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第60話 それでも…
榛名は自宅に入ると、真っ先に寝室に行ってベッドにうつぶせに倒れこんだ。部屋着にも着替えていないし、シャワーも浴びていないし、夕食も食べてしない。
全てのことが億劫で、何もしたくなかった。それでも起きている限りは思考してしまう。身体はこんなに疲れているのに、食欲も眠気もちっとも襲ってこない。
(……結婚していた……)
『愛してるよ、暁哉』
(なのに男の俺と、こんな関係を……)
『君を、愛してる』
思い出せるのは、秘めやかに愛を囁いてくれる優しい声ばかりだ。初めてまともに好きになった人に慈しむように愛されて、世の中にはこんな幸せが存在するのだと知った。霧咲が榛名によく言い聞かせるそのせりふは、聞くたびに榛名の心の奥にしゅんと染み込んでいって、だんだんと榛名の一部になっていった。
男同士という不安定な関係に、いつまで一緒に居られるのかわからなくて不安を感じることもあった。けれど、その度に霧咲のこの言葉に救われていた。疑ったことなんて一度としてなかった。なぜなら霧咲は、榛名のことは遊びなんかじゃない、と最初にきっぱりと宣言していたのだから。だから榛名も安心し、完全に霧咲に身を委ねることができた。
(そもそも、安心して好きになるってのがおかしいか……)
出会った日の夜に、霧咲が既婚者だと分かっていたら。そしたら自分たちの間には何の関係もできなかったのかもしれない。偶然に出逢った客と客。その後にまた偶然に再会する、医者と看護師。恋なんて、生まれなかったはずだ。
でも、その後に事実を知っていたら?たとえば、ラーメン屋で一緒に晩御飯を食べたとき。この部屋で二度目のセックスをしたとき。
あの時はまだ、霧咲を好きな気持ちに気付いていなかった。この人を好きになんかならない、と必死に抗っていた。身体の方はとっくに陥落していたのだけど。
三度目のセックスの時は?あの時に既婚者だと知っていたら、霧咲を嫌いになれていた?
「………」
多分無理だ。結局、どの瞬間も霧咲を好きになっていた。
今更嫌いになるなんて無理な話で。
(だって、俺も一目惚れだったんだから。初めて会った時から、もう好きだったんだから……)
『君は俺の、運命の人なんだよ』
うんめいのひと。
榛名はそんなものは信じてない、と言った。
けど霧咲に出会って、恋をして、
(ひょっとしたら、運命なのかも……)
と思った。
なのに、なのに。
「運命の人なんか、いない……!」
やっぱりそんなものは、どこにも存在しなかった。
霧咲に会ったのは運命なんかじゃなくて、ただの偶然だったのだ。
もう、好きになる前には戻れない。榛名は、いつの間にか自分が大粒の涙を流していることにようやく気がついた。
「……っ霧咲、さん……!」
好き。
好き。
大好きだ。
既婚者だって分かっても。こどもがいるって分かっても。この気持ちは理屈じゃない。頭ではダメだと理解していても、彼を諦めきれない。
「うっ……!うああぁぁぁ――!!」
運命なんかじゃない。
運命の人なんかじゃない、けど。それでも好きだ。
いきなり嫌いになんか、なれない。
愛してるんだ。
泥沼にはまってしまっても、あの手を離したくない。
「っ!?」
部屋のすみに放置していたバッグの中からいきなりスマホのバイブ音がして、榛名はビクッと身体を震わせた。ゆっくりとベッドから降りて、その震源地を探る。白く光るその画面には『霧咲誠人』と表示されていた。
(……こんな状態で、出れるわけない……)
榛名は涙で濡れた目で画面をぼうっと見つめたまま、その震動が収まるのをじっと待っていた。霧咲からの着信に出ないなんて初めてだ。そもそも、出たところで何を話せばいい?
きっと霧咲は、あの看護師に今日榛名がK大に来たのを聞いたのだろう。何気ない話題から入って、クリスマスの過ごし方でも聞いてくるのだろう。
(娘がいるのに、俺なんかといちゃダメでしょ……)
クリスマスイブに夜勤を入れておいてよかった。誘われたとしても、断る口実ができる。
(いや、それとも……)
誘われないかもしれない。霧咲は家族を最優先して、榛名とは過ごせないというお知らせかもしれない。そもそもまだ誘われてもいないのだ。誘われるかも、というのはただの自惚れだった。
ほどなくして着信が止まり、数秒後にメールがきた。榛名はそれをすぐに読んだ。
『シャワー中かな?今日はせっかく来てくれたのに会えなくてごめん。俺も凄く残念だったよ。メールに気付いたら電話をくれると嬉しいな』
「………」
今の時刻はまだ20時だ。いくらなんでも、もう寝ているというのはおかしい。電話に出なかったことはなんて言い訳をしよう。そもそも、何を話せばいいのだろう……。
とりあえず、起きたついでにシャワーくらいは浴びようと思い、榛名はのっそりと立ち上がった。
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