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前編

   あれは確か、寂しい冬の季節だったと記憶している。  鉛色の空に松の黒い翳が染み、時折身を切るような寒風が吹きすさぶ、海辺での事だった。水気を吸ったぼたん雪が空から垂直に落ちては波間に溶け消える、そんな日だ。ざざぁん、と波が吠え、それは海原の泣き声なのだと気付いたのも、さあ、その日の事だっただろうか。  今でこそ家庭を持ち、愛する妻と我が子を慈しむ日々を送ってはいるが、当時私は身に余るほどの恋に悶えていた。  それはたった一冬の間に終息してしまった恋ではあったが、今も当時を思い返してはなんとも言えない、甘酸っぱくも苦々しい記憶を思い起こしてしまう。それほどまでに強い恋情に駆られ今もこうして反芻してしまうのは、生涯初めての恋であったせいなのか、それとも結局想いの丈を当人に告げられなかったせいであるのか――。  私は縁側に座り、タバコを吹かしながら陽だまりに目を細めた。庭では小学校へ上がった息子が飼い犬と泥まみれになって遊んでいる。ゆるやかな春の日差しの中で、懐かしい記憶の海に漂うのも悪くはないだろう。そして私はこの反芻を期に、二度と当時の事を思い返す事を止そう。全てはとうの昔に過ぎ去ってしまった事なのだ。  私は瞳を閉じた。かくていつしか私の意識は、潮の香りに満ちた、懐かしいあの海辺へと飛んだのだった。           美浪昌平は純朴な青年だった。  毎朝、朝日も昇らぬ内から寡黙な父親と共に漁へ出かけ、節くれ立った指で網を引いた。平べたく厚い爪が揃う、ごつごつとした男らしい手はすぐにかじかみ、赤味を帯び始める。昌平はその感覚が好きだった。特に痺れたように冷え切ったその手を囲炉裏の前に晒した時の、あの急激な血の巡りに妙な楽しさを覚える、どこか青臭さの抜けきらぬ若人であった。  今年の春に十九になったばかりの若い体は凍るように冷たい冬の波飛沫に鍛え上げられ、生来の体格の良さも相まって村一番の腕利きへと成長していった。昌平は恋の一つも知らず、ただ家族のため働いていた。  そんな彼が生まれてはじめて恋というものを知ったのは、朝一番の漁を終え、帰路へ着こうかという正午の事だった。  白砂の上に腰を下ろし、人ひとり見当たらぬ真冬の浜辺で海を見詰め、見慣れぬ青年はつまらなそうにあくびをしていた。北陸部の冬は身も凍るような寒さなのだが、彼は寒さなどまるで感じていないかのように薄手のシャツを羽織っていた。  薄灰色の雲に覆われた空からはかすかに雪が舞っていて、冷たく横たわるH湾をより一層冷たく冷やすのだろう。きっとからりと晴れた日には、この雄大なT海岸の景色がうんと美しく映える筈だ。  彼はまるで海の向こうに何かを透かし見ているかのような眼差しで、ただひたと眼前を見据えていた。潮風に煽られる、この寂れた漁村では珍しい、長めに伸ばした髪が朝日を浴びてほのかに艶めいていた。薄い唇の間からやわらかな綿のような白い吐息が吐きだされるたび、昌平の純情はぼんやりと揺れた。頭の芯からぼうっと立ち眩むようなこの感覚は、昌平のまだ知らぬ感情を確かに揺らしていた。     家路に着いたその足で、おしゃべり好きで社交的な母親に、海岸にいた例の青年の事をさりげなく問うてみると、彼女はあっさりと、最近引っ越してきたハスミさん家のチドリ君ではないか、という情報をもたらしてくれた。謎めいた雰囲気を湛えていた青年の情報をこうもあっけなく開示された事に少々肩すかしをくらったような気がしたが、昌平の頭の中はチドリ青年の事ですっかりいっぱいになってしまった。  ――――ハスミチドリ。  その名が妙な神秘性を持って昌平の胸を圧迫し続ける。  どのような漢字を充てるのだろうか、年齢は、などと考え出すとどうにも止まらなくなり、その日の夜は悶々と布団の上で転がる羽目になってしまった。  しかしいくら浮かれようが、己が同性に惚れてしまったという事実を易々と受け入れるほどの度胸もなく、かと言ってきっぱりとチドリ青年を忘れ去る事も出来ず、昌平は生まれて初めて感じる胸の高鳴り、焦燥に気を揉んでいた。  毎日陽が傾き始める頃になれば海岸へと足を伸ばし、チドリ青年の姿を探してしまう。  彼の青年はいつも砂の上に腰を下ろし、何をするでもなく、ただ海の向こうへひたと目を向け続けていた。彼が何を思い水平線を見守るのか、それが何を意味するのか、何一つとして知らない。ただ、彼がこちらに気付かないであろう距離を置き、隣へ腰かけて同じようにどんよりと灰色に濁る冬の海を見続ける。ただ、それだけで午後が暮れていく。ほんのりと火照る頬を北風が撫で去る。それが何日も続いた。     底冷えのする、張り詰めた独特の空気を裂いて、あれは何という名前の鳥だろうか、恐らくは冬鳥の一種であろう小鳥が高い空を潜って行く。そのまま厚ぼったい白雲に突っ込んでしまうのではないか、というほどに高く高く急上昇し、やがて力尽きたように真っ逆さまに落ちては水面ぎりぎりのところでまた、ぐんと舳先を持ち上げて、踊るように滑空する。まるで演舞のようなそれに見惚れていると、岩陰の向こうにいるであろうチドリ青年の方からから控え目な拍手が聞えてきた。昌平もそれにならって同じように何度かてのひら同士を打ち合わせ、今はもう彼方へと消え失せてしまった小さなパフォーマーを称賛した。そっと体を伸ばしてこっそり彼の方を覗くと、チドリ青年は照れたように、はにかみながら歯を見せて笑っていた。幸いこちらに気付く事はなかったようだ。淡い肌色と白い歯の対比に心が躍った。  彼の背後を彩る灰色の空が、彼の薄い色彩をより一層引き立てているようで、妙な陶酔感と、おそろしいほどの非現実感に眩暈を覚えた。これが恋というものか、と昌平は一種の諦めのような気分を噛みしめる。  彼を遠くから眺めているだけで十分だという淡い恋情が、溶岩のように熱い、けれどじわりとしたとろ火にあぶられ、少しずつ、少しずつ勢いを増していくようだ。  俯いた視界の先、白砂の上に棒を引き摺ったような跡があった。しばらくそれを見詰めていたが、やおら昌平はしゃがみ込むと、何かを思いついたように砂の上へ指を滑らせ始めた。     『チドリさん。   あなたに恋をしております。声をかけられないヒキョウな自分の思いをゆるしてください。 S』     震える手でそこまで書き終え、あまりの気恥かしさに足蹴にして消し去りたくなった。頭文字を残したのは、昌平の僅かな欲からである。  かっかと熱を発する頬を押さえ、昌平は一目散にその場から駆け出し、脇目も振らず家に逃げ帰ると、頭から布団を被り悶絶した。こんなにも無骨で今まで恋愛に興味すら無かった筈の彼が、恋文を書いた。この事実を周りのものが知れば、どれほどの大騒ぎになるだろうか。ひょっとすると親戚一同が集まって飲めや唄えの大宴会になるかもしれない。  昌平はひとしきり後悔すると、熱い息を吐いて頭を抱えた。  チドリ青年があの恋文に気付かないように願うしかなかった。     翌日、昌平は暗澹たる気持ちでいつもの如く海岸へと出かけた。そこまで憂鬱ならばいっそ行かなければいいと思うだろうが、恋というものは最後まで燃え尽きなければ終わらないものだ。ましてや若い青年の初恋というのは、おそろしい。なまじ引っ込み思案なところが危うくもあり、いっそ情熱的にすら見える。  昌平は何度も白いため息を吐きだしながら長靴を砂に埋めつつ、昨日恋文をしたためた岩陰をそっと覗いてみた。  てっきりそこには見悶えるほどに恥ずかしい、昌平の恋文がそっくりそのまま残されているかと思ったのだが、一帯の砂浜にそのような形跡はどこにも無かった。時折吹く寒風が砂をさらさらと転がすだけだ。どこか拍子抜けしたような、安堵したような、妙な心地で昌平は考えを巡らせ、一人納得した。  潮に流されたのだろう。ここらの潮は昼過ぎに満ち、日が沈む頃に一度引いて、その後は深夜に満潮を迎える。恐らく夜中に掻き消えたのだろう。それまでにチドリ青年が恋文に気が付いていれば……。  昌平は指先で砂を弄びながらぼんやりと波の声を聞き、ふと顔を上げ、小さく声を上げた。砂に足を取られながらまろびつつ、少し離れたところでしゃがみ込むと、声も無く息を詰めた。     『ありがとうございます。  あなたはこの近くの方なのですか?  ぜひ声をかけてください。 茅鳥』    その夜、昌平は村の漁業組合の飲み会の席であまりにも上の空で破顔してばかりいるものだから、男衆に散々もて囃されたのだった。小さな集会所は酒を呷った男たちの熱気と、かっかと燃えたぎる石油ストーブの熱気で常夏のようであった。  昌平は浮かれた気持ちのまま、組合の中では歳の近い渡来瞬に、思いきって想い人が出来た旨を語ってしまった。あまりの嬉しさに、誰かとこの幸福感を共有したくなったのだろう。もちろん気恥かしい海辺の恋文や茅鳥の素性などは全て伏せた上で、想い人に話しかけたいが上手くいかないというような事を十分、二十分もかけて滔々と語り明かした。  しきりに額を拭いながら熱心に語る昌平を笑いもせず、渡来はうんうんと細かく相槌を打ちながら、ほんのりと若い頬を染め、思い切ってなにふり構わず話しかけてみてはどうかと進言してきた。なんでも、渡来も最近になってようやく恋に目覚めたようで、甘い夢にまどろむように、とろけるような桃色の目尻を下げながら恋がいかに人を変えるのか、という事を逆に諭してきたのである。  昌平は目の前で照れたように笑う渡来を見詰めながら、なんと“恋”ということばの似合う青年であろうか、と考えていた。自分が語れば妙に陳腐で可笑しくなってしまう恋愛話が、この渡来の砂糖菓子のような唇から零れた瞬間、まるで花の芳香さえ漂うような、甘痒いものに思えるのだから不思議だ。雲泥万里の相違とはよく言ったものである。  哀しい事実にしょぼくれている間にも、それでは恋文を書いてはどうか、文と言うものは人を素直にさせるのだと渡来は言うのだが、もうすでに恋文の交換はしているとは言い辛い。ならば早く会え、と言われて終わりだ。しかし、茅鳥の方から声をかけてくれと言われているにも関わらず、恥ずかしくてうだうだと悩んでいるのだと相談する事も出来ず、当初の高揚はどこへ消え萎んだのやら、昌平はがっくりと肩を落としてしまったのだった。   

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