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第57話 榛名、K大へ行く

 霧咲の歓迎会から約一か月後。師走に入り世間は忙しそうにしているが、病院――特に透析室は特に何の変化もない。患者の数はそう変わらないし、年末年始に休みがあるわけでもないのでいつもと変わらない日常だ。しかし。 「え、俺が松田さんのお迎えに……ですか?」  今日も特に何も起こらない穏やかな一日だと思っていた榛名の目の前には、両手を顔の前で合わせた祈るようなポーズの近藤師長がいた。 「ごめんねぇ榛名くん~!外来の師長に頼まれちゃって。今日の外来、ナースが一人お休みしたから手が足りないんですって。本当は私が行ければいいんだけど、今日は15時から師長会議があるから……私の代わりにK大まで行ってくれない?」  それは、本来ならば外来の看護師の仕事だった。近藤は外来の師長にK大病院からT病院へと移る患者の付き添いを、透析室の看護師の誰かに代わりに行ってもらえないだろうか、とお願いされたらしい。 「外来が人少ないなら仕方ないですよね。それに松田さんは透析の患者だから顔見知りですし、いいですよ」 「ほんと?良かった~!じゃあ、14時半に車出るからお願いね!何かやっとく仕事はあるかしら?」 「少しだけ。有坂さんに頼んどきます」 「じゃ、よろしくね!」 「はい」 今までも外来にお願いされて患者の送迎をすることは何度かあったが、いつも近藤が行っていたので榛名が行くのは今回が初めてだ。本当は行きたくないが、快諾した理由は二つある。 行き先がK大であることと、今日は火曜日で……明日は霧咲が回診に来る日だ。忙しくて毎日は会えない恋人の顔を、一日早く見れるかもしれない、と思ったからだった。 もっともK大はかなり広いうえ、松田氏を透析室に迎えに行くわけでもないので(入院中なので病棟にいるだろう)霧咲に会える確率はとても低いのだが。それでも同じ敷地内に霧咲がいると思うだけで、なんだかワクワクするのだった。 「榛名主任、昼から松田さんのお迎え行くんですかぁ?」 「うん、ちょっと出かけてくる。悪いけど後の仕事よろしくね、有坂さん」 「任せてください~!今日はサブリーダーですから!霧咲先生に会えるといいですね!」 「あー……うん、そうだね」 有坂はナチュラルにそういうことを言ってくるので少し困る。まさか自分たちの関係に気付いているとは思えないが、かなり仲良しだとは思っているだろう。それは事実なのだが……。 とにかく、そんな風に言われるのはやはり恥ずかしかった。 患者の松田氏は、少し前にグラフト感染(シャント感染)を起こして入院せねばならない状態になったのだが、回転の速いT病院にはその時空いているベッドがなかった。それでもう他院に送るしかないとなったときに、霧咲が『よかったらK大に入院してもらって、そのまま私がオペしましょうか』と言ってくれたのだ。 そんなわけで松田氏は急きょK大に入院、今度は右腕にシャント造設オペとなった。 そして数日間はカテーテルを挿入してK大で透析を受けていたのだが、T病院の病棟にベッドに空きができたため、戻ってくることになった。今回はその迎えの付き添いに、榛名が行くことになったのだ。 送迎をしてくれるのはT病院の車輌課の職員だ。病院勤めとはいえ医療の知識はないので、患者送迎の付き添いには必ず看護師が同行する決まりになっている。 「じゃあ、よろしくお願いしますね」 「いえいえ、こちらこそー」 榛名は初老の男性運転手に挨拶をして白のワゴン車に乗り込み、シートベルトを締めた。 普通の乗用車とは違い、ストレッチャーや車椅子も乗れる介護用の車だ。なので榛名は助手席ではなく、後ろのスペースにある付添者用の椅子へと座った。そしてK大に着くまで、運転手と数回会話を交わしたが、あとは流れる景色をぼんやりと眺めていた。 (霧咲さん……いや、霧咲先生か。今頃何してるのかな……) 街が電飾やら何やらで色とりどりに飾られているのを見て、榛名はもうすぐクリスマスイブだということを思い出した。確か、イブの日は堂島と冨永と三人で夜勤だった。 恋人や家族と過ごしたいという職員が多かったので、榛名は自分から『夜勤します』と申し出た。 ちなみに堂島は飲み会のあとの日勤で、きちんと榛名に誠心誠意謝ってきた。なので、とりあえず今は二人の間には表面的なわだかまりは見えない。 堂島が何を考えているのかいまいち榛名は分かっていないが、あれから霧咲とのことは何も言ってこないので放っておいている。 * 榛名はK大自体に来るのは初めてではないのだが、研修の際に使われる講堂は病院とは違う建物なので、病院の内部に入るのは初めてだった。規模はT病院の5倍はあるだろうか。 霧咲が毎日ここで働いていて――しかもこんな大勢の人間が勤めている中での准教授という立場で――久しぶりにそのことを突き付けられるような現実に、榛名は少しクラリとした。 透析室は5階で、松田氏が入院している病棟も5階らしい。もしかすると本当に霧咲に会えるかもしれないと思い榛名はワクワクした。本来の目的は霧咲に会うことではないのだが。 病棟の看護師に挨拶をして松田氏の部屋へ案内してもらったが、部屋はもぬけの空だった。 「あ……あれ?」 「あら!松田さんたらお迎えの時間間違えたのかしら。お散歩に行ってるのかも……すみません、探してくるので待っててください」 病棟の看護師は、榛名と運転手を置いてど慌ててこかへ行ってしまった。しかし、これはチャンスだと思った。 「あの、僕少し透析室を見学してきてもいいですか?すぐ戻ってくるので……」 「ああ、いいですよ。じゃあ自分はここで松田さんを待っていますね」 運転手に一言断って、榛名はK大の透析室へと向かった。 突然来た榛名を見て、霧咲はどんな顔をするだろう。喜ぶ?それとも、驚く?その両方かもしれない。榛名はワクワクしながら透析室に行き、近くの看護師に声をかけた。 「あの、すみません。T病院の榛名と申しますが、霧咲先生はいらっしゃいますか?」 「えっ?」 その看護師は、榛名よりも年下だろうか。眉毛が綺麗なカーブをしており、ばっちり化粧をしている。少しキツイ顔をしているが、間違いなく美人だった。榛名が今までに付き合ったことのない、都会的な感じだ。 「あ、その、松田さんのお迎えに来たんですけど。せっかくK大に来たので、挨拶していこうかなって」 「……ああ!霧咲先生が毎週助っ人に行ってる透析室の方ですか?」 「そうです、いつもお世話になってます」 話が通じて、榛名はホッとした。

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