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第4話

     夕方までの仕事を終え、夕焼けに赤黒くなっていく部屋の中で、ぽつんと影の中に蹲る。四角く切り取られた窓の向こうで、遠くの煙突が逆光に沈み虫食いのように赤い空を蝕む。  早朝から菓子工場でのライン作業に就き、夕方から数時間、別の工場で検品のアルバイトをしている。アルバイトを終えるとその足で電車に乗り、いつもの街灯の下で客を待つ毎日だ。元々は不動産屋で働いていたのだが、顔に傷が絶えないため退職をした。工場での仕事は大ぶりのマスクをするため、傷も分からないだろうと思い応募した。人間関係も希薄だ。今のところは特に不審がられる様子もない。  雑多で機械的な毎日。時折、鈴川が尋ねてきて、時折信濃が嫌味を言いにやってきて、時折二人から揃って返済を催促される。上目づかいで神前の機嫌を窺うような鈴川と、その後ろで気だるげに悠々と煙草を吸う信濃のコントラストはとても極端で、神前はいつも適当な金を渡しながら不思議な心地でいたのだ。自分が一体何のために金を渡しているのかも、一瞬分からなくなってしまう。  信濃達との関係も、はや半年を過ぎようとしていた。桜の香りで身体を満たしながら絶望した春を思い起こす。衣服の整理をした記憶は無いのだが、気付いてみれば随分前から長袖を着て生活している。意識はせずとも、こんな毎日でも一応は環境に適応し生きているのだと今更ながら自覚し、嗤った。今年の秋は寒い。テレビを付ければ紅葉のニュースでもやっているだろうか。生憎テレビは部屋に置いていないので分からない。仕事の休憩中に、隣県の海岸にアザラシが漂流してきたニュースがやっていたのだが、同僚の主婦が、今度の休みに子供と見に行くのだと隣で楽しそうに語っていた。見目麗しい彼女が、早朝から深夜まで大きなマスクで美しい顔を隠しながら働いているのを、神前は少しもったいないと思っていた。美しい顔を活かした仕事だってあるだろうにと、まるで老婆心のような事を考える。自分だって毎日新しい生傷を作り、暗い顔で出勤し、誰とも目を合わせ ず、喋らず、労働している。触れられたくないものを、大きなマスクの下に隠して。つまりは、そういうことなのだろう。  夕飯を食べる気になれず、そのままの足で次のアルバイトへ向かう。出掛けようとしたその時、乱暴に扉が叩かれた。ぼろアパートにチャイムなど無い。訝しげに思いながら扉を開くと、珍しくご機嫌な様子の信濃が当たり前のように神前を押しのけて部屋の中へ入ってくる。止める隙も無かった。 「返済の期日までは、まだあると思うんだが」 「そんな要件じゃねぇよ。お前の返済を手伝ってやろうと思ってな」 「……どういう事でしょう」 「高額なアルバイトを斡旋してやるって言ってんだよ。なに、危険な仕事って訳じゃねえ。お前、最近目が悪くなったろ、殴られすぎで。頭もふらふらしてるんじゃないのか?」  図星ではあったが、展開が読めず神前は押し黙った。いやな予感が小さな火花のように弾ける。 「お前、豚の精液飲めるか?」  眉根を寄せる神前に、信濃はごく当たり前のように言い放った。 「……は?」 「そういうマニア向けのビデオに出演する男優を募集しているんだよ。伝手にAV監督がいてな。どうだ? やるか?」 「……」  口の中で“豚の……”と何度も繰り返し呟く神前の膝を、爪先で小突く。胡乱な瞳が信濃を見上げる。 「お、男がそんな事をして……、一体、その、……売れるのか?」  うら若い女性が汚らわしい恥辱に曝されるというのならまだ理解も出来るが、アラサーの男が豚の陰茎をしゃぶる姿を見て、一体何がどうなるのだろうか。大いなる眩暈を覚えた。 「……一番に気にするところが、そこか?」  強面が意表を突かれたように唖然とする表情を見て、神前はさっと視線を下にずらす。的外れな事を言ってしまったという羞恥心に、二の句が継げなかった。  固まったまま俯く姿を見下ろし、信濃は口角を上げる。澄ました男が失態に口ごもり震える様は、面白くて好きだった。 「売れるから作るんだよ。ニッチだからこそ法外な値段を付けたって、買う奴は歓んで大枚叩くんだからな。大の男が豚や犬に犯されたり、ザーメンを直で飲んだり、色々あるぞ。お前が出演するのは、直飲みと、盥で一気飲みするやつだな」 「まだ出るとは言ってねえよ……」  そうだったな、とやけに上機嫌で信濃は笑った。 「でも、よく考えてみろよ。ただ飲むだけだぞ。目をつぶって、少しだけ我慢をすればいい。それで即日四十万円現金支給だ。もっと頑張れば上乗せだってあり得る。……やるよな?」  ずいと顔を寄せられ、いつにない笑顔で同意を迫られる。まるで有無を言わさぬ物言いに、今更焦り出した。 「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺は、無理だ……」 「そう言われてもな。こっちだってもっと金を返してもらわないと困るんだがな。チマチマ利息分だけ返されたって、いつまで経っても堂々巡りだぜ? ここらで少し、軽くしておかないか?」  神前は憤慨する。そもそも自分が拵えた借金ではないのに、なぜ畜生の精液を啜ってまで借金を軽くしなければならないのかと、怒りが一瞬にして脳天まで達した。ぶわりと鳥肌が立つほどの怒りに震える。 「っ、ふざけるな! 俺は……!」 「口の利き方には気を付けろ」  今にも掴み掛らんとする神前を、信濃は鋭い眼で睨みつけた。まるで飼い犬を制するかのように、たった一言で立場の優劣がぴしゃりと決定されてしまう。端から優劣の順位など決まっていた筈なのに、それをまざまざと見せつけられ、神前は悔しさに頭がどうにかなってしまいそうだった。 「畜生にも劣るお前が、豚様のペニスをしゃぶらせて貰って、しかも駄賃まで与えてもらえるんだぞ。普通なら、こんな特別待遇な仕事斡旋して貰えねえよ。豚小屋で全裸で這いつくばって、豚の股間を舐め回す。良いじゃねえか。ボクシングの真似事よりも、よっぽど簡単な仕事だ」  嘲笑と共に、信濃のかさついた指が神前の耳を擽る。完全に馬鹿にされている。信濃の手を叩き落とそうと右手を上げると、鈴川の顔がチラついた。子供のような、純真に暴力を受け入れる瞳。ハッと動きを止めると、可笑しそうにその手を取られた。手弱女を労わるような優しい手つきで、手首の薄い皮膚に恭しく唇を落とされる。   「いつもいつも澄ました顔をして、空っぽなふりをしているお前が取り乱して泣き喚く姿を見たくて、この仕事を取ってきてやったんだ。たっくさん飲めるように、頑張って胃袋をでかくしておけよ?」  からかうように下腹部を押され、嫌悪感に嘔吐しそうになる。その様子すら信濃には愉悦となるらしく、 「それじゃ、二週間後に迎えに来るからな」  と悪魔の宣告をし、優雅に帰って行った。重々しく開かれた扉からなだれ込む夜の匂いに混じって、信濃の煙草の残り香がふんわりと揺蕩う。 「空っぽなふりをしている、か……」  辛いから、知らないふりをしている。辛いから、なんでもない顔をして金を渡している。信濃はその虚栄を見抜いていた。ずっと、見ていた。ひどい話だ。泣いて取り乱して許されるのなら、プライドも何もかも棄てて、赤子のように転がって喚いてやりたいくらいだ。それが許されないから、空っぽなふりをするしかないんじゃないか。何も感じません、何も辛くありませんと嘘を吐く防衛本能の何が悪いと言うのか。  神前は少しだけ虚無の余韻に浸った後、作業着を入れたナップサックを持ち、信濃の後を追うように夜の街へと繰り出す。どれほど残酷な宣告をされたと言って、どれほど陰惨な未来が待っていたとしたって、目先の仕事は待ってはくれない。検品のアルバイトに遅れてしまう。九百円と少しの時給で、四時間のアルバイト。それが終われば、一分千円の殴られ屋。それを思えば、信濃の言う通り、たった数時間、拷問紛いのビデオ撮影に出演するだけで数十万円ものお金が手に入るのだから、確かに効率はいいのかも知れない。ふ、と笑いが漏れる。そんな労働をして金を稼いで、借金を返済し、後には何が残るのだろうか。自分の葬儀代くらいは、残るだろうか。気が狂いそうだ。     

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