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第7話 榛名主任

 あの日から、約一ヶ月が過ぎた。  榛名は霧咲が置いて行ったメモを財布の中に入れて、大事に持ち歩いていた。自分の携帯にその番号も、本名らしき名前も登録済みだった。  だが、連絡は一度もしなかった。正確にはできなかったのだけど。  毎晩、名前と番号とにらめっこしては溜め息をつき、そのまま画面を消す。そんな傍から見れば乙女チックとも言える行動を、榛名は最初の二週間は毎晩繰り返していた。残りの二週間はそんな自分を客観視して呆れて、乙女チックな行動を改めた。  どうせ教えてくれるなら、番号じゃなくてメアドだったらよかったのに……と榛名は思ったが、メールであっても自分は送っていたのかどうか定かではないが、電話よりも幾らかハードルは下がる気がする。  そもそも榛名は、自分がどうしたいのかがよく分からないのだった。また霧咲に会いたいのか、会いたくないのか。会ってそれからどうしたいのか。  ……また、抱かれたいのか。  そんなこと、言えるわけがない。挿れるよりも、挿れられる方が気に入ってしまいました、なんて。でもあの夜のことを思い出すと、何故か胃がきゅうっとなって食欲が無くなる。そして霧咲にされたことを思い出しながら、一人で自慰に励んだ。  自分はこの一か月で少し痩せたかもしれない、正確に測ったわけではないけれど。患者の体重は毎日毎日何十人、何十回と測るのに、自分の体重には無頓着な榛名だった。 * 「おはようございます、榛名主任!早いですね~」  部下の看護師、有坂(ありさか)が榛名を見て元気に挨拶をしてきた。有坂はここ、T病院の腎透析室では一番若手の看護師だ。 「おはよう。今日リーダーなのに全然事前に情報取ってなかったからさ」  榛名はパソコンに向かって患者の情報収集をしていた。主に、今日の透析前に採血やレントゲンを撮る患者の最終チェックだ。 「ああ~っ、今日も忙しいのかなぁ~っ!」 「うん、忙しいね。頑張ろうね」 「はあーいっ、ま、榛名主任がいるから大丈夫かぁ」 「なにそれ、ちゃんと頑張ってよ?若者」 「主任もあんまり歳変わらないじゃないですかーっ」  ――いや、4歳も違うだろ。 そう突っ込みたかったが、まあ若者の部類に入れられているなら素直に喜ぶか……と否定しなかった。もっとも否定せずとも、榛名は透析室では若い部類に入るのだが。  榛名が看護主任を務めているここの透析室は、病棟に比べると若干看護師の平均年齢が高い。病院によって違いはあるが、ここT病院では新卒の看護師は透析室に採用しないからだ。  その理由は、透析室の特殊な業務内容にある。  透析室の業務は、オペ室と同様に病棟の業務とは内容も流れも基本的に違う。新卒で透析室に配属されると、透析業務のことしか分からない――いわゆる潰しのきかない看護師になる可能性が高いため、病院側は新卒の看護師をわざわざ透析室に配属させたりはしないのだった。  本人が透析専属の看護師になりたいと思っているならいいのかもしれないが、基本的な看護業務――酸素投与、吸引、採血、心電図、その他オムツ交換や移乗など――およそ病棟で行う基本的な業務を事前に習得していないと、ただでさえ覚えることが多い透析室では苦労するのが目に見えている。  透析中の患者の血圧管理やそれに伴う経過観察、更に透析中の急変対応も決して少なくはないからだ。  もっとも透析室は朝までの夜勤業務がないため、(24時間体制の病院も存在する)今のうちにがっつり稼いでおきたい、と思っている若い看護師にはもともとあまり人気のない、いわゆる日陰の部署なのだが。  そんなわけで、透析室で働く看護師はまだ子供が小さい主婦や、定年後のパート看護師が多い。他にも病棟勤務が嫌になった――大抵は人間関係が原因である――部署移動希望者や、透析看護に魅力を感じて希望してきた者など、理由は皆様々である。  透析科は外来部門なので、基本的には患者がいる時しか仕事がない。(受け持ち患者の記録作成などの、細々した業務は存在するが)入院患者にも透析患者はいるが、彼らも透析を終えたら早々に病棟に帰っていく。記録作成も透析中に終わるので、延々と記録残業に追われることもない。つまり、定時で帰ることが当たり前なのである。そして、それが透析室で働く最大の魅力だと榛名は思っている。  榛名は、毎日目が回るほど忙しい病棟勤務が苦手だった。生活スタイルが私生活より仕事が優先的になるのも嫌だった。特に家で何をするわけでもないのだが、あまり人生を仕事に縛られたくない性質(たち)なのだ。  そんな榛名の思いとは裏腹に、看護主任などという役職をやらされているのだが……。  何故まだ20代の若造である榛名が役職に付いているのかというと、それにもまた理由があった。現在、T病院の透析室にいる看護師のうち、榛名と有坂、他数名は20代から30代だが、それ以外の看護師は皆40代から60代だ。当然、年齢的にも経験値的にも榛名より主任に向いている人材は何人も存在する。  しかし、彼女らはまだ子供が小さかったり、PTA活動が忙しい、持病があり病院に通ってるからなどと様々な理由をつけて、役職に付くのを軒並み断っていた。普通はそれでも他に人がいなければ年功序列で誰か適任者が引き受けるしかない、のだが。  しかし、ここT病院の透析室には榛名がいた。榛名は透析経験は5年以上あり、何より男性だった。  看護師という職業は、年々ナースマンも増えてきてはいるもののまだまだ圧倒的に女性が多い。しかし女性は結婚、妊娠、出産などがあり、それらがきっかけで辞めてしまう者が非常に多いのだ。そうでなくとも、看護師の離職・転職率は他の職業に比べると格段に高い。辞めてもすぐに就職できる、という都合のよさの裏返しがコレだ。これはどこの病院でも共通している悩みだろう。  そこで、まだまだ若いが透析の経験もあり、結婚しても産休などの休みを必要とすることもない(希望すれば別だが)特に辞める予定もないらしい榛名に白羽の矢が立った。前の主任が退職する前に、是非次の主任になって!と師長に言われた時は榛名もずいぶん抵抗した。  しかし『貴方なら絶対に大丈夫』、『もうすぐ30だし早すぎることはない』、『どうせそのうち役職をお願いするつもりだった、それなら早い方がいい』、などと繰り返ししつこく説得され、結局主任研修を受けさせられたのちそのまま引き受けることになってしまったのだ。  主任と言えば聞こえはいい。が、今までと給料はさほど変わらないのに責任ばかり重くなって、面倒な会議などにもしょっちゅう駆り出され、その上師長と部下の看護師の間で板挟みにもなる、非常に厄介な役職だった。  管理職である看護師長とも立場は違うし、師長の近藤(こんどう)は面倒な業務は榛名に振ってくることが多い。若輩者な手前文句も言えず、それでも仕事は淡々とこなすので榛名はいいようにこき使われていた。  そして師長がいないとき、透析室で起きた不祥事――いわゆるスタッフがやらかすインシデントやアクシデント――の責任を負うのは主任の榛名だ。(最終的には師長だが)だからどんな状況でも対応できるようになるため、榛名は師長に頼まれたことはすべて真面目にこなしていたのだった。他人のためではなく、自分のためである。  それに所詮、病院はやはり女性職場だ。ここで女性陣に嫌われるような発言や振る舞いをすればどういう悲惨な目に遭うのかは、榛名は看護学校時代に嫌というほど経験している。 「主任~!横井さんの穿刺(せんし)変わってくださいぃ!」  有坂が榛名に助けを求めてきた。榛名は軽くため息をついて有坂を睨む。 「有坂さん。どうして自分にはまだ難しい人にわざわざ穿刺にいくの?」 「だってこういうのって経験じゃないですか」 「向上心があるのはいいことだけど。自分の技術も見極めないと何回も刺される患者さんが可哀想だろ?急いでうまくなろうとしなくてもいいんだから……それにまだきみは新人なんだし、難しい人刺せなくても誰も責めないよ」 「……ハイ……」  しょぼんとしているその姿が少し可哀想になるが、もっと可哀想なのは患者だ。難しい患者というのは性格が気難しい患者を指しているのではなく(その場合もあるが)、複雑な血管を持つ患者のことを指している。  透析は16G(ゲージ)の針を二本、シャントと呼ばれる血管に刺さないと始まらない。透析で使用する針は点滴や採血用の針とは全く違い、輸血や献血で使用する針よりも大きくて、見た目でわかりやすく言えば、竹串だ。当然、最初のうち――透析導入したばかりの頃――は穿刺時、激しい痛みを伴う。血管が発達すれば、あるいは慣れれば痛みは少なくなるといわれているが、大きな針で刺されるのだから痛いものは痛いだろう。  まず穿刺ができなければ透析は行えない。シャント穿刺は透析を行う上でもっとも重要な医療行為なのである。(カテーテルを挿れて行う場合もあるが、大半は内シャントを使用する)  新人の透析看護師が苦労するのも、まずは穿刺なのだ。 「じゃあ横井さんの穿刺は俺がいくから、他の患者のところに行ってくれる?」 「はい、竹中さんに行ってきます」 「うん」  ――本当はリーダーは穿刺とかしてる暇、無いんだけどなぁ。  他の看護師やME(臨床工学技士)は当然他の患者の穿刺をしており、患者の横井氏は血管の方向が複雑で、穿刺ができる人間は透析室でも数人に限られていた。きっと有坂は失敗して他の看護師に代わりを頼んだものの、『主任に頼め』とでも言われたのだろう。  榛名は穿刺は得意な方だ。10割成功するわけではないが、8割方は成功する。  ベテランであろうと、透析室の看護師が全員穿刺が得意なわけではない。しかも患者の血管は、看護師によって相性もあった。だから穿刺が苦手な者は難しい血管の患者はそれとなく避け、得意な者が刺しにいくという暗黙の了解があるのだ。  思わずこぼれそうになった溜息を飲み込んで、榛名は聴診器と駆血帯を手に持ち、横井氏の待つベッドへと向かった。

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