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第21話 お昼休憩と間接キス
回診を半分ほど回り終ったあと、透析室の壁時計を見た霧咲が首を捻った。
「うーん」
「ど、どうしました?霧咲先生」
「……これ、今日中に終わらないね?」
(今頃気付いたのかよっ!!)
榛名は全力で突っ込みたいのを我慢し、呆れ顔で苦笑した。透析室のスタッフの昼休憩は他の部署に比べて早い。昼過ぎから患者の回収作業が始まるため、早番と遅番に分かれて休憩を取るのだが、早番は11時から、遅番は11時45分からだ。しかし今の時刻は遅番も休憩を上がる12時30分を過ぎて――12時40分だった。
既に患者も何人か回収作業が始まっている。早番のスタッフと交代して休憩に入りたいところだったが、いま榛名が休憩に入ったら他のスタッフは混乱を極めるだろう。それぞれ割り振られた仕事があるし、今日の榛名の仕事は霧咲の補助につくことなのだから。
「残りの患者さんの採血データとレントゲンは来週見ようか」
「そうして頂けると助かります……」
なんだかもうゲッソリして、正直に弱音を吐いた榛名であった。
*
やっと回診が終了し、榛名は休憩に入れた。『主任は回収に入れてないので休んできてください!』というスタッフの心遣いに甘えて、休憩時間は45分きっちり取ることにした。
職員食堂は14時に閉まるので、本当にギリギリだ。いつもは他の職員よりも一時間早く食堂にいるというのに、こんなことは初めてだった。なんだか疲れて食欲もないので、簡単にうどんを食べることにした。
「はぁ」
「隣、いいかな?」
「はい……うぇっ!?」
榛名の隣の椅子を引いたのは、ほかでもない霧咲だった。榛名は驚きすぎて、ガタッと派手に椅子を揺らして転びそうになった。
「うぇって人の顔を見てなかなか失礼だなきみは」
「す、すみません。その、びっくりしたもので……」
閉まるギリギリ時間の食堂には、榛名と霧咲以外の職員の姿はない。厨房には栄養科のスタッフがいるのだろうけど、二人が着いているテーブル席からは見えなかった。つまり、榛名はまた霧咲と二人になってしまった。
霧咲は日替わり定食を選んでいた。今日のメインメニューはチキン南蛮で、実物を見たら少し食べたくなった。もううどんを頼んでしまったので、別にいいのだが。
すると霧咲が話しかけてきた。
「――奥本先生は、あんまり指示変更しないみたいだね」
「霧咲先生は外科医なのに、内科みたいに色々指示出すんですね」
さっきまでもこうやって話していたのに、榛名はなんだか妙に落ち着かなくなった。気付かれないように霧咲の方を盗み見ると、豪快に大口でチキン南蛮を食べていた。数回咀嚼して、飲み込む。榛名は霧咲の男らしい喉仏の動きになんだか見入ってしまった。物を食べている霧咲の姿に、なんだか色気のようなものを感じて……。
「俺は外科医だけど、大学では内科も兼任しているんだよ」
「――そ、そうなんですね。どうりで……」
霧咲の声に弾かれたようにハッとして、榛名は慌ててうどんと向き合った。
「疲れたかい?ごめんね色々指示出して」
「い、いえ……その、疲れたのは疲れましたけど……その、恥ずかしかったといいますか。すみませんでした」
「え、なんで謝るの?」
霧咲は食べながらきょとん、とした顔を榛名に向けた。榛名も霧咲の方を見て、その表情をちょっと可愛いと思ってしまった。霧咲のほうが榛名よりも10も年上なのに。
「だって……それぞれの看護師に受け持ち患者はいるのに、ヘモグロビン値とかが高いのを奥本先生に報告せずにいたわけですから。奥本先生は患者が多くて忙しいので、そこは看護師の僕たちが気付いて自主的に先生に指示を仰げばよかったんです。だから今日は霧咲先生の手も煩わせてしまって……本当にすみませんでした」
霧咲が何も言わないので、ちらりとその顔を見たら霧咲は今度はぽかんとした顔で榛名を見つめていた。
「あ、あの、霧咲先生?」
「君って本当に真面目なんだね。報告してもらえるのはこっちとしては有難いけど、ぶっちゃけ看護師さんにそこまでは求めていないよ。データを見て指示を出すのは医者の仕事だし、君たちの仕事はその指示を実行することと患者の日常生活の手伝いをすることだろう?……まあ、奥本先生は一人で70人くらいを診てるわけだから、手が回らなかったんだろうけど。だからこそ俺が助っ人に来たわけだしね」
「……そう言って頂けると、少しほっとします」
榛名はそう言って、霧咲にニコッと笑った。素直に嬉しかったからだ。
「そんな可愛い顔で笑いかけないでくれるかい?キスしたくなるから」
「はぁっ!?」
(病院で何を言いだすんだよ!!)
霧咲はニヤリと笑って、チキン南蛮を箸に取った。
「じゃあ、そんな可愛い主任さんにお肉を一切れあげよう」
「あむっ……!?」
文句を言おうとして口を開けた榛名に、霧咲はチキン南蛮を一切れ突っ込んできた。吐き出すわけにもいかないので、榛名は素直にそれを食べた。
「俺が食べてるのを羨ましそうに見てたからね。美味しい?」
「っ、美味しいですけど、別に羨ましいと思ってたわけじゃ!」
「ふふ、間接キスだね」
「!!」
そう言って軽く箸を揺らした霧咲に、榛名は今度は真っ赤になった。榛名の初々しい反応を見て、霧咲はくつくつと笑った。
「本当にきみは可愛いなあ、間接キスよりすごいことした仲なのに、こんなことで真っ赤になるなんて」
「あの、お願いだから少し黙っててくれませんか?」
顔の赤みが引くまで顔が上げられない。こんな会話を他の職員に聞かれていたら、自分はもう死ぬしかないと榛名は強く思った。
「誰も聞いてないよ、厨房からもこんなに離れてるし」
「そもそも二人しかいないのに隣に座って食べてるのがおかしくないですか、普通は向き合って食べません!?」
「なんでわざわざテーブルを挟んで君と対話しなくちゃいけないの?」
「な、なんでって」
目力の強い霧咲にじろりと睨まれて、榛名はうっと怯んだ。なんで、と言われたら返す言葉がない。
(いや、でも普通はそうなんじゃないの?俺がおかしいのかな?)
でも確かに、正面に座られたらもっと緊張するかもしれない。となれば、やはり並んで座るのが正解だったのだろう。ぼうっとしていた榛名に、「うどんのびるよ」と霧咲が声をかけた。はっとして時計を見たらもう15分も経過していた。
早く食べないと厨房スタッフにも迷惑がかかる!と思った榛名は一気にうどんを食べた。
普通に話してたのに、霧咲はもう既に半分以上は平らげていた。
(は、早いな!?)
やはり外科医は忙しいから食事を食べるスピードも速いのだろうか……と榛名は考えたが、とりあえず今は自分のうどんを食べることに集中した。
食べ終わると、待っていてくれた霧咲と一緒に食堂を出た。休憩時間はまだあるので榛名は透析スタッフの休憩室で休もうと思ったのだが、霧咲もついてきた。
「……なんでついてくるんですか?」
「え、だって俺の勤務時間、14時半までだし」
「医局に戻ればいいじゃないですかっ」
「少しでも君と一緒に居たいんだよ」
「……っっ」
もう勝手にすれば、とでもいうように榛名は無言になった。そして霧咲は本当に休憩室までついてきたのだった。
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