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第8話 榛名主任②

(前半は透析についての説明なので興味のある人だけ読んでください)  榛名のいる腎透析室では、主に血液透析を行っている。  血液透析療法――いわゆる透析とは、さまざまな原因により腎臓の機能が低下もしくは不可逆的に機能停止した際に、腎臓の機能を人工的に代替する治療法である。  まず腎臓の働きだが、主に尿を作ることが一番で、他、体液のpH(ペーハー)を一定レベルに維持する、様々なホルモンを分泌して血圧の調節をする、赤血球を増加させる、ビタミンDを活性化してカルシウムの吸収を促すなど、そのはたらきは実に様々だ。  そのため腎臓の機能が低下すると、尿が作られずに尿毒症になったり、他関連症状として貧血になったり骨がもろくなったりするなど様々な症状が起きる。そこで腎臓代替法として行われるのが血液透析、または腹膜透析だ。  透析は『汚い血液と綺麗な血液を入れ替える治療』などと巷ではよく言われている。それも決して間違いではないのだが、正確には『入れ替え』をするのではない。尿が出なくなると、尿毒物質(クレアチニンなど)が体外に排除されず、血液中にたくさん含まれることになる。  透析ではシャントと呼ばれる動脈と静脈を繋いだ血管に二本の穿刺を行ったあと、針と回路をつなげてその血液をダイアライザーと呼ばれる透析装置に送る。ダイアライザーには透析液(電解質や糖質の濃度を調整した液)が流れており、血液を透析液にさらし、浸透圧による拡散現象を利用して、血中から老廃物や代謝産物などの不要な物質を取り除く。  ――それが透析という治療法だ。  そして患者は週に3回、一日に4~5時間の透析を行う。尿が全く出なくなると、摂った水分(食べ物に含まれる)はすべて体内に貯留される。汗や不感蒸泄などで多少は排泄されるが、わずかなものだ。透析では血液を綺麗にするほか、そんな身体に溜まった水分も一緒に体外へ排出する。なので、透析の前後には必ず体重測定を行い、DW(ドライウェイト)と言われる適正体重まで4~5時間かけて、身体に溜まった不要な水分を引いていくのだ。  そのため、患者は水分制限や塩分制限なども強いられる。絶対に食べたらいけないという食材はないものの、リンやカリウムの多い食材を積極的に摂らないようにする、などの工夫を日常生活の中でしなければならない。  よく『透析の時間を短縮できないのか』と患者は言うが、透析はいわば腎臓の代わりだ。今まで腎臓が24時間働いていたことを週に3回、4~5時間しか行わないのだから、時間は長いどころか短いといえる。なので今の医療技術では、短縮することは不可能なのだった。  そして透析室では、主に三つの職種が働いている。まず、医師と看護師。そして臨床工学技士と呼ばれる人たちだ。  彼らはME(メディカル・エンジニアの略)と呼ばれ、医療機器の専門職である。病棟で扱う人工呼吸器やオペ中に用いる人工心肺、そして透析室の血液透析装置(コンソール)の保守点検や操作を行っている。(コンソールの操作は看護師も行う)  透析室では患者の穿刺、回収、血圧管理も看護師同様に行うため、患者には看護師だと思われていることも多々あるのだった。 * 「おっ、榛名君じゃん。有坂っちに言われてわざわざ来てくれたの?」 「堂島君……横井さんの穿刺してくれてたの?」  榛名が有坂に泣きつかれた穿刺困難な横井氏のところに行くと、既にMEの堂島(どうじま)が穿刺を行っており、透析が開始されていた。 「だって榛名君今日リーダーじゃん、忙しいんだろ?こっちは気にしなくていいからリーダーの仕事してなよ」 「堂島君、ありがとう……!」 「お礼に今度デートしてよ」  榛名より一つ年下の堂島は、穿刺も上手だしMEの仕事も完璧にこなす。しかしちょっとチャラいというか軟派なところがあり、患者の前でもこういうふざけたことを言ってくるのが珠に瑕だった。今年の4月から主任になった榛名のことをいつまでも『榛名君』と呼ぶのも、仕事中はあまり好ましくない。  しかし、自ら『主任と呼んでくれ』と堂島に言えるほど榛名はエラくはない。何せ職種が違うから、彼に直接注意をするのは臨床工学技士長の仕事だ。彼が看護師だったならば、教育委員でもある榛名は容赦しないのだが。 「奢らせるにはちょっと恩着せがましすぎだね?」 「別に奢らせる気なんてないって!俺は純粋に榛名君とデートがしたいだけ」 「はいはい、じゃあ次は麻生さんの穿刺お願いしまーす」 「榛名君つれねーなー……ってまたフクザツ血管の大物だし!」 「みんな避けて行ってないから、ヨロシク」  堂島を軽くあしらいながら外来患者の穿刺状況を見て、病棟の患者を電話で呼び出そうとした。すると。 「あの、主任さん」  患者の横井氏に声をかけられた。榛名はすぐに横井氏の枕元で中腰になり、「どうしましたか?横井さん」と返事をした。横井氏は少し困ったような顔で笑うと榛名に言った。 「有坂さんをあんまり怒らないであげてね、僕が刺して良いって言ったんだから」 「え?」 「だって主任さんも堂島くんも休みだったら、僕の血管に刺せる人ってあんまりいないでしょ?他の人は最初から諦めて刺してくれないけど、有坂さんは一応来てくれるから……」 「………」  こんなふうに言ってくれる患者はそう多くない。『新人のための練習台になってもいいよ』と言ってくれているのだ。  榛名が新人の頃は、穿刺に失敗すると『もうアンタは刺しに来ないで!下手くそ!』などと怒鳴られたものだ。有坂はまだ榛名の知る限りでは、患者に怒鳴られたことはない。でもそれは普段からのコミュニケーションの賜物なのだろう、と榛名は有坂を少し羨ましく思った。 「……ありがとうございます、横井さん。じゃあ木曜日は有坂さんと一緒に刺しにきますね、僕が隣で指導しますから心配しないでください」 「うん、お願いします」  ついでに、榛名は横井氏の透析記録に目をやった。 「ところで横井さん。今日は体重の増えがかなり多いみたいですけど?」 「あ、日曜日に外食しちゃってね……ついついお酒をたくさん飲んじゃったんだ」 「今日は火曜日だから体重増加が激しいのは仕方無いですけど、今日体重1キロ以上残りますからね?横井さんは血圧もあんまり高くないんですから、除水速度も750以上は掛けれませんし……透析中気分が悪くなったらナースコールしてください。あと、次回は少し水分を控えてきてくださいね」 「はい、すみません気をつけます」  一応最後には笑ってみせたが、横井氏はすっかり萎縮してしまったようだ。  榛名だってあまり患者にうるさいことは言いたくないのだが、看護師に怒られるのが嫌だから、と言って節制してくる患者もいるので、患者のことを思うならば少しくらい厳しくしなければいけないのも看護師の仕事なのだ。  榛名は一部の患者の間で、自分が苦手だとされているのを知っている。しかしある患者に『そんな厳しいことを言ってくれる榛名さんだからこそ信頼できます』と言われたことがあるため、榛名は自信をもって自分はこのスタイルで突き進んでいこう、と心に決めているのだった。 「主任、次は誰の穿刺行ったらいいですかー?」 「えーと、……じゃあ次は迫田さんに。結構待ってるから」 「はーい」  透析室に来た患者の順番をチェックして、次に穿刺する患者を他のナースに依頼するのもリーダーの仕事のひとつだ。今日の穿刺終了も10時半を超えそうだな……と、榛名は時計を見てうっすらと思った。

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