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第59話 恋人の定義

 外来の看護師に松田氏を任せたあと――このまま病棟に入院になる手筈だ――榛名は透析室へと戻った。そんな榛名を有坂が一番に見つけて声をかけた。 「榛名主任、お帰りなさーい!お疲れ様でしたぁ!」 「ただいま……」 「K大はどうでした?霧咲先生には会えましたか!?」 (霧咲さんが……) 「あー……オペ中だったみたいでね、会えなかった」 「そっかぁ、せっかく行ったのに残念でしたねぇ~」 「そうでもないよ」 (結婚していた……)  まだ勤務中だというのに、仕事に頭が切り替えられない。こんなに長い時間動揺しているのは自分史上初めてじゃないか、と榛名は思う。 「……主任、どうしました?少し顔色が悪いですよ」  有坂がずいっと榛名の顔を覗き込んで言った。いきなり視界の中に有坂の顔が現れて、榛名は驚いて一歩後ずさった。 「え!?いや、大丈夫だよ」 「慣れない業務で疲れたんでしょう、奥で休んでてください!患者さんもう全員帰ってますし、あとは明日の準備だけですから。師長には私が伝えておきます!」 「そんな……悪いよ」 「いいんですって!ほら、休んできてくださいー!」  ぐいぐいと有坂に背中を押されて、無理矢理休憩室の中に入れられた。定時まではあと30分だ。確かに透析室にいても特にすることはないし、榛名は有坂の言葉に甘えて休ませてもらうことにした。休憩室のソファーベンチにゆっくりとした動作で座り込むと、何故か有坂も榛名の隣に座った。 「……ありがとね、有坂さん」 「あのぅ、向こうのナースに何かイジワルなこと言われたんですか?霧咲先生に助っ人にきてもらってることで……」 「えっ?」  どうしてそんなにピンポイントで当てることができるのだろう。核心ではないものの、女性のこういうところは本当にすごいと思う。 「まあ、そんなとこかな……よく分かったね」 「やっぱり!でも主任がそんなことでしょげるなんて珍しいですね。よっぽどきつく言われたんですか?霧咲先生は私たちのものなんだから返して!みたいな……」 「そんな、小学生じゃないんだから」  霧咲が結婚しているというワードが強烈すぎて、正直あの看護師の意地悪な態度はもはやどうでもよかった。霧咲の助っ人が今年いっぱいだということも。  一瞬、世間話の延長で有坂に言ってしまおうかと思ったが、霧咲が秘密にしている以上、既婚者だということを職場でばらすわけにはいかない。あの看護師は、うちでも広めてほしいと言っていたけど。 (秘密にしていた……) 「でも絶対大人げないこと言われたんでしょう!?言い返したらよかったのに!助っ人の件は上の人達が決めたことで、主任に悪いところなんかないじゃないですか!」 「そんな、お世話になってるところなのに無理だよ」 (恋人の、俺にまで……)  こいびと。  恋人の定義って、何だ? 『君は、俺の恋人だよ』  そう、何度も霧咲から言われた。だから榛名は恋人になってから霧咲の気持ちを疑ったことなど一度もなかった。でも霧咲が既婚者ならば、自分は『浮気』だ。  それに恋人なんかじゃなくて……立場は『愛人』だ。  不倫。愛人。泥沼。ワイドショーなどで連日取り上げられているワードだが、自分には心底関係ないと思っていた。既に結婚している相手と恋愛すること……つまり先の見えない関係に何の意味も感じないし、いけないことだと分かっていながらそれを続けるのは馬鹿げたことだと思っていたからだ。  男同士の恋愛だって周りから祝福されないのは同じだが、やはり不倫とは違う。  全然、違う。 「やっぱり気分が悪そうですぅ主任、もうすぐ仕事終わりですし、それまで寝ててください。主任って地下鉄通勤ですよね?誰か車で来てるスタッフに家まで送ってもらいましょう」  そう言って、有坂は榛名の返事も待たずに休憩室を出て行った。 (……俺って、愛人だったんだ……)  もう何も考えたくなくて、榛名はゴロンとソファーベンチの上に横になった。 (そうだったんだ……だから今まで、自宅に呼んでもらえなかったんだ……)  ここが職場だからなのか、それともまだ理解が追いついていないからなのか、不思議と涙は出てこなかった。 * 「榛名主任、大丈夫ですか?」  有坂が言っていた車で来ていて榛名をマンションまで送ってくれるというスタッフは、二宮に決まったらしい。17時を回ったあと、二宮はわざわざ休憩室まで迎えにきてくれた。 「すみません、二宮さん。家、逆方向でしょう?」 「別に用とかないんで、俺は全然構わないです」  さらりと二宮は言う。別になんてことありません、という態度が有難かった。 「すみません、別に病気じゃないし、地下鉄で帰れるんですけど……」 「本当に顔色が悪いので、無理しない方がいいですよ」 (そんなに目に見えるほど、顔色が悪いのか……俺) 「……ありがとうございます」  憔悴しきった声で、榛名は礼を言った。二宮の車はスバルのインプレッサで、カラーは意外に派手な青だった。榛名は助手席に乗り込むと、正直な感想を言う。 「二宮さん、車好きなんですか?かっこいい車ですね」 「ありがとうございます。クルマは見るのも乗るのも好きなんです……そういえば霧咲先生はポルシェに乗ってますよね」  ドキッとした。今、霧咲の名前は心臓に悪い。でも二宮に悟られるわけにはいかないので、榛名は普通に返した。 「ええ。なんでもブラックバードに憧れてるとかって……意味はわかりませんけど」 「それってもしかして、嶋先生のことですかね?」 「シマセンセイ?」  そんな名前の医者が、T病院にいただろうか?いや、いない。どこか有名大学の先生なのだろうか。キョトンとした榛名に、二宮が説明してくれた。 「漫画のキャラクターですよ。嶋先生っていう外科医が黒のポルシェに乗ってて、夜の首都高をガンガン飛ばしてブラックバードって呼ばれてるんです。主人公のライバル的な……いや、仲間かな?そんな存在です」 「そうなんですか……」  そういえば、調べようと思っていたのをすっかり忘れていた。 「霧咲先生って漫画好きなんですかね?少し親近感が湧きますね。俺も好きなんで」 「へえ……」  今度ネットカフェに行ったらその漫画を読んでみようかな、と思った。でも、今更そんな霧咲が恋しくなるような行為はしない方がいいだろうか……と榛名は迷う。 「良かったら貸しましょうか?全巻持ってるんで。すっげぇ長いから、今度主任の家まで持っていきますよ」 「ホントですか?有難うございます」  二宮と話している間は、少しだけ霧咲のことを忘れることができた。マンションの下まで送ってもらい、コーヒーでも飲んでもらおうとしたのだが。 「じゃあ榛名主任、また明日」 「――はい、ありがとうございました」  何故か他の男を部屋に上げるのは――たとえ相手が何の下心もない二宮だとしても――霧咲への罪悪感があって出来なかった。罪悪感など、榛名が感じる必要などないのに。

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