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後編

 朝一番の漁を終え、網の手入れや収穫を卸している内に、あっという間に正午になろうとしていた。買い出しもそこそこに家へ飛んで帰ると、春菊の雑炊を火傷しながらも豪快にかき込み、休息も取らず海岸へと走った。長靴の底がやぶけてしまったのか、水たまりの上を走ると大層冷えた。  どこかの連中が船を出しているのか、いつもよりも荒涼とした海岸で、いつもの岩陰へと腰を下ろした。  誰もいない事を確認すると、昌平はジャンパーのポッケからペンを取り出し、柄で砂地を掻いた。昨日茅鳥青年が残した文章はすっかり波に浚われてしまっていた。だけれど、昌平は少しも惜しくは無かった。三行の文章は、昌平の眼に、脳に焼きつけられ、今でもあのまま思い起こす事が出来るのだから。  相変わらず曇ったままの空が重苦しい。ここ数週間、太陽を見ていないような気がする。  さりさり、砂を掻いては手でもみ消し、また砂を掻く。なかなか文字にならぬ言葉が胸の中で渦巻き、発熱さえしそうだ。息苦しいような、そわそわと落ち着かない心をなだめるように、大きく息を吸う。少し塩辛い、嗅ぎ慣れた海風で体中が満たされる。 『年がら年中海へ出かけていると、血液そのものをそっくり海水にすげ変えられてしまうんだ。やがてその体を満たした海水の分身は母なる海へと還りたくなり、身も心も海へ近付きすぎた者を海へと突き落としてしまうのだよ。』  ある漁師が夜な夜な語った話なのだそうだ。代々この村に言い伝えられている古い迷信、怪談の類だが、昌平ははじめてこの与太話を広めた者の気持ちが分かった気がした。己を満たす、得体の知れぬもの、抗えぬもの。それにひたひたと侵される恐怖、高揚。それに諦め。根底から負けてしまう何か。  遥か昔の漁師が海に怯えていたとして、それならば昌平は恋に怯えている事になる。 『恋は人を変えてしまう。』  これは渡来瞬のことば。昨晩のストーブの灯りに照らされた渡来のうっすら汗ばんだ顔を思い起こす。  昌平は眉をしかめながら何度か頭を掻き、少し考えた末、またペンを砂の上に下ろした。     『チドリさん。  お返事、どうも。しかし、どうしても顔を合わせる事はできません。  もう少しだけ、どうか、待っていてください。S』     波が遠くで鳴いた。渡り鳥が水面をつつく。汗ばむこめかみを拭い、これも潮か、と思った。  帰ろうか、と重い腰を上げた瞬間、松の茂る向こう側に白い服が揺れた。思わず唾液を飲む。  茅鳥青年だ。  細い髪が潮風になびいて、どこか頼りなく映る。昌平は慌てて岩陰に身を隠し、おそるおそる彼の様子を窺った。茅鳥青年は片手で暴れる髪を押さえつけながら茶色の草臥れたローファーで砂を踏みしめ、辺りをきょろきょろと見回した。探しているのだ、恐らくは、砂浜に自分宛の文を残す人物を――――。  昌平は胸の奥底から湧き上がる甘酸っぱい衝動を必死にかみ殺していた。いますぐこの岩陰を飛び出し、茅鳥青年に思いの丈をぶつけてしまいたい。あの髪を撫でてみたい、とろけるはちみつ色の目を真正面から見詰めたい。  小さくああ、と喘ぐ。まるで水中にいる時のようにうまく息ができず、地上にいるというのに溺死しそうな自分に気が付いた。今朝釣り上げた魚たちも、このような気持ちだったのか。息苦しさに耐えかね、そろりと身を起こした瞬間、ふと穴の開いた長靴が視界に入った。首から下げた汚れた手ぬぐいが見えた。父からのお下がりの、少しサイズの小さい、色あせてほつれたジャンパーが見えた。  唇を噛みしめ、ゆるく頭を振る。これじゃあとても、彼には会えない。  泣きたくなるような惨めさを抱きながらもう一度彼の方を見やれば、もはやその姿はどこにも無かった。  乾いたため息を吐く。今日も眠れぬ夜がやって来る。     『きっと私はあなたの事を知っています。  いつもあなたの船を見守っています。  今日の夜九時、ここへ来て下さい。待っています。 茅鳥』     翌朝にこの文章を見付けた時の昌平の様子たるや、まるで道化師のようであった。  硬直と弛緩を繰り返し、交互に訪れる高揚と不安を持てあまし、久しぶりに涙をこぼした。  茅鳥青年に存在を知られていた! この事実がどれほど昌平を悩ましくさせた事だろう。漁に出る姿をひそやかに見とめ、茅鳥青年があの細い指を組んで昌平の無事を祈っていた!  なんという事だろう、なんという事だろう。  昌平は何度も砂地の文章をかすむ目で追い、震える指でそっと文章を撫でた。初めて、愛しい人からの文を自らの手で消すという行為が惜しいと感じた。       *   *   *     夕餉の餅が上手く喉を通らない。何度も汁をこぼし、醤油を溢れさせ母親にどやされた。どてらなどいらないほどに発熱している。時計を確認する瞳が潤む。  昌平は迷っていた。行くべきか、行かざるべきか。行けば己の決して良くはない容姿が茅鳥青年に知られてしまう。言葉を交わさねばならない。上手く喋られるだろうか。茅鳥青年に呆れられはしないだろうか。そして行かなければ信用を失ってしまう。寒空の中、茅鳥を待たせてしまう。きっと華奢な彼の事だ。風邪をひいてしまう。そんな目には合わせたくない。  こっこっ、と秒針が進む。木で出来た鳩が八回鳴いた。時計にまで責められているようだ。  欠けた茶碗を流しに出し、昌平は珍しくそれらを洗うとそっと厚手のコートを着た。電車を乗り継いでデパートに行くときだけに着る、一張羅のコートだ。高くもなければ良いものでもないが、これが昌平の持つ一番上等な服であった。ジャージを脱ぎ、窮屈なズボンを履く。履きなれないせいでどうも気持ちが落ち着かない。胡乱な目で一部始終を見守っていた母親が何かに気付いたのか、途端目を丸くしたかと思えば静かに笑い、一杯の熱い番茶を差し出してきた。女の勘というのは凄まじい。おそらく昌平が恋人と待ち合わせをしているのだと勘付いたらしい。正確には、恋人でも無ければ、直接言葉を交わした事もない男と待ち合わせているのだが。  なんだか申し訳ないような気持ちで湯呑を受け取ると、何度か息を吹きかけてから一気に呷った。熱い茶が器官を通り、少し落ち着けたような気がする。  昌平はあたたかさの残る湯呑を返すと真っ白のズックを履き、そろりと玄関から出た。  途端に香る夜の潮風に、小さく鼻を鳴らした。思ったよりもずっと冷たい夜だ。田舎の夜道というのは、危ない。懐中電燈を下げる事も忘れているほど、昌平は切羽詰まっていた。     集会所の横を抜けようとしたとき、折しも扉が開いて中から渡来がひょこりと顔を出した。  おお、とも、ああ、ともつかぬ声を互いに出し、はにかみ合う。そういえば今夜は渡来の祖父の七回忌だとかで、親戚の者らと集会所を借りて宴会をしているとの事だった。昨夜同じ場所でその話を聞いていたのに、すっかり失念していた。  渡来はいつものようにほのかに赤い頬にえくぼを作って笑い、この集会所は便所が無くていけないと溢し、あっという間に夜気の中を走り去ってしまった。彼が走る音に合わせ踵の剥がれた長靴ががっぽがっぽと鳴り、笑いを誘った。苦笑を溢していると今度は渡来の父親が顔を覗かせ、あれよあれよと集会所の中へと引き摺りこまれる。これから予定が、という昌平の声を遮り、すっかり顔なじみである渡来の親族らに囃したてられ、立ち去るに立ち去れず、昌平は仕方がなく少しだけという約束で料理をつまむ事になってしまった。心は今にも走り出して海岸へと飛んでいきそうなのだが、体が思うように動かせない。激しいジレンマが昌平を襲う。  すでに波の音はここまで聴こえているというのに。     結局、昌平が解放されたのは九時半をゆうに過ぎた頃であった。  肝心の渡来が戻って来なかったためにずるずると引きとめられ続けたのだ。大方彼もこのドンチャン騒ぎが嫌で便所に帰るフリをして逃げたのであろう。夜はさらに冷え込み、細かい雪が音もなく降っていた。  集会所から海岸までの短い距離を茅鳥青年の顔を思い浮かべながら全速力で走り、松の林を抜け、ようやく海岸へ着いた。真っ白だったはずのズックは泥水を被って汚れており、なんだか嫌になる。荒い息を吐きながら砂を踏み、茅鳥の薄い翳を探す。  昼間はあんなにも曇っているのに、夜ばかり晴れるのはどうしてだろう。切れ切れに雲の舞う空からは雪が落ちるというのに、蒼白い月は煌々と照り、さざ波の表面を淡く光らせている。水面に浮かぶ月光の橋は細かく砕けている。  彼の名前を呼んでみようか、どこにいるのだろうか。  昌平は逸る心を抑え、岩陰を覗いた。 「――――」  その瞬間、掻き消えそうな声がかすかに聞こえ、飛び上がりそうになった。ドクドクと脈打つ両手で押さえ、呼吸さえ忘れて振り返る。  ここから少し遠く、渡来瞬がいた。茅鳥青年もいた。二人は寄り添っていた。互いの細い指はしっかりと絡み合い、堅く結ばれている。どう見ても、恋人のそれであった。  かっと全身の血が騒いだ。頭が真っ白にかすみ、ふらふらと何度かたたらを踏む。       ふと吹いた潮風が足元の砂を巻き上げる。昌平は何気なく目を落とし、そして全てを知った。     『もちろん行きます。  必ず行きます。なんとしてでもあなたに会いに行きます。  本当に本当に大好きです。  茅鳥さんへ。 シュン』     茅鳥青年が本当に文通をしていたのは、昌平ではなく、渡来瞬そのひとであった。     昌平は一度口を開け、手を僅かに伸ばしかけ、やめた。己の初恋は今この間にすっかり終わってしまったのだと、理解した。燃えるような苦しさが喉元を突き上げたが、不思議と心は穏やかだった。     初めて昌平が茅鳥青年に宛てた文への彼からの返事、あれは渡来とのやり取りの一つだったのだろう。それがちょうどうまい具合にタイミング良く、かつ自然な文章であったため、昌平は己への返事であると誤解してしまったのだ。 (――――ここらの潮は昼過ぎに満ち、日が沈む頃に一度引いて、その後は深夜に満潮を迎える……。)  渡来と茅鳥青年、どちらの方から文のやり取りを始めたのか。十中八九茅鳥の方からであろう。潮の満ち引きの時間と照らし合わせたらおのずと答えは出る。  茅鳥青年が渡来に宛てた文は、きっと早朝に昌平が漁へ出た後に書かれたのだろう。それは昌平よりも遅れて漁へ出る渡来の目に止まる。彼は茅鳥の文を大切に、その場に残したまま立ち去る。  昌平が漁から帰るのは満潮を迎える時刻よりも前だから、茅鳥の文は、昌平が見付ける前に流される事は無い。そして茅鳥の文を読んだ昌平は、自らその文を消し、今度は彼へ宛てて文を書き残す。その文は深夜に満潮を迎えるまで、誰の目にも触れない。そして深夜、満潮を迎えて昌平の文が流された後、渡来はこっそり海岸へ出かけ、茅鳥へ文を残す。  翌日、渡来の文を茅鳥が消し、新たな文を書き、それは昌平の目に止まり――――。  その繰り返しだ。  なんと不毛であろう。誰もが潮に消されぬよう時刻を選び文を残す事で、妙な図解が出来てしまったのだ。  もしも渡来が茅鳥の文を読んだ後に消していれば、それは昌平の目に留まることはなかっただろう。それに、茅鳥青年が律儀に朝に文を書かねば、遅かれ早かれ昌平は己の間違いに気が付いていたのかも知れない。      静かに思いを寄せ合い、脆い砂に恋文をしたため合う二人の文の残骸に返事を書き続けていた昌平は、二人に存在を気付かれもしないまま、燃え狂うような恋を静かに消さなければならなくなってしまった。  雪の中、寒ささえ知らないように微笑み合う二人の赤い顔を眺め、一つ笑みをこぼすと昌平は踵を返した。  渡来は例の踵の剥がれた長靴を履いて笑っている。茅鳥青年も幸せそうに笑っている。見てくれなど関係無かった。そもそも自分は同じ舞台にすら立っていなかった。  茅鳥青年の事を、少しも知らなかった。  昌平は汚れたズックを見つめながら、静かに二粒だけ涙をこぼした。       *   *   *     春告げ鳥が私のために唄う。  ここでは潮騒は聞こえない。潮の香りもしない。もう私は早朝から重い網を引く事もない。  あの雪の日、若い恋が散った冬が終わる事、ちょうど二十歳を迎えるのと同時に私は村を離れ、とある小さな工場に就職した。決して漁師が嫌になったのではない、村にいるのが嫌になったのではない。ただ、新しいものを見て、そして経験してみたくなったのだ。結果として、工場勤めは私の性分にとても合っていた。真面目に働き、気立ての良い娘と知り合い、結婚した。子供も生まれた。功績が認められ、立場も格段に良いものへとなった。  驚くほどに穏やかで、幸せな人生だと心の底から思っている。  時折、潮の香りが恋しくなるが、そんな時は故郷のお袋からの便りをそっと抱きしめる。あの寒い夜、そっと熱い茶を淹れてくれた母の優しさを、きっと生涯忘れる事はないだろう。  短くなったタバコをもみ消し、降り注ぐ木漏れ日に目を細めた。目を閉じれば今でもありありと思い出す、頬を切る寒波。波の冷たさ。海への怯え。狭い集会所で焚いたストーブの匂い。  そして、あの赤ら顔の青年、寒村には似合わない、はちみつ色の瞳をした青年――――。  私はふっと短い息を吐き、懐から潮の香りのする手紙を取り出した。  渡来瞬。懐かしさすら覚える旧友の名前に口元を緩め、重い体を背もたれに預ける。渡来とはあれ依頼も手紙のやり取りなどをしていて、今でも正月に帰郷した時などは朝まで酒を飲み明かす仲だ。その時には茅鳥も席を同じくし、冗談を言い合うほどにまで親睦を深める事が出来た。  茅鳥はよく笑い、よく呑み、そしてよく唄う人であった。時折、私と彼が声を合わせて唄えば、渡来は妬いては慌てふためいていた。私はそれが可笑しくて、茅鳥と共謀して渡来をからかったりする。  当時、まさかそんな日が来るとは思ってもみなかっただろう。  初めて真正面から二人を見据えた時、私は不思議にも嬉しく思ったものだ。  二人は今でも知らない。私がひそやかに恋文を綴っていたこと。茅鳥に恋をしていたこと。  いつか、笑って話せる日が来るだろうか。三人で酒を酌み交わし、笑い飛ばしてもらえるだろうか。  私はこの夏、妻と子を連れて帰郷する。  きっと二人は変わらず、いや、それ以上の笑顔で私たち家族を迎えてくれる事だろう。  それが今一番の楽しみだ。  ふと、潮の香りが鼻をくすぐったような気がしたが、緑陰から呼びかける子供と妻にすぐさま我に返った。  春の陽気は、あの村にも届いている事だろう。  私は手紙をそっと懐に仕舞い、家族の元へと歩き出した。        

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