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第58話 霧咲の秘密

しかし。 「霧咲先生、今オペ中なんですよ。さっき入ったばかりなのであと一時間は出て来ないと思います。でも榛名さん?が来たことは伝えておきますね」 「そうなんですか……、いやっ、別に伝えるほどのことでもないんですけど!」 あからさまにガッカリした顔をしそうになったが、なんとか抑えた。抑えられたかどうかは定かではないが。するとナースは、急に霧咲の話題を振ってきた。 「うちの霧咲先生、T病院ではどうですか?嫌われたりしてません?」 (うちの……) その言い方に少し眉が動いたが、霧咲はK大の所属なので当たり前と言えば当たり前だ。ただ、彼女が自分のモノのように言ったのが榛名は少し気にくわなかった。 「……まさか、とても歓迎していますよ。うち、外科医不足なので。すぐにPTAもしてくださるし、松田さんみたいにシャント造設オペも承ってくれるし……うちは本当に助かってます。嫌われるだなんて、ありえないですよ」 「そうですか。結構厳しい先生だから、そちらのナースに嫌われてないかなーって心配してたんです」 「厳しいですか?僕らにはすごく優しいですけど……やっぱり他の病院だからでしょうか」 「ま、そうでしょうねー」 多分他意はないのだろうが、榛名は少しムッとした。勿論、顔には出さないが。彼女の言葉尻には敵意があるように思えた。気のせいかもしれないが……。 「あ、榛名さんて主任なんですか」 「え?」 いきなり言われて、ドキッとした。 「名札に、透析室主任って書いてあります」 榛名は、T病院での顔写真付きの名札をしたままだった。ここも病院なので、特に外す必要もないのだが。 「あ、そうです」 「ずいぶん若い主任さんなんですねぇ、それなら人材不足も頷けます」 「へっ?」 彼女はウンウンと頷きながら、榛名を同情したような眼差しで見ながら続けた。 「だって人がいないからわざわざうちに医者の助っ人を頼んでるんですよね?それに普通送迎って外来のナースがするじゃないですか。透析のナースがするなんてありえないです」 その通りだったので、榛名は反論するようなことは何も言えなかった。 「あー……そうなんです、今日は外来が忙しくって、透析の患者さんだから透析のスタッフが送迎してくれって頼まれまして……」 「ふうん、よくオーケーしますね」 「はは……」 それにしても、彼女の言い方はいちいち尖ってるような気がする。そしてその棘を、うまく隠しているというか。榛名のような若造が役職についているのもよっぽど人がいないと思われたらしかった。 実はそうでもないのだが、こちらの病院事情を詳しく説明するつもりはなかった。 「ま、人がいないのはどこも同じか……その上うちは霧咲先生が水曜と木曜は毎週そちらに行かれるでしょう?本当に忙しいんですよ」 「……すみません、霧咲先生をお借りしちゃってて」 霧咲の助っ人は榛名が頼んだわけではないので謝る理由など何一つないのだが、よその病院のスタッフと喧嘩する気はないのでつい反射的に謝ってしまった。 「いいえー、困ったときはお互い様ってやつですし?それにうちにはほかにも外科医は沢山いますから。……まあ、一番腕がいいのは霧咲先生ですけど」 「そうなんですね」 榛名はもう気付いていた。目の前の彼女は、きっと霧咲のことが好きなのだ。だから会えない時間を増やしているT病院のスタッフである榛名に強く当たってくる。遠回しな嫌味ったらしい言い方で。 「それに、そちらに助っ人に行くのも今年いっぱいだって聞いてますし?来年からは悪いですけど、霧咲先生完全にうちに返してくださいね」 「えっ……?」 それは、初耳だった。近藤からも奥本からも、もちろん霧咲からも聞いていない。 単なる助っ人なのだから、いつまでも居るわけはないのは分かっていたが……そんなに急な話だとは思っていなかった。 「聞いてないんですか?やだも~、知らなかったからって霧咲先生をしつこく引き留めないでくださいよ?」 「え、ええ……」 だからそういう返事しか、今の榛名にはできなかった。 「あの、そろそろ松田さん準備ができたかもしれないので、僕はこれで……」 「あ、ちょっと待ってください!男のあなただから聞きますけど、やっぱり霧咲先生T病院でもモテてますか?」 「は?」 なんだ、その俗な質問は。彼女が霧咲へ抱いているだろうと思われる気持ちが急に確信に変わる。榛名はしどろもどろになりながらも答えた。 「ま、まあそれなりですかね……他の病棟のナースから声かけられたりしてますよ。あんなイケメンな先生うちには他にいませんから。……んと、霧咲先生はやっぱりK大でもモテモテなんですか?」 榛名もそれとなく質問してみた。別に本気で聞きたいわけでもないのだが、なんとなく、話の流れとしてだ。 「勿論人気ですけど、やっぱり結婚されてますしねー、それでも不倫狙いって人はちらほらいます」 「えっ?」 榛名は思わず聞き返した。自分の聞き間違いかと思って、彼女の目ををじっと見つめ返す。 (結婚、してる……?) 「あれ?もしかして聞いてないですか?……まあ、霧咲先生指輪してませんしねぇ。オペが多いからいちいち外すのが面倒なのかなって思ってますけど。――結婚してますよ、霧咲先生。よかったらそちらの病院でも広めてあげてください、合コンの誘いとか断るのいちいち面倒くさそうなんで」 「そ……そう、なんですか……」 念を押されるように言われて、自分の聞き間違いではないということは理解した。けれど、その言葉の意味は全く理解できない。 「あのぉ、ちょっとびっくりしすぎじゃないですか?」 「えっ!?……いやその、衝撃的だったもので……!」 「そっちじゃそんなに独身ぶってるんですか?霧咲先生ってば!やだぁもぉ~」 もはや口が脳を無視して、勝手に喋っているようだった。榛名は、さっきの彼女の言葉がまだ処理できない。 (結婚してる?霧咲さんが?誰と?) とりあえず今榛名が理解しているのは、霧咲と結婚している相手は自分ではない、ということだけだった。 榛名がその事実に衝撃を受けていると知ってか知らずか、彼女は続けた。まるで楽しい話題かのように。 「奥さんっぽい人が透析室に会いに来てたこともありますよ、確か小学生くらいの娘さんと一緒に」 「ムスメさん!?」 (娘?娘って……こども?……こどもまでいたの!?) 「すっごい可愛かったですよー、霧咲先生にソックリで。でもそっかあ、そっちでは独身のフリしてるんですねー。奥さんとうまくいってないのかな?ふふ、良い情報聞かせてもらいました。後妻の座でも狙っちゃおうかなー、私は初婚ですけど、霧咲先生なら全然アリですよね」 「はは……」 (何がアリなんだか全然分からない……) それからも彼女は何か話していたが、全て榛名の中を通り抜けていって何を話したのか覚えていない。 でも最後まで彼女は笑顔だったので、きっと自分も普通に返事を返していたのだろう。 榛名が松田氏の部屋へ戻ると退院の準備ができていたので、部屋持ちの看護師から申し送りを受けると、榛名はぼうっとしたまま松田氏とともにT病院へと帰った。

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