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第64話 欲しいものは

 榛名は、日が変わってから霧咲に一通のメールを送った。 『夜分遅くにすみません。体調不良で電話に出れませんでした。明日の仕事もお休みしようと思います。症状は嘔吐と下痢で、ノロにかかったのかもしれません。感染の危険性があるので、お見舞い等は絶対に来ないでくださいね』  もちろん、内容は嘘だ。明日は霧咲の回診があるので仕事も休もうと思っている。何も知らないふりをして……平気な顔をして霧咲に会うのは、まだ無理だからだ。  もう1時だったので、さすがに返信はこないと思っていたのだが。 「!!」  来たのは返信ではなくて、着信だった。今しがたメールを送ったばかりなので、出ないと確実に変に思われる。心臓の音がやけに大きく聞こえた。 (大丈夫、深呼吸しろ……)  枯れるほど泣いた榛名が、考えて考えて出した結論は、霧咲を諦めることではなかった。  ――たとえ霧咲が既婚者であっても、この関係を続けていく。他人よりも自分の欲を最優先する、と。たとえ霧咲の家族に『夫を返して』、『お父さんを返して』と泣かれても。霧咲に完全に捨てられるまでは、決して自分からは別れない、と決めたのだ。  霧咲に捨てられて、その先に何があるのかは分からない。絶望しかないのかもしれない。不倫が許されないことは分かっている。自分が100人中100人に馬鹿にされるであろう、愚かな選択をしていることも。  結局、自分は弱いのだ。大人しく身を引いて霧咲の家族の幸せを願うことなんて、絶対にできない。  まるで底の見えない泥沼にゆっくりと浸かっていく感覚だ。いや、もう身体の半分ほどは浸かっているのかもしれない。そしてこれから頭の天辺まで浸かるのだ。  自らが留まらない限り、誰も引き揚げてはくれない泥沼に。 (まるで、ゆっくり自殺するみたいだな……)  けれど、榛名はもう知ってしまったから。誰かを本気で愛するという気持ちを。世間が許さないと言ったって、世の中には変えられない、捨てられない想いがあることを。 (俺は、本物の馬鹿だ……)  しかし、そんなものはただの綺麗ごとで言い訳にすぎない。今諦めなければ、この先もっと辛い想いをするであろうことは既に目に見えている。それでも許される限り、霧咲と一緒に居たいのだ。霧咲がどれだけ最低な男なのだとしても、好きな気持ちは自分の方が上なのだから仕方ない。そう、仕方ないのだと自分に言い聞かす。 「……もしもし」  重たい指先で画面をタップして、榛名は電話に出た。 『もしもし、暁哉?メール見たよ。体調が悪いって大丈夫かい?』  霧咲の声に、思わず声が詰まった。いつものように優しく榛名を心配してくれる声に、思わず止まった涙が溢れそうになる。 (泣いたらダメだ!) 「あ……っその、今日、外来行く機会が多かったから、ウイルス貰ったのかもです」 『本当に辛そうだね。ちゃんと水分は摂ってるの?あまりにも辛かったら救急車を呼ぶんだよ、いいね?』  榛名の少し震えた声を聞いて、霧咲は本当に体調が悪いのだと勘違いしてくれたらしい。 『俺が今からそっちに行けたらいいんだけど』 「………」  今まで霧咲がこういう風に言ってきたとき、榛名はその理由を深く考えなかった。お酒を飲んだのかもしれない。ただ、それだけ。  でも今は違う。家族と一緒にいるからだろう、と思う。きっと寝室のベッドには奥さんが寝ていて、霧咲に似た可愛い娘も夢の中なんだろう。…絵に描いたような幸せな家族。  ――そこに、自分という存在がいなければ。 『……暁哉?どうしたの。また気持ち悪くなった?』 「大丈夫、です」 『うん……君の大丈夫はあんまり信用できないけど。そういえば今日、うちの病院に来たんだろ?会えなくてごめんね。朝井くんに失礼なことを言われなかったかい?』  朝井とは榛名の対応をした看護師だろうか。失礼なことというか嫌味を言われまくったのだが、それを霧咲に告げ口する気はない。知りたくなかったことまで教えてもらったが。 「……まあ、少しだけ」 『そう、やっぱりね。怒っておいたよ』 「おこ!?」 『当たり前だろ。俺の可愛い恋人に意地悪していいのは、俺だけなんだからね』 「………」  霧咲のその言葉に、榛名の目からは静かに涙がこぼれた。自分を恋人と言ってくれるのが、こんなに嬉しいなんて。でも、この嬉しさは前とは違う。霧咲は何も変わってないのに、一体何が違うのだろう。 『それと俺が今年いっぱいで助っ人をやめるとかいう話も、彼女の勘違いだからね。具体的な期間の話はまた、年が明けたらそっちの院長先生と奥本先生と相談する予定だから……それに決まったら、君に一番最初に報告するよ』 「本当ですか?」 『うん。……あんまり嬉しそうじゃないね?』 「そ、そんなことないですよ、嬉しいです」  慌てて否定する榛名に、霧咲がクスクスと笑う。榛名はその甘い声を聴きながら、嗚咽が漏れてしまわないように必死で耐えた。声を出さない代わりに、涙はぽたぽたと雄弁に流れ落ちて、榛名のパジャマのズボンに染みを作っていく。 『ところで……今週末はクリスマスだけど、君の勤務はどうなってる?』  ――来た。恐れていた、クリスマスの話題。恋人同士にとって欠かせないイベントだが、不倫をしている人達はどうやってこの日を過ごしているのだろうか。特に、『待っている側』は。そんなこと、今まで考えたこともなかった。  昨日の午前中までは、まさかこんなことで悩むなんて思ってもいなかったのに。この日の夜勤を嫌がるスタッフの若い女性陣にイヴを譲って、(『本当にいいんですか!?』と激しく心配されたが)自分はあとで霧咲と二人だけで一日遅れのクリスマスを楽しもうと思っていたのだ。  榛名にとってイベント――クリスマスなど、本当はどうでもいい。ただ霧咲と一緒に過ごす口実で、それ以上でも以下でもない。  けれどそれは、自分が霧咲の恋人だという自信があったからそう思えていたのだ。『この日は絶対』だなんて、そんなことを思ったことは一度もなかったのに。改めて、自分が心底女々しいと榛名は思った。 「……イヴの日は、夜勤です」 『そっか……じゃあ、会えないね』 (会えなくて、ホッとしてる?) 『俺もちょうど金曜日から関西へ出張なんだ。だから今週の木曜はその準備で回診も行けないんだけど……じゃあ、そうだな。26日の日曜日に二人でクリスマスをしようか?』 「えっ……出張、ですか?」  それは意外な返答だった。平日で、その上回診にも来ないのなら嘘ではないのだろう。 (じゃあ、家族と過ごすクリスマスは?)  かなり気になるが、それを直接聞く勇気はない。それに25日の土曜日に帰ってきて、その日は家族と過ごすのかもしれない。きっとそうだろう、と思った。 『こんなことを聞いたら身も蓋もないかもだけど、何か欲しいものはあるかい?』 「え?」 (俺が、欲しいもの?) 『プレゼント候補を色々考えたんだけど、なかなか決まらなくてね。でもどうせなら君に喜んでもらいたいし、君はどちらかというとサプライズよりも自分の欲しい物のほうが喜ぶかな、と思ったんだ。何か今欲しいものとかあったら言ってみて。……ちなみに俺が欲しいのは君だから、君以外は何も用意しなくていいよ』  電話の向こうで、霧咲が気障ったらしくウインクをした気がした。

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