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第5話
信濃が事務所に戻ると、丁度鈴川も回収から戻ってきたところだった。最近は常に一緒の行動ではなく、分担して鈴川にも仕事を任せることが多くなってきた。信濃はそんな自身の変化に驚いていた。今までどれほど親しくなった仲間でさえ大事な金庫の鍵を預けたり、自宅の場所を教えたりなどはしてこなかったのに、どうしてか鈴川にだけは信頼を置くようになっていたのだ。
「あ、信濃さん。お疲れ様です。……けん、あ、神前のところ、行ってきたんスか?」
鈴川は慌てたように神前の名前を言い直す。そのいじらしい姿を見て、信濃は目を細めて嗤った。
どうやら、神前と立場を越えて懇意にしている事を、信濃には隠しているつもりらしいのだ。もちろん信濃にはお見通しで、むしろ鈴川の挙動不審な姿を見て遊んでいる節があるのだが、当の鈴川は隠し事に必死で、全ての隠蔽行為が徒労なのだということに気付く素振りもない。
「まあな。お前こそ首尾はどうなんだ」
「……俺は佐々木のオッサンのところへ。取りあえずは利子分で手いっぱいって感じで……」
「それで?」
鈴川は言葉を詰まらせる。顎を掴んで無理やり顔を上げさせると、瞳が泳いだ。
「利子分だけ……貰って来ました」
鼻を鳴らし、掴んでいた顎を突き飛ばすようにして放した。体勢を崩した鈴川が椅子に倒れ込む。
「名義貸しをさせろ」
「……ッス」
ちらりと振り返ると、鈴川は項垂れ、小さく息を吐いていた。信濃は鈴川に信頼を置く一方で、彼がなんとかして自分の元から去ろうと画策していることを知っていた。昔は、二人で歩くとき、常に鈴川は楽しそうに隣を歩いていた。ホスト崩れの細身のスーツを着て、尖った革靴で大股で歩いていた。まるで自分の隣にいることが誇らしいんだと言わんばかりに、背筋を伸ばして。
それが、今や見る影もない。歩くときは自然と二、三歩後ろをとぼとぼと歩く。叱られた子供のように、俯いて信濃の影を踏んで歩いている。
神前賢吾と出会ってからだ。恐らく、自身が身を置く裏の社会に疑問を持ち始めたのは。
元々、土手で暴漢に襲われていたのを助けたのも偶然で、事務所に引き入れたのも体よく使える家政婦のような小間使いが欲しかったからだ。他意はない。強いて言えば、このお気楽そうな青年がどんな顔で人を殴り、そしてどんな手を使って自分の元から逃げ出すのか興味があった。最初は適当に遊んで手放すつもりでいたのだ。しかし、隣に置いていると、思いのほか居心地が良い。久方ぶり見る屈託のない笑顔と、天真爛漫な振る舞い。信濃の薄暗い生活にほのかな明かりが宿ったようだった。
そんな鈴川は、笑顔の底に黒い渦を隠していた。初めてその渦に触れたのは、取り立てをした帰り道でのことだった。喧嘩はしたことがあったけれど、人を殴ったのは初めてだと言う鈴川が、“どうしてこんな痛い思いをしてまで生きて金を返すんですかね”と口にした時だ。死んだ方が絶対に楽だと何度も繰り返し口に出し、不思議そうに首を傾げていた。まるで生への執着がない鈴川に、信濃は更に好感を持った。きっとこの男は、いい取り立て屋になる。逃がすのは惜しい。そう確信した。
それなのに、絶望で自棄になったふりをしている臆病者に心を奪われている。
「鈴川、お前、神前のこと好きか?」
背中越しに、動揺が走ったのを感じた。緊張する筋肉と、骨の軋む音さえ聞こえてくるようだ。それほどまでに、鈴川は動揺している。
「え、あ、はは、変な冗談はやめてくださいよー。信濃さんらしくないっすよ」
「俺が帰ってきた時、必ず神前のところへ行っていたかと聞くよな」
「そ……、そうでしたっけ」
いくらなんでも分かりやすすぎる。むしろわざとやっているのかと疑問に思うほどだ。
「はぐらかすな。神前のことが好きなんだな?」
重ねて問うと、鈴川は観念したように強張らせていた身体の力を弛緩させる。唇を尖らせながら、拗ねたように否定を並べる。
「……そんなんじゃないですけど。ただ、なんとなく……」
「なんだ?」
形にならない言葉を探すように、鈴川は手指を弄り始める。まるで子供の癖だ。
信濃はソファに深く腰掛け、煙草を取り出した。机を爪でこつこつ叩くと、慌てたように鈴川が駆け寄り、火を付ける。
「俺も分かんないっす。なんとなく、放っておけないっていうか……」
「それを、世間一般的には好きって言うんじゃねーか?」
思い切り煙を吐き出すと、鈴川はいつもの通り噎せこんだ。信濃は喉を鳴らして笑う。このやり取りは、もはや二人のお約束の日課だった。この一種儀式めいた遊びをすると信濃の機嫌が良くなることを知っているので、鈴川も毎度毎度、律儀に煙を吸い込むのを忘れない。
「……どうッスかね。助けになりたいとは思うんスけど、でも、俺はそんな事を思える立場じゃないし、賢吾さんは俺の事迷惑そうにしていますし、それに……。あ、す、スミマセン」
信濃に怒られないと悟や否や溜めていたものを吐き出すかのようにポンポンと言葉を紡いでいた鈴川だが、口が過ぎたかと慌てて頭を掻いた。
ちっともスミマセンなんて思っていなさそうな照れた仕草に、信濃は小さな苛立ちを覚えた。助けてやったのは自分で、仕事を与えてやったのも自分で、人生で初めて信頼というものを与えたのも自分だというのに――――。信濃は己の内側にあった黒いものが肥大していくのを感じた。信頼が、期待が裏切られて行く瞬間を噛みしめる。
「ま、良いんじゃねーか。別に借金なんて、独りで返さなくったっていいんだよ」
「……?」
疑問符だらけの鈴川の後頭部を掴み、神前にしたのと同じように、耳に息を吹き込む。怯えた体が痙攣するように震えた。
「お前、神前が好きなら、一緒に借金返してやれよ。ちょうど、高額なビデオの出演者を探しているんだよ。いつもの、豚フェチの瀬崎監督の作品だ」
「なっ……! お、おれが……?」
可哀想に、弾かれたように顔を上げた鈴川が泣きそうに表情を歪める。信濃は心の底から湧き出る、とろけるような恍惚感を愉しむ。
「食ザー企画は神前一人で事足りるから、その次の作品だな。大好きな神前と向かい合って、臭い家畜小屋で豚にケツ掘られるか? その出演料で、神前の借金を返してやれよ。助けになりてぇんだろ?」
桜貝のように色付いた耳朶をぐいと引っ張り、視線を合わせる。痛みで歪む表情にたまらなく煽られた。
「賢吾さん、ビデオ……」
「出るだろうよ。出るしかねーよ。あいつにはもうこの道しか残されてないんだからな」
「そんな……」
「お前だって散々見てきただろ。二進も三進もいかなくなって、きったねービデオに堕ちる男も、女も、散々見てきただろうが。それと一緒だよ」
ぐ、と唇を噛む。白い歯が唇の薄い皮を突き破る瞬間を、目の前で見詰める。
鈴川はそれ以上何も言わなかった。ただ悲しそうに、瞳を伏せていた。信濃はそんな鈴川の姿を胸に刻み込む。期待に応えられないなら、信頼を裏切るなら、手を掛けてやる必要はない。端からそんな仰望など存在しなかった。最初から鈴川になど目を掛けていなかった。期待も信頼も寄せていない。信濃はそう思い込むことにした。
無かった事にしたいのなら、もはや鈴川を潰すしかない。
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