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第3話
「う……」
頬にひやりとした感触を受け、神前は呻きながら重い瞼を開けた。見慣れた自分の部屋だ。浅瀬の川のような木目がうねる天井。ムンクの叫びに通ずるものがあると常々思っていた。
「大丈夫っすか? 水、飲めますか?」
「あ、ああ」
鈴川は冷たいミネラルウォーターのペットボトルの蓋を開け、神前のかさつく唇にそっと押し当てる。まるで子供の世話を焼くような甲斐甲斐しさに、むず痒さを感じた。鈴川の手が優しく神前の顎を押さえ、冷たい水がゆっくりと口内に流れ込んで来る。満たされる。
「もっと飲みます?」
「いや、いい。……家まで運んでくれたのか。すまないな」
「え、あはは、賢吾さん、どうしたんですか。謝るなんてらしくないっすよ」
そう茶化しつつ、鈴川は内心に湧き上がる高揚を隠せないでいた。運んでくれた、という受け身な物言いが、鈴川の雄の部分を刺激する。まるで騎士にでもなった気分になる。たったこれだけのことで、鈴川の小さな承認欲求は満たされる。些細なことで満たされる分、空になるのも早いのだが。
嬉しそうにいそいそとコンビニの袋から菓子パンを取り出しては並べる鈴川を一瞥し、神前は大きく息を吐いて布団により一層身体を鎮めた。横たわっているだけなのに、眩暈で瞼の暗闇が前後に揺れる。
「あ、黒目。動いてるっすよ。眩暈がするんですね」
下瞼を無遠慮にぐいと下げられ、手を叩き落とした。
「大丈夫だ。もう治った」
「無理しない方がいいですって。こんな大きな痣作って」
今度は眉付近の痣を軽く押される。いて、と声を上げると、鈴川は慌てて手を引っ込めた。バツが悪そうにシュンとうなだれている。
「お前こそ、どうしたんだ? その痣」
神前が手を伸ばすと、大人しく顔を近付けてきた。撫でるように頬骨の辺りの痣を撫でると、猫のように掌に頬を摺り寄せてくる。久々に感じる他人の肌の質感に、神前はひそかに動揺する。
「……気色悪い真似すんな」
「ひどいっ! 女の子は歓んでくれるのに!」
「そりゃ、俺は女の子じゃないからな」
低く笑う神前に、それはそうですけど、とモゴモゴ口の中で反論する。自嘲めいた笑みならたまに見かけるが、楽しそうに笑う神前は初めて見た。笑った自覚のない神前は、鈴川から注がれる熱っぽい視線に気付かないふりをして、瞼を閉じた。暗闇の向こうでひんやりとした感触がする。冷たい掌で、閉じた瞼を覆われた。より一層濃くなる闇が心地よかった。
(賢吾さん、本当ならこんなふうに笑って生きていた筈なのに……)
鈴川の切なげな表情は、神前には見えない。
(こうして、嫌な現実を全部、知らないでいられたらいいのに)
願望と祈りのあやういあわいを行き来しながら、鈴川は神前の瞼に押し当てた手の甲に唇を落とした。掌の下で、睫毛がさわりと震えた。
「す、ずかわ……?」
怯えたように、神前の喉仏が上下する。気付かれただろうかとひやりとする。訝しがられるかと危惧したが、かさついた唇は押し黙ったまま、開かない。一度、僅かに言葉を発するために短く息を吸ったが、訪れるのは沈黙ばかりだった。
瞼の上に置いた手をやっとの思いで退け、額を撫でた。居心地が悪そうに眼を泳がせる神前の仕草に、胸が熱くなる。
「いっぱい、傷がありますね」
「そりゃ……、殴られる仕事だからな」
「口の中はどうっすか」
問われて、歯がぐらついていた事を思い出した。舌でぐいと押すと、やはり右の奥歯がぐらついた。少し血の味もする。
「……まあ、このくらいならどうってことねえだろ」
「そんなこと言って、後々ものすっごく痛くなったりするんですから」
「そうなりゃ、その時になんとかするさ」
「おっさんが無理したって、碌なことになんないっすよ」
軽口を叩く鈴川の手を抓った。
「いた、いたい、痛いッスよ!」
痛い痛いと大騒ぎながらも鈴川は楽しそうで、神前も悪い気はしなかった。
久方ぶりに、“楽しい”という初歩的な感情を思い出した気がした。毎日毎日忙しくて、それでいて同じことを淡々と繰り返しているので、楽しむ余裕も、楽しめるイベントもなかった。くく、と喉を鳴らして笑い、慌てて咳払いをした。耳聡く神前の押し殺した笑い声を拾った鈴川の笑顔が、更に喜色で満たされる。
「わ、嗤われる趣味は無い」
「もう、堅い人っすね。嗤ってるんじゃないですよ。こういうのは、笑い合ってるって言うんじゃないんすか?」
そういうものだろうか。女子供の会話でもあるまいし、男同士、それも債権者と債務者が笑いあうというのも可笑しな話だ。
鼻歌でも歌い出しそうなほどに機嫌を良くした鈴川の、楽しげに細められた瞳。ホスト崩れの軽薄そうな顔。まるで悩みなど無さそうに弧を描く唇が食む菓子パンの断面をふと思い出した。菓子パンを咀嚼する際に時折混ぜる、鈴川と言う陽の存在に不釣り合いな呪詛。
「鈴川」
「? ……なんですか?」
軽く首を傾げる姿がどうしようにも幼い。幼稚な仕草が似合う彼の服の下には、そんな仕草には似つかわしくない大きな痣があるのだ。どれほど無邪気に振る舞おうと、汚れた、人を不幸にする仕事をしている事に違いは無いのだ。神前はたまたま懐かれただけで、もしも彼に好意を抱かれていなければ他の債務者と同じく、手ひどい仕打ちをされていたのかもしれない。
「……お前は――――」
今でも死ぬことが一番の救いになると思っているのか。
声にだして問うのは簡単なのに、どうしてか舌に乗らなかった。問うたところで、鈴川はきっと、ふつうの顔をして答えを返してくれるはずだ。恐らく、「そうですよ」と言って笑うに違いない。なんでもない顔をして、まるで当然のことのように答えるはずだ。
口ごもる神前を見下ろし、鈴川は半端に途切れた問いの意味を悟った。バカだからと己を卑下する鈴川は、その実誰より聡い。その上、神前は隠し事が下手くそで、不器用だ。皆まで言わずとも、顔に書いてある。言葉尻の意味を悟らないわけがない。
「……賢吾さんは本当に面白い人ですね」
「馬鹿にしているのか」
「まさか。褒めているんですよ。俺、そんな賢吾さんが好きだから」
すき、という声の連なりに甘痒いものを感じる。桜を連想した。淡い色の、小さくてやわらかな花弁。花咲く期間は短く、そして気ままに舞い散るそれを追うのは難しく、差し伸べる手をひらりと躱して地に落ち、汚れる。
慕われるのは、嫌ではない。ただ、鈴川は神前の金をむしり取る存在だ。
こんな出会いでなければ、こんな立場で出会っていなければどうなっていただろうかと思いついたが、そもそも借金をこさえていなければ、父親が信濃の事務所から金を借りていなければ、鈴川と出会うことは無かったはずだ。たとえば繁華街ですれ違っていたとしても、たとえばレストランで相席になっていたとしても、他人だ。言葉を交わすことも無い。視線も交わらない。もしかしたら、バスの中で隣に座ることもあったかもしれないし、満員電車で肩同士をぶつけ合いながら互いに苛立っていたかもしれない。そう思うと、不思議な縁を感じてしまう。
鈴川との縁をほんの少しだけ尊いものに感じながら、それでも、借金地獄に沈むくらいなら鈴川と出会わない方がマシだったと確信する。神前は、そう強く思い込む。
帰り支度を始める鈴川の後ろ姿を布団の上から眺め、苦々しく寝返りを打った。八つ当たりのような恨みと、少なからず鈴川の存在が自身の心の保養になり得ている事の矛盾。お邪魔しました、と背中の向こうで小さく聞こえた。いつも通り、遠慮がちに半分だけ振り返って、困ったような顔をしているのだろう。丁寧に床の上に並べられたままの菓子パンは手を付けられず、そのままそっくり残っている。てっきり、鈴川は自分のおやつの為に買ってきていたと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。まるで、寝込む神前へのお供え物のようだった。ため息を吐きながら、仕方なく供え物を検分する。
「だから、甘いものは嫌いだって言っているのに……」
見るからに甘そうなクリームパンと、うぐいすあんぱんと、ロールカステラ。全部、鈴川の大好物だ。甘いものばかり食べて、死を賛美する口舌を宣う童顔の、翳りを帯びた無邪気な笑み。
憎々しいはずなのに、放っておけない。放ってもおかれない。
鈴川のいない部屋は静かで、耳鳴りがするほどに静かで、忘れかけていた眩暈と頭痛を誘発させる。舌で奥歯を撫でると、やはり血の味がした。ぐ、ぐ、と何度も力を入れ、血を舐める。鈴川がいなくて、淋しい。慕ってくる相手を嫌うのは難しいものなのだなと思い、首を振る。どうして意固地になって鈴川を嫌おうとするのか。何を否定しようとしているのか、気付いてしまったのだ。
眩暈がする。頭が割れそうなほどに痛い。明日も、ずっと、殴られ続けなければならない。
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