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第63話 霧咲亜衣乃②
亜衣乃はなかなか寝ずに霧咲に質問を続けていた。
「ねえまこおじさん、ママは亜衣乃のことが嫌いなのかな?」
「そんなことはない。蓉子は仕事が忙しいだけだよ」
今夜蓉子は、新しくできた男とデートだと言っていた。それで今日は霧咲のマンションの前で待ち伏せしており、帰宅したばかりの霧咲に無理矢理亜衣乃を押し付けたのだ。
榛名に会いに行きたかったが、まだ小学生の亜衣乃を置いて出掛けるわけにはいかなかった。電話に出てくれない榛名の安否も非常に気になるのだが、彼は大人であるし、回診の日以外会わないのは別に珍しいことではない。
……榛名に亜衣乃のことを話す勇気が、霧咲にはまだないのだ。
「ママ、何のお仕事してるの?どうしてまこおじさんみたいに昼間に働かないの?」
「おじさんだってときどき夜勤に行くだろう。大人がみんな昼間働いてるわけじゃないんだよ。昼間に寝て、夜に働く人というのは意外に多いんだ。亜衣乃には健康のためには昼間働く大人になって欲しいけどね。夜に働きたいのなら、おじさんみたいに病院で働く人になりなさい。看護師さんなんていいかもね」
霧咲は透析室でてきぱきと働く恋人の顔を思い浮かべて、思わず笑顔になっていた。すると亜衣乃は、思いつめたような顔でポツリと言った。
「亜衣乃、薬剤師さんになりたい」
「それは結構なことだ。もう将来を考えてるなんて偉いな」
褒めて頭を撫でているのに、亜衣乃はまったく嬉しそうな顔をしない。希望に満ち溢れた将来の夢を語っているはずなのに、どうしてこんな顔をするのだろうか。
「ママ、たまに頭痛がひどくて……どんなお薬飲んでも治らないみたい。だから亜衣乃が薬剤師さんになって、ママの頭痛によく効くお薬を作ってあげるの」
「………」
優しい子だ。霧咲は黙って、再び亜衣乃の頭を優しく撫でた。
「ねえまこおじさん、お薬ってどうやって作るの?」
「それは亜衣乃が薬学部に行って一生懸命勉強して、逆におじさんに教えてほしいな。もちろんいい薬ができたら、おじさんに提供してくれよ?」
「分かった!」
ようやく年相応な笑顔が見れた。この笑顔を見ても、蓉子の頭痛はよくならないのだろうか。それとも見ていないのかもしれない。
「じゃあそろそろ寝なさい。明日も学校だろ?授業中に眠くなるよ」
「うん。……でも、亜衣乃が寝るまでここにいて?」
「分かってるよ。ほら、手をつないでてあげるから安心して寝なさい」
霧咲は布団の中に手を入れて、小さな手を軽く握った。
「おやすみなさい、まこおじさん」
「おやすみ、亜衣乃」
(この子は、こんなにも母親のことを想っているのに……)
亜衣乃の母親であるはずの蓉子は、娘への愛情も母親の自覚もとうにないのだろう。否、そんなもの最初から無かったか。
暫くすると小さな寝息が聞こえてきた。亜衣乃は霧咲が手を握っていたらあっさりと眠ってしまったようだ。霧咲はその手をそっと離し、再びリビングに戻った。騒がしいバラエティ番組はいつの間にか終わっており、テレビでは今日一日のニュースが流れていた。
*
霧咲と蓉子の両親は、もう鬼籍に入っている。元々霧咲が遅くに産まれた子というのもあるのだが、二人とも既に70歳を超える高齢で5年前に心疾患系の病気で立て続けにあっさりと亡くなってしまったのだ。
年のせいもあるが二人とも古い考えの持ち主だったので、霧咲は自分の性癖については一生黙っていようと思っていた。大学まで行かせてくれた両親には感謝しているが、孫を抱かせてやることはできないのだし、男が好きだなんて性癖は絶対に理解してくれないだろう。
けれど、隠し通そうとしていたその秘密は蓉子の離婚騒動であっさりとバレてしまった。そして思った通り両親は理解してくれず、霧咲は勘当された。
『誠人、お前は実の妹をなんだと思っているんだ!!お前なんかもう息子でもなんでもない、赤の他人だ!!』
『妹の夫と密通するだなんて、まともな人間がすることじゃないわ!同性が好きだなんてやっぱり普通じゃないのね!二度と私たちの前に姿を現さないでちょうだい!!』
蓉子は、亜衣乃の世話は殆ど両親にやらせていたらしい。二人は亜衣乃を大事に育ててくれていたそうだが、やはり高齢の両親に赤ん坊の世話はきつかったのだろう。霧咲が与えた心労も加えて、寿命よりも早死にさせてしまったのだと思っている。
亜衣乃が5歳になるまで……両親が死ぬまで、霧咲は亜衣乃に会うことはおろか、世話を手伝うこともさせてもらえなかった。
親不孝な息子で申し訳なかったと思う。蓉子の別れた夫は亜衣乃の養育費は一円も払っていないと蓉子に聞いたため、霧咲は毎月実家に仕送りをしていた。しかし、両親の死後にその金には一切手を付けられていなかったことが分かった。
そして財産分与の際、その金は蓉子が『亜衣乃を育てるために必要だから』とそっくりそのまま持って行った。養育費として送った金なのだし、亜衣乃のために使うなら特に文句はない。しかし実際に蓉子がどこまで亜衣乃のために使っているのかは分からない。
蓉子は一応働いてはいるが金遣いが荒く、金が無くなればわざわざ亜衣乃を連れてK大までやって来て霧咲に金の無心をしてくるような女だ。亜衣乃に身体的な虐待はしていないし、最低限の食事や服、靴などは与えているようだが……。
『兄さんが亜衣乃のためにお金を出すのは当然でしょ?亜衣乃は兄さんたちがあたしを騙して産ませた子なんだから。父親も同然よ!』
このままネチネチと亜衣乃の出生について責め立てられ、一生蓉子に金をせびられるくらいならばいっそ霧咲が亜衣乃を引き取って養子にしようかと思ったこともある。しかし、真剣にその話をすると蓉子は逃げる。亜衣乃が手元からいなくなれば霧咲から金が貰えなくなると分かっているからだろう。
それに、当の亜衣乃は母親と離れたいとは思ってないようなので、無理矢理引き離すわけにもいかない。亜衣乃が蓉子と離れたいと言ったら別だが……しかし今は霧咲も、あっさりと亜衣乃を受け入れてあげられる環境ではなくなっていた。
10年振りに、恋人ができたのだ。その相手は榛名暁哉という男で、今度こそ……一生死ぬまで彼と一緒に居たいと思うほど、真剣な恋だった。
榛名の言葉を借りるならば、彼は運命の人。奇跡のような、運命の出会いだった。
榛名に蓉子と亜衣乃のことを話さなければいけないといつも思っている。自宅に呼んであげられないのも、いつ蓉子が亜衣乃を連れて来るか分からないからだ。
榛名が亜衣乃の存在を知ったらどう思うだろう。亜衣乃が生まれた経緯を知ったら、繊細な榛名はどう感じるだろう。霧咲が亜衣乃を引き取ったとしても、この先榛名と変わらない関係のままでいられるだろうか?
それに、もしも蓉子が霧咲の知らないところで榛名に接触し、脅して金を揺すろうとしたら?そして亜衣乃が年頃になった時に、自分たちの関係をどう説明すればいい?
子供の前ではただの友人として接してればいいのだが、同じ家に住むようになればバレるのは時間の問題であり、教育に悪いことは確実だ。
それでもきっと、榛名は全て受け入れてくれるような気がする。榛名のことを信じて、全部話してしまいたい。
……けれど、心のどこかで未だに榛名を――他人を信じきれていない自分が存在する。何故なら霧咲は当時、あの男のことも同じように信じきっていたからだ。
でも、裏切られた。あんなひどい形で……。
亜衣乃の父親は、霧咲が大学生のときから28まで付き合っていた男だった。
「暁哉……」
霧咲は鳴らないスマホをじっと見つめて、ぽつりと恋人の名を呟いた。
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