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第61話 霧咲の可愛い恋人について
榛名が電話に出ない。メールも返ってこない。霧咲はスマホの画面を見つめて首を傾げた。今日は日勤だと聞いていたので、18時にはもう家に着いているはずだ。
しかも今日は、T病院から預かっていた患者の迎えに榛名が来たらしい。看護師の朝井がそう言っていた。
――朝井は、スタッフの中でも結構な曲者だった。
『今日来られたT病院の榛名っていうすっごく若い主任さん、霧咲先生の助っ人が今年いっぱいだってこと知らなかったみたいですよ』
少し榛名を小馬鹿にしたような口調とどこか勝ち誇ったような態度、そして自分も聞いたことのないその内容に、霧咲は耳を疑った。
『え、どこから聞いた話?それ……』
『え?前に霧咲先生が自分で言ってたじゃないですか』
霧咲はわざとらしくため息を吐いた。
『俺はそんな話をした覚えはないよ。いつまで助っ人をするかは、とりあえず年が明けてから考えるって言ったんだ。まさか君、今年いっぱいだって榛名さんに言ったの?』
『ハイ』
朝井は仕事中でも霧咲に色目を使ってくる厄介な看護師だった。自分の他に霧咲に憧れている女性を見つけたら影でチクチクといじめている、と看護師長に聞いたことがある。
看護師の人間関係に医者の自分が口を出すことはないけれど、まさか榛名にも同じようなことをしたのではないだろうか、と不安になった。なので、一応確かめてはみる。
『まさかと思うけど、他にも不確かな発言はしていないよね?』
『いいえ?向こうだって笑ってましたし……』
朝井はしどろもどろに答える。あやしい……。この上なく、あやしい。
『君、さっき榛名さんのことをすごく若い主任だって言ってたけど、榛名さんはああ見えて28だよ。まあ、若手なほうだけど……T病院の透析スタッフには彼より年上の看護師もいるけど、彼は技術もあって責任感も強いから選ばれたんだと思うよ』
『……』
『あまり軽率な発言をして、俺に恥をかかせないでくれないかな。それと俺はT病院の助っ人を楽しんでやっているからね』
『すみません……でした』
いつもなら、こんなにキツイことを看護師には言わない。けれど、朝井のこの態度だと十中八九、榛名に嫌味を言っているに違いなかった。自分の可愛い恋人を陰でいじめるなど、相手が誰であろうと絶対に許さない。
*
そんな日勤帯の出来事を思い出して、霧咲は深いため息を吐いた。榛名は朝井の嫌味などさらりと流しているかもしれないが、嫌な思いをさせたとは思うので一応K大透析室の責任者として代わりに謝りたかったのだ。けど、一時間ごとに鳴らしている着信に榛名は一度も出てくれない。メールの返事も返ってこない。
スタッフの誰かと飲みに行っているのだろうか?いや、今日は火曜日だし、榛名の性格から自分以外の人間と平日に酒を飲もうとはしないだろう。無理に誘われなければ、だが。
なにしろ榛名は自分では意識してなさそうだが、本当に押しに弱いのだ。きっと相手が霧咲じゃなくても、押されれば付いていくだろう。
(まさか、堂島とじゃないだろうな……)
MEの堂島は、霧咲の歓迎会以来榛名にちょっかいを出さなくなったようだ。けれど、回診の時には相変わらず榛名への視線を感じる。この間『自分はホモじゃない』と威勢よく啖呵を切っていたものの、榛名のことはどうしても気になるらしい。
榛名は霧咲と付き合い始めてから、元々持っていた男を惹き付けるような色気を普段から駄々漏れさせるようになった。ストレートの男でもドキッとするような危うい色気だ。
堂島は元々コッチの気があったのかもしれない。本人は無自覚だが、そんな榛名の色気に見事に当てられてしまっているのだから少し可哀想ではある。
歓迎会の時、トイレに立った榛名のあとをこっそり付いていく堂島を見て、有坂から、
『霧咲先生、堂島君は前から榛名主任のことが好きみたいなんですぅ。行かせてもいいんですかぁ?』
と全て悟ったようなことを言われ、他のスタッフ(女性陣)からも同じような目付きで見られた。
(もうバレてるのか……)
霧咲は苦笑して席を立ち、付いていったら案の定、榛名はトイレの個室で堂島に襲われかかっていた。見つけたときは本気で再起不能にしてやろうかと思ったが、榛名のために必死で我慢した。 きっと職場に関係がバレでもしたら、繊細な榛名はきっと仕事を辞めてしまうだろうから。(既にバレているのだが)
でも、榛名は絶対に堂島には靡かないだろう。彼の発した数々の言葉は確実に榛名を傷付けていた。自分以外の男に泣かされるというのはなんとも悔しいものがあるが、それで榛名が堂島を嫌ってくれるなら多少の嫉妬は仕方ないと思った。しかし、後日。
『ちゃんと謝ってきたから許しました』
と、いとも簡単に堂島を許してしまった自分の恋人は、本当に危機感が足りないと思う。
嫉妬もさることながら、嫌な想いを全て忘れさせようと思ってわざわざあのあとトイレで激しく抱いたというのに……。
自分のものに痕を付けられたのも腹が立つ。もっとも榛名は、堂島に吸われて赤くなった部分は、犬に噛まれた……いや、蚊に刺されたレベルで気にしていなかったが。
むしろ、霧咲が上から重ねてキスしようとしたら『霧咲が堂島と間接キスしてしまう』とキス自体を嫌がられた。言われた時は一瞬理解ができなかったのだが、とにかく可愛いが過ぎたのでいい思い出だ。
霧咲が嫉妬したのは、堂島ではなくて二宮の方だった。二宮はいつも寡黙に仕事をこなしていてスタッフからの信頼も厚く、それには勿論榛名も含まれている。霧咲もダイアライザーを変更する際に彼と話をしたこともあったが、印象は良かった。
榛名と同じ九州の出身で、同じ酒を好む。二宮と話している時の榛名は少しほろ酔いで、ふにゃっと笑う顔が可愛くて(いつも可愛いが)、そんな顔をさせている二宮に嫉妬した。霧咲が見たところ二宮はストレートだが、それでも安心はできない。
榛名は無自覚に色気を振り撒いてるだけでなく、自身が男なのに、男に『こういう女を嫁にしたい』と思わせる大和撫子のような性格なのだ。
可愛いくて、真面目で、控えめ。そして夜は床上手ときたら……たとえノンケの男でも、子供を望みさえしなければ絶対に女よりもこっちがいいと思うのではないか、と霧咲は真面目に考えている。もちろん、多少盲目になっている自覚はあるが。
けれど、修正するつもりはない。少しでも油断して、大事な恋人が誰かに横から奪われでもしたら……
(……考えすぎか。もう、10年も経つのに)
とにかく、二宮は要注意人物だ。杞憂かもしれないが、安心はできない。できるならば、榛名の方が好きになってしまうことも視野に入れて完全に囲ってしまいたいと思った。
自分のことしか見ないように……自分の言葉しか聞かないように……しかし、そんなことが現実にできるはずもない。それに霧咲は今、連絡のつかない恋人に会いに行くこともできない状況にあるのだから。
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