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第2話
* * *
鈴川は元来、気の弱い青年であった。
ゲームセンターとサッカーと猫と甘いものが好きな、ただの平凡な青年。素行の悪さで有名な工業高校を出て、ふらふらとアルバイトを転々としながら今在るその瞬間だけを謳歌していた、若者。勉強が苦手で頭が悪く、就職活動での武器となる取り柄もない。友人達がこぞって家庭を持ち始める三十路を手前にして、じりじりとした灼けつくような不安を感じている、ありふれた青年。それがどうして借金の取り立てなんかをしているのかと言うと、一重に鈴川が信濃に恩を感じているからだ。
闇金などとは無縁の生活を送っていたころだった。顔立ちと天性の社交性を買われ、友人の伝手を頼りに、都内でもそこそこ知名度のあるホストクラブで働くこととなった。酒も好きな質であったし、女性と話をするのも楽しかった。最初こそステレオのイメージばかりが先行して怖気づいていたものの、実際勤務してみると先輩とも親密になり、さすがに売り上げトップとはいかないものの、それなりに店にも貢献できていたと思う。怖いくらい順調。鈴川はまったりとしたぬるま湯のような日常に没入し、華やかな夜に逸楽した。
ネオンの硬質な光が仄暗い夜に反映する。町全体が酩酊に沈んでいる。鈴川は汗で額に張り付いた前髪を鬱陶しげに払い、ふらつく足で家路を急いでいた。紫の臭気に澱む歓楽街から少し離れた石橋の半ばで深呼吸をする。冷たい川と泥の匂いが肺深くを侵した。夜桜がもやもやとした霞のように連なっている。肌寒い春夜に、体がぶるりと震えた。
昨夜から体調が悪く、腰のあたりが鈍く痛んだ。熱もあるのかもしれない。自身の呼吸が荒く、また灼けるように熱い。何度も踏鞴を踏み、よろめきながらじりじりと歩みを進める鈴川の背後に、騒がしい足音が迫る。
なんだ、と怪訝に思い振り返るのと同時に、頭に強い衝撃を受けた。痛い、と感じる暇もなく、倒れ込んだところを、更に重い一撃。額を流れアスファルトに染みを作る液体が自身の血なのだと判るのに、やたら時間がかかった。瞼の奥がちかちかと激しく明滅し、食いしばった歯の隙間から低い呻き声が垂れる。ぬるつく頭を押さえ、緩慢に振り仰ぐと、うつぶせに転がる鈴川の腰をまたぐようにして小太りの大男が仁王立ちしていた。
「……なッ、ん……?」
何で? と、誰? という問いが同時に襲い来る。男は全力疾走した後のように大きく息を荒げ、右手に持った大ぶりの懐中電灯を威嚇するように何度も上下に動かした。あれで力いっぱい殴打されたのだろう。理解するのと同時に、何やら尻のあたりをもぞもぞと弄られる。そういえば財布を尻のポケットに突っ込んだままだった。クレジットカードと、現金と、免許証と――――。持ち去られれば、再発行が面倒くさい。クレジットカードも停止させなければならない。そもそも、男は殺る気だ。鈴川は諦めたように四肢を弛緩させた。鈴川自身も、この瞬間になってはじめて生への執着がこれっぽっちも無いのだということを知り、少しだけ驚いた。
死の間際は世界がスローモーションになるという話をよく聞くが、今こそがまさにその状態で、衝撃で故障したのだろうか、男の持つ懐中電灯が一度瞬くのを静かに眺めていた。
――――死ねば、今まで稼いだ金はどこへ消えてしまうのだろう。葬儀代へと消えるのだろうか。俺は、今まで自身の葬儀代の為に働いていたのか。それならば、どうして今まで生きてきた。葬儀を挙げるためか。
「おい」
最期の自問を浮かべた時、怒気を孕んだ低い声が鈴川の思考を霧散させた。
霞む視界が捉えたのは、何よりも黒い、喪服のようなスーツを着た男だった。艶のある黒髪を後ろに撫でつけ、橋の袂に立てられた街灯の明かりを背負い、汚らしいものを見るように鈴川と小太りの男をねめつける。
「ひ、ぃ――――ッ」
頭上で男が息を詰め、二、三度痙攣するように身震いして尻もちを着いた。わななく唇から涎の粒を垂れ流し、まろびながら一目散にどこかへ駆けって行ってしまった。アスファルトの上で転がされたまま、呆気にとられて目をぱちくりさせながらスーツの男を見る。
「な、なに……?」
死を覚悟し、受け入れようとしていたのに、たった一人の男の、たった一声で状況が一変したのだから、鈴川は大いに困惑した。まるですぐそこまで迫っていた希望を掠め取られたような、そんな落胆さえ覚えたのだ。
男は煙草を美味そうに吸いながらずかずかと近寄り、鈴川の前で腰を落とす。鼻先で煙を吐き出され、噎せる。剣呑な眼つきに臆していると、男はきょろきょろと地面の辺りを見回した。
「なんか盗られたか?」
「へっ? あ、そういえば……」
尻を弄る。ポケットには確かに財布のふくらみがあり、ホッと息をなでおろす。
「大丈夫、です。あの……」
礼を言おうと身体を起こした時、強い眩暈が鈴川の感覚全てを浚った。
「あ……?」
忘れかけていた脳天の痛みを思い出す。激痛から悪心が生じ、その場で激しく嘔吐する。眼前で微動だにしない男を気に掛ける余裕もなかった。意識が途切れる。真っ暗で、何も見えない。
数日後、鈴川は見知らぬマンションの一室で覚醒した。
部屋の主は、命の恩人とも言える例の男で、目覚めた鈴川を一瞥すると、相変わらずの何を考えているのか分からない仏頂面で事細かな面倒を見てくれた。
鈴川は倒れてから今まで昏々と眠り続けていたようで、頭の方へ手を持っていけば、綺麗な包帯に指が触れた。治療費、ということばが頭の端でちらつく。初めて会った時は暗くてよく分からなかったのだが、どこからどう見ても真っ当な職業に就いている人間とは思えない。少しでも機嫌を損ねてしまえば、殴られる程度では済まされないだろう。しかし、助けてもらったのもまた事実――――。
どう言っていいのか分からぬまま目を泳がせていると、“信濃”と名乗ったその男は、ただ一言、
「仕事を手伝う気はないか?」
とだけぽつりと零した。まんまるに見開かれたブラウンの虹彩に、信濃の歪む口元が映り込む。その冷笑とも受け取れる笑みが、今でも鈴川の心に小さなしこりとして焼き付いている。
断り切れず、鈴川は半ば心ここにあらずに頷いてしまったが、信濃のお蔭で命を繋いだも同然だ。恩も返さねばなるまい。少しのひっかかりを覚えたものの、元より流されやすい性分だったので、成り行きに身を任せてみようと思った。あれこれ思考したり、悩んだりすることをもうしたくなかったというのもある。
具体的な仕事内容も知らぬまま、鈴川は自覚をしない内に借金取りの舎弟となっていた。これはまずいと心の片隅で思いこそすれ、だからと言って信濃の元から逃げる気はさらさらなかった。逃げられる気がしない。身を隠す伝手もない。飛び出すように上京した手前、実家にこれ以上迷惑はかけられない。三十路手前の男が、考えなしに取り立て屋なんかしていると知ったら、ただでさえ希薄な縁が完全に途切れてしまうだろう。
鈴川はじんわりと胸の内に拡がる不安の闇に蓋をした。
――気付いていない。俺は何も気付いていない。
不安を認めさえしなければ、それは無いことと同義になる。
――知らない。何も知らない。不安など無い。不安に思うことなど、一つとして無い。
信濃の後を幼子のように付いて回り、言われたことをこなせばいい。殴れと言われたら殴る。脅かしてやれと言われたら非道なこともした。
殴る瞬間、ペンチで歯を掴む瞬間、手に力を入れる瞬間、カメラのシャッターを切る瞬間、いつだって鈴川は心の瞳を閉じていた。自分が行う残忍な行為を、薄膜を隔てた暗闇のシアターでぼんやり眺めていていた。現実なんてどこにもなかった。夢の中をふわふわと歩くように、畜生の毎日が非現実として加速していく。
そんな低劣な日々に馴染んできた晩春、鈴川は神前と出会った。
夜な夜な路地に立ち、殴られ屋をして小金を稼いでいると言う彼は、目元を大きく腫らしながら、鈴川の恫喝を心底どうでも良さそうに、ぼんやりと受け流した。怯えさせる、という当てを外した鈴川は大いに戸惑い、伺いを立てるように神前の暗い瞳をじっと見詰める。そのどこまでも空虚な瞳は、鈴川の心を大きく揺らした。ついさっきまでの威勢はどこへやら、定石ではない態度を取られ、瞳を泳がせて困惑する。神前は必死に借金を返そうとしているのでもなし、嫌々、不満げにしわくちゃの紙幣を汚らわしそうに財布から引き抜き、数えもせず鈴川の足元へ放る。幾度も揺れてようやく着地する桜の花びらのように、紙幣が音もなく畳に拡がった。
「今日のところは、それで勘弁してくれ」
低い、無感情な声が怠そうに紡がれる。
「鈴川、数えろ」
呆けていると、背中を信濃に小突かれた。勢いでバランスを崩し、札を踏み付ける。怒られるかもと思ったが、二人は何も言わない。バツが悪くなり、いそいそと金を拾い、数えた。やたら千円札が多く、札で指を跳ねながら落ちる沈黙が居心地悪く感じる。
「いくらある?」
「えっと、六万……あります」
まるで自分が債務者になったような気分で、おずおずと信濃に金を差し出す。
信濃は受け取った金をぞんざいに内ポケットにしまい、踵を返した。鈴川はホッと安心する。最初の頃は、鈴川が数えた札を、信濃がもう一度数えて確認していたのだ。昔よりかは信用されているのだと知り、少しだけ嬉しく、また誇らしく思う。
去り際、ドアを締める動作と共に、ちらちと神前の方を振り返った。そして鈴川は喉を詰まらせる。
暗い、暗い夜に澱む汚泥のような瞳が、じっと鈴川と信濃の後ろ姿を見つめていた。睨むでもなし、ただひたすら無感情に、むしろ蔑視するかのように、じっと――――。
背筋が泡立つのを感じた。他人の凄惨な生傷を見せつけられた気分だ。微かな恐怖と、それから少しの親近感。彼は、生を、金を、人を疎んじている。
額に吹き出る汗を拭いながら、鈴川は閉じた扉に背中を預け、へたりこんだ。小太りの物取りに襲われた夜を思い出す。あの時の、完全に命を投げ出した時の感覚。諦観。刹那ではあったが、脳天までをも浸す解放感。それを、神前と言う男は全神経で味わい続けている。
「……鈴川。中てられるなよ」
信濃は振り返らずに鈴川に言い放つ。慌てて後を追いながら、心の中で、手遅れだと呟いた。すでに今、神前の部屋まで引き返してじっくり瞳の中を覗き込みたいと思っているのだから。
――話したい。もっと話したい。繋がりたい。
鈴川は高鳴る胸をぎゅっと押さえた。その瞳を黒く染める正体を、神前の末路を確かめたいと思った。
まるで恋のようだった。暗い瞳に恋をしていた。
* * *
ゆらりと頼りなく揺れる体を、容赦なく拳で痛めつけられる。
最初は順調だった殴られ屋稼業も、数か月そこらですぐにその余裕は瓦解してしまった。断続的な脳震盪。日常生活にまで翳を落とす、慢性的な眩暈と吐き気。日を増すごとに増える痣と生傷。信濃に支払う返済金も、期日を過ぎる毎に少なくなりつつある。ステップを踏んで避ける事もままならない日もあり、そんな時は大人しく、今回のように一分経過するのをじっと耐えるしかなかった。
とてつもなく長い六十秒が悪夢のように肉体を蹂躙し尽くすのを、スーパースローで体感する。右頬、左頬、そしてまた右頬を力任せに殴られる。縺れた足が踏鞴を踏むままに、柔らかく臭いごみ袋の上に倒れ込んだ。血の混じる唾液を吐き出す。舌を押し付けた奥歯がぐらぐらする。あー、と情けなく出た声は湿った夜気に掻き消える。
もう一発来るかなと考えた瞬間、セットしていたタイマーが泣き喚くように電子音を響かせた。拳を振りかぶっていた男は暫く硬直した後、すっと手を下げ、嵌めていたグローブを脱いで仰向けに倒れたままの神前の腹の上に置いた。前払いで貰っていた千円はポケットの中でくしゃくしゃになっているに違いない。男が去った後、神前はポケットから千円を抜き取ると、冴えた満月に透かして何十分も眺めた。通りすがりの酔っぱらいが寝転ぶ神前に野次を飛ばしたが、どうでもよかった。アルコールで気を大きくした畜生以下の言葉に貸す耳など持ち合わせていない。
――――こんな紙切れ一枚の為に……
何度も何度も同じ言葉を繰り返し唱える。こんな紙切れ一枚の為にこんなにもぼろぼろになって、血だらけになって、顔を腫らして、内臓を傷めて、一体何をどうしたいのだろう。
もはや口惜しさすら感じぬ。この紙切れはいずれ束となり、鈴川の手を介し、信濃の元へ流れ、そして闇金事務所の懐で屑となり果てる。
――――親父のせいだ。親父は、俺が地に這いつくばって血を吐きながら金の工面をする姿を、少しでも想像しながら死んだのだろうか。死んでくれたのだろうか。少しは、地獄で俺の苦労を見ているだろうか。そして、負の遺産をしこたま拵えて残した己を未来永劫呪ってくれ。
月に透かした肖像画の顔が涙でぼやける。悔しいのでも、痛いのでもない。ただ、ただひたすらに虚しかった。
自分に残された借金も、潰れた未来も、ろくな世話もしてやれなかった父親を心の底から呪うしかなくなってしまった自分も、全てが虚しくて仕方がない。
月に紙幣を翳したり、何気なしに匂いを嗅いでみたりしていると、ひょいと見慣れた顔が神前を見下ろした。
「すっ、鈴川……!」
「わあっ、びっくりした! てっきり気絶しているのかと思いましたよ。大丈夫ッスか? 立てます?」
驚いて上体を起こすと、鈴川も慌てたように屈ませていた体を起こす。この間頬を叩いたきり顔を合わせていなかったので、気まずい空気が流れた。
目も合わせないまま大丈夫だと突っぱねようとする神前の手を鈴川は問答無用で掴み、立ち上がらせる。ついでに服に付いた汚れも手で払ってやるが、不機嫌そうに睥睨された。
「ご機嫌ナナメですね」
「この通りのザマなんでな」
神前はイラついたように口をもごもごさせると、赤い唾を吐いた。ぐらつく歯が気になって仕方がない。
「口の中、切りました?」
「いや、歯が……」
「病院行かないと」
「そんな金、ねえよ」
駄々を捏ねる子供みたいにああでもない、こうでもないと言い訳をする神前に内心ため息を吐きながら、鈴川はポケットから財布を取り出し、何枚か紙幣を抜くと神前の掌に押し付ける。神前の手指は、きちんと血が循環しているのか心配になるくらい、冷たかった。
「手、冷たいっすね」
金を握らせながら、冷たい手を温めるようにごしごし擦っていると、更に不機嫌になってしまった神前が振り払うようにして鈴川の手を叩き落とした。いつかと同じように、紙幣が花弁のように舞う。
「債権者に恵んでもらうなんて、そんなことあるかよ……。これ以上、俺を惨めにしないでくれ」
ふいと背けられた横顔に、鈴川は唇を噛む。こういう時、何を言えば一番ベストな結果になるのか見当もつかない。
よかれと思って取った行動が、相手の柔らかい部分に刺さる。言葉というのは、かくも難しいものなのか。純粋な好意は、得てして伝わらない。
バベルの塔を建設させたくなかったのなら、神はそもそも人間から声を奪うべきだったのだ。小さなコミュニティの中で、言葉は曲折し悪意とも善意ともなる。鈴川は、自分の発した言葉が意図せず裏目に出た時、いつも激しく自分を呪ってきた。軽率な判断をした脳に失望し、安易に言葉を乗せた舌を恨み、そしてたかが相手を苛立たせた程度の事で激しく動揺し、幼子のように泣きだしたくなる自分の脆さを心の底から呪っていた。
「す、すみません。俺、バカだから……。本当、バカだから……」
せめてもっと頭が良ければ。相手の機微を目ざとく拾い、適切な言葉をさらりと口にできる、賢い人間であったのならば。
蹲って散らばった紙幣を拾う鈴川を見下ろし、神前は狼狽える。薄ぼんやりとした街灯に浮かび上がる、夜気に曖昧に縁どられた頬の丸いライン。その上を、すうと小さな涙の粒が滑り落ちる。どうして鈴川が泣く必要があるのか全く分からなくて、そのやわらかい頬を張った時の掌の熱い感触を思い出し、罪悪感が倍になって襲い掛かる。渇いた音と共に頬を叩いた掌が、今更疼いている。妙な罪悪感はいつまでも拭えず、掌の皺の一つ一つの窪みにまで後悔が染みついているように思えた。
「お前は……」
神前は躊躇いがちに口を開く。指と指を後ろ手で擦り合いながら緊張をやり過ごす。
「でも、たぶん、やさしい奴だよ……」
まるで罪滅ぼしのように浮ついた言葉。それでも弾かれたように顔を上げた鈴川は、歳に似合わない子供のような顔で、嬉しそうに瞳を細めて笑った。淡い光に照らされたその目元に、小さな擦り傷と青紫色の痣が出来ていることにようやく気が付いたが、まるで触れてほしくないかのようにゆるく頭を振られたので、口を噤んだ。人の内側に入り込むのは苦手だ。
それでも内側が見たくなって、見なければいけないという気になって、感情が先行する。
「……鈴川、お前も、痛いのか」
ふいに口を衝いて出た言葉に、自分自身驚いた。え、と面食らう鈴川のか細い吐息を耳に感じた時、ふっと膝の力が抜け、路地に倒れ込む。星が廻った。街灯の電燈が、ほの白い満月と重なる。
「け、賢吾さん! 賢吾さん!」
もうすっかり、アスファルトの匂いも嗅ぎなれた。冷たくてひんやりして、むしろ心地が良い。背を揺さぶる鈴川の必死さを、なぜか嬉しいと感じていた。
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