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第38話 いい方向?②
「シャントの音が全然聴こえないんですぅっ!主任も確認してくださいーっ」
「ええ?」
嫌な予感は当たった。榛名は自分の聴診器を河原氏の左腕のシャント肢に当てて、シャント音の聴取を試みたが……たしかに何の音も聞こえなかった。通常であれば、シャントのある腕からは血液の流れる音がよく聴こえるのだ。
(※シャントは動脈と静脈を繋いであるため、普通の血管よりも太く、大量の血液が流れている)
「あの、何かやばいんですかね?」
河原氏は50歳の男性で、透析歴は1年と少しだ。透析記録を見ると、前回透析終了後はシャント音の聴取は出来ていたようだった。榛名は河原氏に質問した。
「河原さん、今朝は自分でシャントの音聴いてみました?」
「あ……いいえ……」
「聴く習慣は?」
「すいません、意識して聴いてないです」
まあ、しょうがない。最初の内は自分で聴診器を購入して毎日聴いている患者もいるが、慣れてきたらこんなものだ。河原氏のシャントは閉塞しているらしかった。
「河原さん、何らかの原因でシャントが詰まってるみたいです。痛みとかはないですか?今のままだと、今日は透析ができません」
「ええっ、ほんとですか?痛くはないですけど、それってどうしたら……!」
「詰まった血管を元通りにするオペをします。有坂さん、俺は奥本先生に連絡してくるから」
「あっ榛名主任!霧咲先生が来ましたよ!!」
「え?」
有坂に言われて後ろを振り返ると、ちょうど霧咲が回診をしに透析室に来たところだった。そういえばもう10時で、最近は連絡をせずとも来てくれるようになっていたのだ。榛名は霧咲と目が合い、ぺこりと会釈をした。
急に有坂に呼ばれたため、まだ回診の準備をしていなかった。霧咲が榛名の方に歩いてきて、にこやかに挨拶をした。
「おはよう、榛名さん」
「お、おはようございます。すいません霧咲先生、まだカルテの準備とかができてなくて」
「何かあったの?」
榛名の様子がいつもと違うことに霧咲は気付いたらしい。
「河原さんのシャントが閉塞したみたいなんです、俺これから奥本先生に電話しますから、回診はちょっと待って頂いてもよろしいですか?」
榛名はこの時内心とても慌てていたため、霧咲が回診のためだけに助っ人に来ているのだと思い込んでおり、彼が外科医だということを忘れていた。
「そうなの?じゃあ、すぐにPTAしようか」
「えっ?」
PTAとは、経皮的血管拡張術(又は経皮的シャント拡張術)のことだ。何らかの原因でシャントが閉塞又は狭窄した際に、先端にバルーン(風船)のついたカテーテルを問題の部分に挿入し、そこでバルーンを膨らませることによって血管を拡張する手術である。30分から60分ほどで終わる簡単な手術なのだが、T病院では今までシャントが閉塞したら奥本が患者に中心静脈カテーテル(CV)を挿入して、そこから透析を行い、後日に血管外科の藤野医師に紹介する……というなんとも面倒くさい方法を取っていたのだ。(患者もカテ挿入中は入院することになる)
「え……と、今からオペ、ですか?」
「榛名さん、俺は一応腎臓血管外科医ですよ?こういう時こそ活用してやってください」
あっけにとられた顔をしている榛名を見て、霧咲はクスクス笑っている。
(そうだ……そういえばこの人、外科医だったんだ……!!)
榛名は暫し感動していたが、すぐに行動した。
「で、ではお願いします、すぐに奥本先生に連絡して、オペ室にも伝えますね!近藤師長、今から河原さんPTAのオペです。それと有坂さん、準備ができるまで霧咲先生の回診補助よろしく。大丈夫、今日は採血した週じゃないから」
「えっ、えええ!?が、がんばりますぅ!」
――とまあこんな具合で、霧咲はなかなかT病院の透析室に様々な恩恵をもたらしていた。しかし、プライベートというか、榛名には恋人として複雑なことがあった。それは……。
「榛名主任ー!」
月に一度の主任会議へ向かう途中、外科病棟の主任看護師・山本に後ろから声を掛けられた。山本はなかなかの美人だが36歳独身、夜な夜な合コンに繰り出しているという派手な看護師で、榛名は彼女が少々苦手だった。
自意識過剰かもしれないが、なんとなく独身で歳の近い自分も彼女のストライクゾーンに引っかかっているというか、会うたびにアピールされているような気がしていたからだ。
――以前は。
「どうも、お疲れ様です」
「お疲れ様です!今から会議ですよね?会議室まで一緒に行きましょう!」
「はい」
一緒に行きたくはないが、目的地が同じだから仕方がない。榛名はふう、と深呼吸するようにため息をついた。彼女が何故自分と一緒に行こうと言ったのか、その明確な理由が今なら分かるからだ。
「あの、透析室に助っ人に来てらっしゃる霧咲先生、独身だって本当ですか?」
(そら、きた……)
「え……さあ、そういう話はしたことがないので分かりませんが」
「ええ?透析の近藤師長に、榛名主任が一番霧咲先生と仲良しだから聞いてみろって言われたんですけど。なぁんだ、知らないんですね」
「お力になれず、すみません」
榛名は心にもないことを言い、わざと苦笑してみせた。山本は以前透析室に入院患者を送って来た際に、回診をしている霧咲を見て一目惚れしたらしい。霧咲は医局と透析室と食堂くらいしか行かないので、その存在を知っている者は院内では意外と少ないのだ。(PTAをするようになったのでオペ室の看護師は知っているが)
けど、やはりどこからか『超イケメンの医師が透析室に助っ人に来ている』と病院中で噂になり、大した用事もないのに透析室に来る看護師や医療事務職員が増えたのである。これが現在榛名が抱える最大のストレスだった。
「じゃあ今度聞いててくれません?あと、できれば合コンなんかもしたいなって思ってて……榛名主任も独身ですよね?なんとか霧咲先生を誘ってこれませんか?うちの病棟の若い子何人か連れて行きますから!よければ独身のMEさんも誘って頂いて」
「うちのMEは簡単に誘えますけど、さすがにK大の先生を気軽に合コンには誘えませんよ」
失礼すぎるだろ、馬鹿じゃないのか?と思ったけどさすがに口には出さなかった。
「ええ、どうしてです?独身だったらいいじゃないですか、なんとか誘うだけ誘ってみてくれませんか?ダメ元でいいので、お願いします!」
「はぁ……ダメ元でいいなら、いいですよ……」
「やった!お願いしますね!」
「過度な期待はしないでくださいね?」
ちょうど会議室に着き、山本主任はもう合コンが成功したような浮かれた足取りで、先に会議室へと入って行った。本当に腹立たしい。何故自分の恋人を狙う合コンに、恋人である自分が誘わないといけないのか……。
榛名は会議室に入る前に、小さく舌打ちをした。
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