 「賢吾さん、お昼にしませんか! パン買ってきましたよ!」 「……うるっせ」  片手に下げたコンビニ袋をうるさく鳴らしながら、鈴川はこんもりとした万年床を足で小突いた。小高い布団の山はもそもそと動き、やがて仏頂面の男を吐き出す。翳った秋によく似合う、渇いて憔悴しきった顔をしている。特に目元のクマが酷く、口端には今にも血がにじみ出てきそうな真新しい赤痣が出来ていた。 「もう正午過ぎましたよ! ほら、日曜日だからってダラけないでください!」  頭を掻きながら万年床の上に胡坐をかき、神前は大きな欠伸を漏らす。枕元に投げてあったミネラルウォーターのペットボトルから直接水を飲み、再度布団の上へ寝転ぶ。今にも二度寝してしまいそうな神前の横腹を、鈴川の足が突く。 「メロンパンとうぐいすパン、どっち食べます?」 「いらねぇよ」  じゃあ俺がどっちも食べますね、と鈴川は言い放ち、傷んだ畳の上に腰を下ろした。  菓子パンの包装をばりばりと豪快に剥ぎ、大きな口から犬歯を見せながら甘いパンにかぶりつく。煙草をふかしながら鈴川の子供っぽい仕草を見守っていた神前は、ちらりと玄関の方を見やり、詰めていた息を吐いた。  鈴川は、神前の借金を取り立てに来る信濃という中年の舎弟をしている男だ。童顔で幼稚な男だが、もうすぐ三十路の仲間入りだと騒いでいたので、少なくとも二十五歳は通り過ぎているのだろう。行儀よく正座をして、恵方巻のように両手で大きな菓子パンを口に押し込んでいる。たまに膝の上に落ちたパンくずを律儀に拾っては口に運ぶ姿に、神前は舌打ちをした。 「アレは、今日は一緒じゃないのか」  アレ、というのはもちろん信濃のことだ。 「俺、今日は仕事じゃないんで。一緒じゃないっすよ」 「毎度毎度、仕事でもないくせに来んなよ。こんなに遊び歩いて、アレに怒られないのか?」 「信濃さんには内緒にして来てるんで」  神前は二度目の舌打ちを忌々しげに放ち、頭を掻いた。信濃が来ないと知り、悪態を吐きつつも内心ほっとしている。どうしてあのような恐ろしい男が鈴川のように馬鹿っぽい男を連れて取り立てに来るのか分からない。何か思惑があってのことなのか、それとも、もしかしたらこの鈴川の企てなのかもしれない。  人は信用ならないと、神前は常々思っていた。この目の前で幸せそうに菓子パンを頬張っている鈴川とて、裏の顔があるのかもしれない。どういう意図かは知らないが、神前にはまるで後輩然とした態度を取っているが、他の債務者に対しては信濃と同じように、暴力を振るったり、恐喝紛いのことをしているのかもしれない。人は分からない。人の裏側は、ちょっとやそっとのことでは推し量れない。 「信濃さんが一緒じゃないと分かって、あからさまに安心しましたね、今。そんなに怖いっすか、信濃さんのことが」 「……」 「……まあ、でも、あの人は怖いですよ」  パンを齧るのをやめて、鈴川はぽつりと言葉を漏らす。 「借金地獄のおじさんの金歯を無理やり抜いて換金させたり、生命保険が下りそうなら、それこそ……」  言葉が途切れる。もそ、と甘そうなパンにモハーの断崖のような歯型が付く。 「おじさん達も、痛めつけられて殺される前に、自分の手で死ねばよかったのに……」  通りを車が行き過ぎる音の残響が、空っぽな部屋を閉塞する。神前は瞳を泳がせ、どうしようもなくなり押し黙る。じんわりと湿る手のひらを布団に擦り付け、聞こえぬようにため息を吐いた。     鈴川は特に借金を取り立てるでもなく、まるで友人の家に押しかけるかのようにふらりとやって来ては、甘いものやインスタントラーメンを食べながら愚痴を零した。相槌など打たなくてもぽつぽつと勝手に独り言を呟き、最後に“お邪魔しました”と律儀に頭を下げて去るのが常なのだが、神前はこれを快く思ってはいなかった。  何せ、いくら愛想よく振る舞われたとしても、鈴川は取り立て屋に違いないからだ。  毎晩毎晩、殴られて殴られて殴られて、そうして得た金を、この男達が全て掻っ攫ってしまう。借金を返すために殴られ屋をしているのか、彼らに金を貢ぐために殴られ屋をしているのか、神前は時折分からなくなる。どちらの解釈が正解だったとしても、とにかく金を稼いで返済しなければならないという結論に変わりは無いのだが。 「苦しむくらいなら、さっさと死んだ方がマシっすよね。楽しい事だってあるよなんて元カノとかは言うんですけど、あんなの嘘ですよ。苦しみの前の歓びなんて、ちっとも救いにならない。俺はね、そう思うんです」  闇夜に浮かぶ星を思い起こす。夜の闇が絶望で、瞬く小さな星が希望。闇に比べて、その光はあまりにも小さすぎる。神前は素直に同意する。何もかもが真逆の人間性だと思っていたのだが、案外、根幹は似た者同士なのかもしれない。そう思うと、少しだけ親近感も湧いた。 「俺も、たまぁに、“あの時に死んでおけばよかった”って唐突に思うんスよね。まあ、“あの時”っていうのがどの時なのか、よく分からないんだけど。今までだって、大きな事故だってしたことがないし、大病をしたことだって……、あ、そういえば“あの時”、そうか“あの時”か……」  最後のひとかけらを口に放り込み、鈴川は一人で完結して何度も頷いて見せた。大きく伸びをすると、派手なシャツが捲れ上がり、薄い腹が見えた。脇腹に、紫色の大きな痣が見える。信濃の顔が浮かんだが、神前は黙っておいた。折檻なんて珍しくないのだろう。 「自殺って、そんなに悪いことですかね?」  問われ、腹から視線を上げた。二つ目のパンを齧っている。 「さあな。残された者にとっては、大迷惑以外の何物でもないだろ」 「っすよね。……賢吾さんは、そんなに借金まみれで、毎晩殴られて、どうしてまだ生きているんですか? 辛くはないんスか?」  のんきな問いに、瞬時に苛立ちが募った。 「元々、……」  お前らのせいだろと言いかけ、唇を噛んで耐えた。一番悪いのは、借金をした父親だ。 「大体、借金をしないと……」  借金をしないと生きていけない世の中が悪いとも言いかけ、更に口を噤む。行き場の無い苛立ちが奔流する。そもそも生きるために借金をしたのではないのだ、父親は。ギャンブルだ。ギャンブルの為に借金をたくさん膨らませ続けたのだ。 「……チッ」 「どうしたんですか? おーい、賢吾さーん?」  のっそりと体を起こして怪訝そうな表情を浮かべる鈴川に、思わず手が出た。  鈍い音。手のひら全体に伝わる熱い痛み。ぶわっと頭の深部にまで鳥肌が立つような、激しい後悔。 「い、痛いですよぉ!」 「あ、……」  とろ火のような興奮と罪悪感、親にしかられた子供のような表情で茫然とする鈴川の瞳。その瞳から放たれる戸惑いの光線が、一心に神前の心を抉る。舌がもつれ、スマンと言いかけた言葉は口内でぐにゃりと形を失い溶けた。 「一体どうしちゃったんですか、今日に限って。賢吾さんらしくないっすよ……」  鈴川は失望したような素振りで、菓子パンの袋を丸めてゴミ箱に放り投げる。適当に放ったように見えたのだが、それは緩慢な弧を描いて見事屑籠の中に納まった。なんとも言えない気まずい沈黙が降り、神前は手のひらに浮かんだ汗を何度もズボンで拭った。じっとりとした視線を感じる。軽く俯いた顔を上げることはできなかった。 「……帰りますね。次に来るときは、信濃さんと一緒なんで。お金、頼みますよ。返済が滞ったりなんてしたら、痛い目見るのは賢吾さんなんですからね」  覚悟していろ、というような物言いに聞こえ、悔しさに奥歯を力いっぱい噛みしめた。無情に閉まる扉の冷たい音。去る革靴の硬い音が一歩一歩進むごとに、神前の怒りは荒れ狂い、嵐となる。 (どうして俺がこんな目に合わなければいけないんだ、俺の借金じゃないのに、悪いのは親父じゃないか、そんなに金が欲しいなら、地獄にでも取り立てに行け!)  やりきれない怒りが体中を駆け巡り、堪え切れずに薄い壁を殴った。幸いにも隣人は不在だったようで、お咎めは無かったが気は晴れない。  信濃も鈴川も親父も金も、この世も全てが憎くてたまらなかった。          「言い方、間違えたかなあ……」  鈴川は傘を差し、雨に濡れるみすぼらしいアパートを振り返り重々しい息を吐いた。  ついさっき、まるで捨て台詞のように言い放った一言。動揺してつい冷たい言い方になってしまったが、本当は『今度は信濃さんも一緒だから、どうにかお金を工面しておいてくださいね。じゃないと、信濃さんが何するか分かりませんよ』と忠告、もとい、情報をリークしたつもりでいたのだ。殴られて気が動転していたとはいえ、どうしてあのような物言いになってしまったのか――――。 「俺、バカだから。本当に、バカだから……」  ぶつぶつと自己への呪詛を呟き、どんより、陰を背負う。  重い足を引きずるようにして歩き、今一度“あの時”のことを思い返す。信濃と初めて出会った時。そして、自分の人生が終わるはずだった“あの時”――――。

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