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第9話 再会
現在、10時40分。
「奥本先生まだ来ないなぁ、電話したのに……」
「奥本先生、今日は外来ですかぁ?」
「一応、午後からはね」
穿刺が一段落ついたものの、薬の指示や本日のDWを確認しなければいけない患者の指示を医師に仰ぐのもリーダーの仕事だ。朝一番に『出来れば早めに来てくださいね!』と電話をかけたのに、医師はまだ透析室に顔を出していなかった。こんなときは、病棟で何か問題でも起こったのだろうか、と不安になる。
奥本 昭二 医師はここT病院の唯一の腎臓内科医で、外来・入院の透析患者はすべて彼の患者だ。のらりくらりとした爺さんで、受け持ち患者数が多いから大変だとは思うが、榛名的にその仕事っぷりはなかなか結構不真面目である。
彼の専門は内科のため、透析導入時のシャント作成や、突然シャントが閉塞したときなどは外科に紹介しなくてはならないのだが、なかなかその腰が重い。
その上、同病院の血管外科医の藤野医師をひどく苦手としているため、その話もなかなか進まない。そしてその藤野医師であるが、シャントを作成するまではいいのだが、その後はよく詰まらせてしまう。要するに、ヘタなのであった。
藤野は腎臓専門の外科医ではないため、シャント作成が苦手なのも仕方ないといえば仕方ないのだが、専門の腎臓外科医がうちの病院にもいればいいのになぁ、と榛名は毎回切実に思っていた。
せめて腎臓外科医のいる病院に転院させて、シャントオペだけをして貰ったらいいのに、と。医師のメンツの問題もあるため――オペのできる医者が当院にいるのに、他の病院に頼むというのは少し問題だ――看護師の榛名にそこまで口は出せないのだが。
「榛名く~ん、遅くなってごめんよぉ」
のそのそと、榛名が待ち焦がれていた奥本医師が奥の出入り口からひょっこりと現れた。
「奥本先生、朝一で電話してすいません、えっと今日の堀尾さんのドライは……」
『遅いんだよじじい!』と言いたいのを我慢して、患者のDWの指示を貰おうとしたのだが、そこまで言いかけて榛名は黙りこんだ。奥本の後ろには看護師長の近藤と、もう一人白衣を纏った見知らぬ医師が立っていたからだ。
いや、見知っていないのは医者として、だった。
『……アキ?』
男の唇が、声を出さずに動いた。彼はあの夜に出逢った――榛名がもう二度と会うことはない、と思っていた――霧咲だった。
「……っ!?」
あの日の霧咲は、やや長めの前髪を下ろして紺色のジャケットを身に纏っていた。しかし今はきちんと髪をあげて白衣を着ているので、受ける印象はまるで違う。
けれど、相手に有無を言わさないような力強い目力は他の誰にも間違えようがなかった。
「あれぇ?もしかして二人知り合いなの?」
数秒間見つめあっていた榛名と霧咲に対し、奥本が聞いた。榛名はハッと我に返ると、すぐに否定した。
「い、いえ!知り合いの人に似てるなって思って!」
「俺は美人に見つめられたので、嬉しくて見つめ返しちゃいました」
(はぁ!?)
予想もしていなかったことを言われて、一瞬口から否定のセリフが榛名の口からこぼれそうになったが、霧咲の隣にいる師長の近藤によってそれは止められた。
「まぁ、榛名君ってば美人だって~!イケメンに褒められて羨ましいわぁ」
「勿論、師長さんも美人ですよ?」
「あらやだ、霧咲先生ったらお上手ですねェ」
近藤看護師長の霧咲への態度は、普段榛名や奥本に対するソレとは180度くらい違っていた。普段テレビ以外ではあまり見かけることのない並外れたイケメンの存在に、完璧に浮かれている。今は師長というよりも、まるで普通のおばちゃんのようだった。
それより、どうして霧咲がここにいるのだろうか。彼が医者だったことすら榛名は知らなかったのだが……。
「霧咲先生、こちらがウチの主任看護師の榛名君です」
奥本が、榛名を霧咲に簡単に紹介した。榛名はもう一度霧咲を見ると少し睨みつけるような表情になったが、自分では気付かなかった。
「ずいぶん若い主任さんなんですね?」
「でもこう見えてもう30よねぇ?榛名君」
「はい、28です。立派なアラサーですが、何か?」
近藤に言われ、榛名は淡々と返した。年下に見られるのも嫌だが、老けて見られるのも気に食わないという微妙なオトシゴロなのだ。
(だから俺のことはどうでもいいんだよ!なんで霧咲さんがここにいるんだ!?)
他の看護師も、イケメン医師の突然の登場に少しざわついている。皆こっちの方を見て、仕事をしている手が止まっているようだった。
「んで榛名君、こちらは今度K大からウチに週一で助っ人に来てくれることになった外科の霧咲 誠人 先生だよ。ずっと専門の腎臓外科医が欲しいって言ってたから嬉しいだろ~?」
「え……K大から?助っ人……ですか?」
K大病院は、榛名の勤める此処、T病院から比較的近いところにある大学病院だ。最先端の治療を行っており、透析導入やその他オペをした患者の状態が落ち着くと、T病院やその他近隣の病院に維持透析やリハビリを目的として患者を送ってくるのはわりと日常的なことだ。
T病院が安定して入院患者数を確保できているのは、K大にこうやって患者を送ってもらっていることが特に大きかった。勿論透析室にも、K大から引き継いだ患者が数名存在する。
「T病院さんにはいつもうちの患者を積極的に引き取って貰っていますから。俺も自分がオペした患者の経過は一応自分で確認したいですし……外来や救急には既に数人の医師が助っ人に行ってますが、今回は腎臓外科医の要請があったので、K大透析センターの医師6名の中から代表で自分が来た、というわけです。よろしくお願いします、榛名主任さん」
「よ、ろしくお願いします」
霧咲がここに来た理由は分かった。しかし表面上は落ち着いているものの、榛名は内心少しパニックに陥っていた。
一か月前、榛名は偶然この男と出逢い、一緒に酒を飲み、甘く激しい一夜を共にしたのだ。必ず連絡をくれ、とメモが残されていたものの連絡する勇気はなく、もう忘れようと思っていた。――その相手が、今目の前に立っている。
(このひとの前で俺はあんな、あんな……!!)
もう、二度と会わないと思っていた。だからあんな自分でも引くくらいの痴態を晒し、破廉恥な行為ができたのだ。
その相手とこれから一緒に仕事をしなければならないなんて、どんな拷問だ。あまりの恥ずかしさと襲ってくる絶望感に、榛名は眩暈がしそうだった。
すると、霧咲がそっと榛名に近づいてきた。榛名は一瞬顔をこわばらせたが、それは誰も気付けないくらいの変化だった。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン……
心臓が早鐘のように動き、ありったけの警鐘を鳴らしている。
この男に近付いてはいけない、と。
「榛名さん、少し顔色が悪いようだけど……大丈夫ですか?それに、痩せてるし。ご飯はちゃんと食べてますか?」
「だ、大丈夫です、心配してくださって有難うございます、霧咲先生」
不自然にならないよう、榛名は霧咲に微笑んだがその笑顔は若干引きつっていた。
『痩せてるし』――その言葉は、榛名には『あの時よりも痩せた』と言われているように聞こえた。実際、その通りなのだが。
「通勤は、何で来てるんですか?」
「!?」
これで終わりかと思ったら、いきなり予想もしていなかった質問をされた。榛名は少し拍子抜けしたが、素直に答えた。
「ち、地下鉄です」
「では今日は僕の車で家まで送りますね。仕事が終わったら裏玄関で前で待っててもらえますか?榛名さん」
「え!?」
「ここの透析室について色々話を伺いたいですし、良かったら晩御飯も一緒にどうかなって」
――なんで!?っていうか今は他の人もいるのに、そんな堂々と誘うなんて……!
「あら~榛名君ったら羨ましい!でもそうね、男同士の方が先生も話しやすいですよね~!榛名君は、患者さんのことも私よりよっぽど詳しいんですよぉ、霧咲先生」
「へえ、それは頼りになる主任さんですね」
「ええ、それはもう~!」
珍しく近藤が自分のことをベタ褒めしているのに、何故かちっとも嬉しくない。むしろ余計なことを言うな!と大声で叫びたくなった。
「榛名くん、霧咲先生は毎週木曜日に来てくださるから準備の方よろしくね。……じゃあ霧咲先生、そろそろ他の場所を案内しましょうか」
「はい、お願いします奥本先生。……では失礼します、榛名さん」
「……お疲れ様です」
そして奥本と近藤、霧咲はまたどこかへ移動した。きっと病院内を案内している途中だったのだろう。案内役、二人もいるか?と榛名は近藤に対して少し呆れた気持ちを持った。
「あのぉ主任、堀尾さんの今日のドライの指示は……?」
「あッ!!忘れてたっ!!他にも沢山貰わなきゃいけない指示が~!!」
有坂に言われて、奥本に指示を仰ぐのをすっかり忘れていた榛名は慌てて3人の後を追いかけた。
「榛名主任があんなに慌ててるとこ初めて見ましたぁ……」
「俺も……かな?」
慌てて出て行った榛名の姿を見て、有坂と堂島は珍しいものを見た、という顔をしていた。
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