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第6話

    やかんが猛烈な勢いで水蒸気を噴き出す。けたたましい音に、うとうとと眠気の波間を行き来していた神前は目頭を押さえて立ち上がった。特売の日に買っておいたカップラーメンに湯を入れ、何度目になるかも分からないため息を吐く。喉が痛くて、痛くて、少しの吐息の反動で大きくえづいた。自分の口から大量に溢れ出る畜生のザーメンと、切れた喉から染み出る血が混ざりあった吐瀉物がフラッシュバックし、体がすっと冷える。ガタガタと勝手に全身が震え出し、訳も分からず叫び出したい衝動に駆られた。ひぃひぃと短く荒い呼吸の合間に、神前は何度も鈴川の名前を呼んだ。どうして鈴川の名前を呼んでいるのか、どこか遠いところで疑問に感じていたが、そういえば自分に危害を加えない人間は鈴川しか存在しないのだから、そういう理由なのだろうと無理やり納得をする。  どこか客観的に自分を見下ろし分析する自分と、荒れ狂う嵐のような不安に苛まれる自分がいる。神前は精神的にすっかり参ってしまっていた。     数日前、無事にビデオの撮影は終わった。結果、腹を下し、喉が切れた。全裸で、大勢の豚が鳴く臭い小屋の中で、豚の糞尿の上に座り込み、そして――――。  四十万円が入った茶封筒を受け取り、その足で事務所へ赴き信濃へそのまま渡した。鈴川は顔を顰めながら信濃の背後からひょいと封筒の中身を見やり、絶句していた。目線が合わさり、神前がふいとそれを逸らすと、悲しげに眉尻を下げた。神前の暗い瞳が、擦り切れたように充血する唇が、どこか漂う生臭さが、鈴川の不安にざらつく心を抉る。爪が食い込むほどに握りしめた拳が震えるのを、信濃が静かに見つめていたのを、神前は不思議に思っていた。信濃の表情に滲む、冷たい色。何かを観察しているかのような、ぬらつく蛇の視線。 「熱ッ……!」  目が霞み、伸ばした手がやかん本体に触れる。手を引き、唇を噛んだ。面白くない。何もかもが面白くない。無性に抵抗してみたくなり、火傷を冷やす事をやめた。一体何に対する抵抗なのか分からないが、どんな小さな事にも負けたくない気分だったのだ。  今現在の時点で、自分にあといくらの借金があるのか、そして一体いくら返済出来たのか、分かっていない。知りたくない。先に待つ苦悩より、目先にある苦悩に囚われ、“知る”ことを放棄している。神前は、何より現実を見ることが怖かった。知らなければ、悩まなくて良いと思い込んでいる。思い込んでいたい。全ての事象が先延ばしにされ、結果的に自分の首を絞め続けていることは分かっているのだが、向き合うタイミングを逃し続け、取り返しのつかないところまで辿り着いてしまった。  この先神前が迎えるのは、自殺にしろ他殺にしろ、死だ。死は遍く生物に科せられた終焉だ。死を迎えるのに、幸せも不幸も何も関係ない。裕福だろうが貧乏だろうが、生物が生き抜いてきた一生は、死の瞬間に等しく無価値なものになってしまう。  それなら、もうどうだっていい。いざとなれば、死ねばいい。  神前は曖昧に結論付ける。難しい事を考えているわけではなく、ただ、苦悩することが嫌になっただけだ。愚かだということには気付いている。  曇ったコップに水道水を注ぎ、口を付ける手前で一歩踏みとどまる。唇に付けた、銀色の大きな盥の感覚を思い起こす。両手で抱えた盥の重さ。いっそこの瞬間、心臓が止まってくれれば良いと何度も思った、あの豚小屋。豚。豚の嘶き。無機質なレンズ。遠くで楽しそうに鑑賞している、信濃の歪んだ口元。喉を通る――――。水を飲んだ。続けて二杯飲みほし、服の袖で口を拭った。カルキの臭みが鼻を抜ける。豚の臭気も一緒に思い起こす。手の甲に爪を立てて、追想を振り払った。  沸騰した湯をカップラーメンに注ぎ、傷だらけのテーブルの上に突っ伏した。眠気とだるさ、そして止まない偏頭痛とフラッシュバックで気が遠くなってしまう。覚醒している間はあれこれ悩んでしまうので、できれば一生目覚めたくないところだ。俗世とは切り離された幸福の街で、いつまでもあたたかい夢に微睡んでいたい。     夢のなかでの神前はどこまでも自由だった。行こうと思えばどこへだって行けるし、借金も存在していない。父親は田舎で療養し、病気は恢復へと向かっている。少人数ながら和気藹々とした不動産屋に勤め、神前は美しく穏やかな女性に物件を紹介している。降り注ぐ陽光は柔らかくて、窓辺から桜の枝が揺れているのを微笑ましく眺めて、女性と笑いあう。やがて結婚をし家庭を気付いた神前は、子を持ったことを祝し、なぜか鈴川を家に招待した。夢の世界での鈴川は取り立て屋なんかではなくて、保父の仕事に就いていた。子守が必要な時には任せてくださいと屈託なく笑う鈴川に笑顔を返し――――。  思い切り肩を蹴られた衝撃で、神前は大きく横に倒れ込んだ。衝撃でふやけたラーメンが飛び散り、やかんで出来た火傷をもう一度嬲った。 「呑気にお昼寝か?」 「うぅ……、し、信濃……さん……」  熱湯とはいかないものの、未だ湯気の出るスープが前髪から雫となって垂れ落ちた。泣きたい気持ちをぐっと堪え、上体を起こす。霞む視界の向こうに、信濃の見慣れた顔があった。楽しそうに、煙草をふかしている。小屋で見た顔と同じ、悪魔のような表情。どこまでも嗜虐的で、神前のような虚無に沈む人間をいたぶる事しか考えていないような――――。  手近にあったタオルで顔を拭く。腹は空いていたような気がするのだが、こんな状況だと、食べ物の匂いは吐き気を誘発する。わざと大げさなため息を吐き、胡坐を掻いて座り直した。 「こん、今度は何の用です……」  喉が痛むせいで、細切れにしか言葉を発せられない。信濃は少し訝しげにしていたのだが、原因に思い至り、ああと小さく感嘆した。 「喉を傷めたか。まあ、あれだけガブ飲みして逆噴射したら、そうなるわな」 「……それで、要件は」 「次のお仕事だよ。この間の監督がお前の事を甚く気に入ったらしいんだわ。出るだろ?」 笑顔で問うているふうを装って、信濃は神前が断るのを許さない。目が笑っていない。 「飲むか、食べるか、挿れるか、どうする?」  “開ける”のと、“顔を入れる”というのもあるんだが、とわざと抽象的な物言いをする。想像する余地があるというのは、大いに恐怖心を煽る。 「い、嫌だ……!」  寒気がするように、自分の腕を擦りながら首を振る神前の左頬を信濃は足蹴にする。ラーメンの汁に濡れた床に倒れ込んだ神前の頭に足を乗せ、渾身の力で踏みにじった。足の下で歯を食いしばる微弱な反応に気を良くする。 「ぐぅ、う……!」 「もういい加減、分かっているんだろ? 出来るとか出来ないとか、そういう話をしてるんじゃねえんだよ。端からお前に選択肢は無ェんだ。金が作れないんだから、俺が仕事を斡旋してやるよ。高額で、下劣な仕事をな」 「い、やだ、嫌だ……」  す、と圧迫感が無くなる。恐る恐る顔を上げると、驚くほど冷たい顔をした信濃と視線がぶつかる。動物的本能から、咄嗟に腕で腹を庇った。 「一人が嫌なら、鈴川と一緒に出るか?」  神前は耳を疑った。体の震えがぴたりと止まり、信濃の唇を凝視する。今、その唇は、何を象った? 「な、なんで、鈴川……?」 「鈴川に泣いて頼めよ。一緒に借金を返して下さいってな。二人分の出演料を返済に充てればいいじゃねえか。アイツなら、歓んでとはいかねえだろうが、協力してくれるだろうよ。ま、わざわざビデオなんかに出なくても、鈴川なら今、大金を持て余しているところだろうがな」  吐き捨てるように言い放ち、鼻で嗤う。自嘲とも取れる嗤いだった。 「ど……、どういう……」 「鈴川は、もう事務所にはいねえよ。事務所の金を全部持って、どこかへ消えちまった。アイツの事を信用して、金庫番させてたんだがな。……まさかお前のところに来てるんじゃねえかと思っていたが、その様子だと本当に知らねえみたいだな」  言葉と思考が追いつかないでいると、信濃は長い痩躯を神前の目線に合わせるようにいてしゃがみ、煙草に火を付けて怯える顔を覗き込んだ。暗い瞳と暗い瞳が真にかち合う。まるで合わせ鏡のように、どこまでも闇が反射しあい途方もなく無限に続いていくようだった。 「ま、逃げたっていうなら当初の計画通りって訳だな。逃げるか逃げないか葛藤する様を見るのを楽しみにしてたんだが、……どこまでも追いつめる方が楽しいだろ」  神前にはなにがなんだか全く分からなかった。茫然としていると、信濃は冷たい瞳はそのままに、口元だけ穏やかそうに笑んだ。  信濃が語る酷い仕事内容より、彼の瞳の方に心の底から恐怖する。どこからどう覗いたって、信濃の瞳には闇しか存在しない。何も考えられなくなり、瞬きすら忘れて信濃の瞳に見入っていると、顔面に煙草の煙を吹きかけられた。咳き込む神前にもう一度煙を浴びせると、信濃はいつものように薄い唇を歪めた。後ろに流していた前髪の一房が、ふいにはらりと落ちる。 「そ、それで鈴川は、今どこに……?」 「それが分かりゃあ、こんな事をわざわざお前に話さねえよ」  ぷか、と煙を吐き出すと、心底どうでも良さそうに煙草を床に押し付けた。カーペットが焦げたが、神前の意識はそこには無かった。  やくざの金を持って逃げることがどういう事なのか、神前にだって理解できる。ただでは済まない。きっと今もずっと、鈴川を捜索し続けているに違いない。そしてもしも見付かれば、どうなるか……。 「なあ、賢吾さん」  下の名前で呼ばれ、びくりと肩が震えた。信濃は、優しく微笑んでいる。初めて見る表情だった。優しい笑みの筈なのに、どこまでも冷たい。到底許容など出来るはずもない不和に眩暈がする。 「鈴川を俺のところまで連れて来たら、謝礼、やるよ」 「……え?」 「どうせアイツのことだから、絶対、お前に会いに来る。そうしたら、俺に連絡しろ。金利をうんと安くしてやるし、溜まった利息分は全部チャラにしてやってもいい。元金も、そうだな、三分の二程度なら、鈴川が持って行った金から返済に充ててやってもいいぞ」  まるで夢のような話だ。譲歩に次ぐ譲歩。肘を使い上半身を起こすと、神前はふらつく頭をゆるく振った。 「そんな上手い話、信じられるか……」 「誓約書を書いてやってもいい。お前が鈴川を連れて来ると約束するならな」 「……どっちにしろ、鈴川は俺のところには来ないだろ。四六時中、俺はお前らに見張られているようなもんだし、それは鈴川自身が重々承知している筈だ」  信濃の口角が持ち上がる。 「アイツはバカだからな。逃亡が限界を迎えたと分かりゃあ、潔くお別れを言いに、お前に会いに来るよ。そしてお前の手で、鈴川は断罪されるんだ。それが一番、面白そうだな」  信濃は心底楽しそうに嗤うと、顎をしゃくった。 「協力してくれるよな」 「……わ、わからない」  気まずそうに目線を床に落とす神前に舌打ちをすると、しなだれるように床に座ったままの顔面を思い切り蹴り飛ばす。 「お前が協力しようがしまいが、どっちにしろ、逃げられない。それなら、最初から期待をさせない方が鈴川の為になるだろ? 期待を裏切られた時の失望は、何より辛いものだからな」  声音に自嘲を含ませながら、信濃は帰って行った。ラーメンの匂いが立ち込める静かな部屋に、神前は微動だにせず寝転がり続ける。熱に浮かされている時のように四肢が痺れ、考えることも出来ない。何時間も、何時間も、時ばかりが行き過ぎ、次第に部屋に闇が降りて来ようとも神前は動かなかった。  安物のカーペットに染み込んだラーメンの匂いを嗅ぎながら、死体のように転がる。眠る一歩手前でぼんやりと覚醒をする。一度目を開けると、伸び切った麺の大群が視界に入り、その場で嘔吐した。ふにゃふにゃと触手を伸ばしては震える、寄生虫の群れのように見えた。いろいろなにおいが混じり合い、酸素を殺していくようだった。  時間の感覚も麻痺し、歓楽街へと向かわねばならぬ時刻だと言うのはどこかで理解していたが、とにかく疲れていた。とてもではないが起き上がって支度をする力が湧いてこない。動かねば、と半ば念じるようにしていると、アパートの階段を登る高い音が微かに聴こえてきた。とんとんとんと軽い音で、迷いもなく進んで来るその足音を、“きっとこの部屋に用事がある人間なのだろう”と当たりを付ける。はたしてその足音の主は神前の部屋の前で立ち止まり、遠慮がちに何度かノックを響かせた。錆の浮かぶ扉を打つ、人差し指の関節。戸惑う鈴川の表情を想像した。  パッと明かりが付き、神前の瞼が震える。 「ちょ、ちょっと、大丈夫ですか!?」  神前の予感は的中した。嬉しさと腹立たしさがない交ぜになり、胸が痛い。  鈴川は倒れ伏した神前の傍まで寄ると、目に見えて狼狽する。散乱するカップラーメンと、吐瀉物。助け起こした神前の頬骨の辺りに赤褐色の痣が出来ていた。初めて見る痣だ。口の中も切れたのか、唇の端は鬱血し、凝固した血がこびり付いていた。 「信濃さん、……ですよね?」  爪で血をカリカリとこそげ取られ、顔を顰める。 「おま、お前……! どうして来たんだ!!」  夢の縁を彷徨うように模糊としていた意識が覚醒する。唇の端に置かれたままの指を払いのけ、鈴川を見据える。びくりと童顔が怯えた。なんてことを仕出かしたんだ、と一発殴ってやりたい気分だったが、その子犬のような瞳に怒りをぶつけるのも馬鹿馬鹿しく思え、ため息を吐くだけに留めておいた。 「事務所の金持って逃げたんだって? お前、どうするつもりだよ……」 「どうするって、逃げますよ。見付かったら、殺されるよりもっと酷いことになるし。というか、逃げなきゃいけないんです!」  続けざまに大きなため息を吐いた。 「お前、お前なあ……!」  呆れかえる神前に、鈴川は持っていた大判のカバンを広げて見せた。 「三千万円と、賢吾さんの親父さんの借用書があります。賢吾さん、一緒に逃げよう! じゃないと、賢吾さんもこのままじゃ、もっとヤバいビデオに出させられるッスよ! 賢吾さんが知らないだけで、もっともっとひどい、早く死にたいって思ってしまうような内容のビデオだってあるんですから!」  ぐっと力任せに引かれる腕を振り払った。面食らう鈴川が、傷付いた顔をしている。直視できない。 「む、無理だ! 逃げるなんて、無理に決まってる!」 「じゃあ、このままで良いって言うんですか! 残りいくらあるかも分からない死んだ人間の借金に振り回されて、変なビデオに出て、拷問まがいの事をさせられて! 俺は断言する、賢吾さん、あんたは最終的に信濃さんに殺されるか、自殺するかのどっちかだ!」 「そ、そうだとしても……、逃げ切れるわけがない」 「逃げ切れなかったら、一緒に死ねばいい」 「し……、鈴川、少し落ち着け! 言っていることが滅茶苦茶だぞ!」  また、まただ。また鈴川の唇から“死”が零れた。  勝手に震えだす手を、ジーンズに擦り付ける。鈴川の瞳はどこまでも真摯で、とても冗談を言っているようには見えなかった。急に、不安がこみ上げてくる。胸の底を突き上げる。吐き気を覚えた。  何かに挑むように強い目をする鈴川が、尻ごみをする神前の腕を強く引き、ぶつけるように唇を合わせた。痛くて若いキスだったが、その一瞬の触れあいは何事もなかったかのように消える。甘さも何もない、キスとも言えない、衝動に任せた触れあいだった。 「逃げるしかない。賢吾さんは付いて来てくれるだけでいい。逃げきれなくなったら責任をもって俺が、俺が殺してあげるから、痛くないようにするから、心配いらないから、大丈夫だから……」  ぐずる幼子をあやすように、鈴川の掌が神前の背中を撫で摩った。力強かった鈴川の声音も、徐々に震えだす。鈴川とて、怖くないわけがないのだ。逃げ切れる確証など無い。どう上手く見積もったって、逃げ切れるビジョンが見えてこないのだ。それでも、何もしないわけにはいかない。  鈴川も昂ぶる精神を深呼吸で落ち着かせ、できるだけ穏やかな声で神前の耳に声を吹き込む。 「行けるところまで行ってみましょう。いざという時は、二人です。俺も一緒に死にます」  何度も何度も、頼りない掌が背を往復する度に距離が縮まり、果てには抱きしめられる格好となった。その頃にはすっかり神前の震えも止まり、荒くなっていた呼吸も静かに凪いでいた。 「レンタカーを借りています。今、表まで回すんで、携帯鳴らしたらすぐに出てきてください」  鈴川はカバンの口を急いで閉めると、神前の肩を一度ポンと叩き、辺りを警戒しながら部屋を出て行った。取り残された神前は痺れたように感覚の薄い脚を無理に動かし、手近なカバンに財布と少しの衣服を詰める。元々、何も持っていない。無造作に置きっぱなしにしていた携帯電話を取り、ポケットに仕舞いかけ、ふと液晶を見てみる。 ――――鈴川を俺のところまで連れて来たら、謝礼、やるよ。  信濃の悪魔のささやきが、耳の内側でとぐろを巻きながら木霊する。携帯電話を握ったまま、神前は石のように固まり、色々なことを考えた。何もかも棄て去り、先の見えない逃避行へ身を投じる自分。行く先々で疚しいことを隠すかのように一挙一動に神経を使い、怯えて過ごす自分。果てには、鈴川に殺される自分。それとも、いつかは解放されるのだろうか。鈴川と“あの時、やはり逃亡して良かったんだ”と笑う日が来るのだろうか。 ――――最初から期待をさせない方が鈴川の為になるだろ?  囁きは止まらない。当の鈴川とて、いつもつまらなそうな顔をして言っている。どうして辛い思いをしてまで生きるのかと。抗う事は、全てを消耗させる。それなら……。  ケータイを手のひらで転がす。信濃の幻聴を繰り返し頭の中で再生しながら、再度色々なことを考えた。小声で、こそこそと隠れて信濃に連絡を取る自分。怒声と、未だかつて聞いたことの無い、鈴川の悲鳴。泣いて泣いて暴れて、充血した瞳いっぱいに憎悪を滾らせて呪詛を吐く鈴川。それとも、全てを諦め、項垂れて大人しく引っ張られて行くのだろうか。その瞳は、どんな感情を封じ込めているのだろう。  ブブ、とケータイが振動する。心臓が跳ねた。獣のような息遣いを他人事のようにして聴いている。手の中で震えるそれを、凝視する。液晶に記される「鈴川」の文字がとても無機質で、悲しくなるくらいに、不思議と安堵を齎すのを噛みしめた。考えるまでもなく、結論はとうの昔に出ていた。  通話ボタンを押し、携帯電話を耳に押し当てる。           ――――汗水垂らして己の葬儀代を稼ぐお前に。        ――――身を粉にして紙屑を有り難がるお前に。                    

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