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第72話 父の病気のこと

宮崎空港に着くなり、榛名はタクシーを捕まえて急いでM病院に駆け込んだ。受付で父親の入院した病棟を聞いて、更にその階のナースステーションで病室を聞いて、個室に飛び込んだところ――……。 「…………」 「「「…………」」」 倒れたと聞いた父は頭に包帯は巻いているものの、ケロっとした顔でベッドに座り、ケーキを食べていた。傍には母と姉も座って、同じくケーキを食べている。最初に反応したのは、姉の(さくら)だった。 「あーくん!?帰ってきたとぉ!?」 榛名の顔を見るなり、榛名が今ここにいるのが信じられないとでもいうような表情だ。父も同じく吃驚した顔をしており、母は少し気まずそうな顔をしていた。 「帰ってこいって言われたから無理矢理仕事抜けて帰ってきたっちゃけど……お母さんが、お父さんが死ぬかもって勢いで電話してきたかいさ……つーかマジでどういうこと?何で呑気にケーキ食っちょっと?何があったか詳しく説明してくれん?」 「お母さんってば、あーくんに何も説明しとらんとやー!?」 詳しいことが分かったら電話をしてくれ、と東京での電話で母に言った。なのに今の今まで母からの着信は一度もなかった。飛行機から降りたあとも。 「だって言ったら暁哉、羽田で引き返すやろうと思って……」 「はぁ?」 「もぉぉ、あーくんは仕事しちょっとよ!?低血糖くらいで呼び戻すとか迷惑すぎるが!」 「は?……低血糖?」 「あ」 「お父さん、いつから糖尿病やったと?ていうかそれならケーキとかちょっと、もう勘弁して……」 * 姉から聞いた話はこうだった。 父は数年前――榛名が家を出てから数年後に糖尿病を患い、現在は悪化してインスリン注射までしていた。そして会社で昼食を食べる前にインスリンの自己注射をしたのだが、突然緊急会議に呼び出されて昼食を食べ損ねた。インスリンを打った後に食事を食べなかったのだから当然低血糖になり、父は会議室でぶっ倒れて頭を打って怪我をして病院に運ばれた……ということだった。 頭を怪我すると血が出やすい。それで周りの人間もパニックになり、過剰な言い方で母に電話をしたのだろう。頭なので大したことがないというわけでもないが、とりあえず命に別状はない。すぐには来れずとも、休日にゆっくり見舞いに来たらいいぐらいのレベルだった。 現に、父は今はピンピンとしている。頭に巻かれた包帯だけは痛々しいが……。 「それで……俺に糖尿病のこと黙ってたのはなんで?一応専門やっちゃけど」 「あーくんに怒られるのが嫌やったとよね、お父さん」 「………」 姉の言葉に、父はバツが悪そうな顔でそっぽを向いた。子どもか。 「なんそれ……もう、ほんといい加減にして……」 しかし、年に一度は帰省しているというのに全然気付かなかった自分にも多少の問題はあるのかもしれない。大したことがなくて良かったという安心感と、怒られたくなかったという父に呆れて、榛名は肩を落として脱力した。 「だって暁哉、全然帰ってこんから!お母さん、アンタの顔が見たかったとよ!」 「いや、それは俺もごめんやけどさ」 母が見たかったのは榛名よりも嫁の顔と孫の顔だろう、残念ながら見え見えである。母は続けてここぞとばかりに言った。 「暁哉、いつになったらこっちに帰ってくると?長男のくせに結婚もせずにいつまでも都会でフラフラしちょったらダメやって何回も言ってんのにアンタは!お母さんが電話で言っても全然言うこと聞かんから、呼び戻して直接説教しようと思っちょったとよ!!」 「とりあえずその話は家でいい?ここ病院やし迷惑やろ。ところでなんでお父さんは入院まですることになっちょっと?」 榛名の質問に答えたのは、やはり姉だ。 「打ったのが頭やから、とりあえず精密検査しましょうってお医者さん言っちょったよ」 「まじか」 でもこの際、きちんと調べてもらってた方がいいかと思った。硬膜下血腫などは後に症状が出てくるので怖い。もし父がこの歳で半身麻痺などになったら、自分も東京から戻って来ざるを得ないだろう。 しかし頭もだが、糖尿病に関する検査結果も知りたい。クレアチニンとBUN(尿素窒素)は今どれくらいの数値なのだろう。既に高かったら透析生活は免れないというのに呑気すぎる。 「あーくんも来たことやし、私は一旦帰ろっかな!あーくんいつまでこっちおると?まさかとんぼ帰りはせんとやろ?晩御飯、旦那も連れてきて久しぶりに実家で食べよっかな。お母さんいーい?」 姉の言葉に頷く母。それを聞いて少し羨ましそうな顔をしている父。榛名は少し苦笑しながらも、この場に姉がいて良かったと思った。 猪突猛進的な母と無口な父、そして疲れて若干苛つき気味の榛名の三人だけだったら、なかなか会話もこう順調には行かなかったことだろう。姉は昔から、榛名家の潤滑剤のような存在なのだ。ちなみに歳は三つ離れている。 「もちろん今日は帰らんけどさ……そんな元気ないし。そういや高志さんは元気やと?全然会っちょらん気がするけど」 「だってあーくんが帰ってくるのいつもオフシーズンなんやもん。平日なんて普通に仕事してるわ。それにあーくん、高志には標準語でしゃべるから緊張するって言っちょったよ」 「だってお義兄さんにタメ語使ったらいかんやろ、そしたら自然に東京弁になっとよ」 「ほんとに器用やねぇ、あーくんは」 姉は朗らかに笑って、先に帰った。 * 榛名は一度病室を出ると、師長の携帯に電話をした。透析室にかけようと思ったが、もう17時はとっくに過ぎているため誰も残っていないだろう。 『もしもし、榛名くん?お父さんの具合は大丈夫だったの~?』 「ええ、心配かけてすみませんでした。頭を強く打ってるということで……まあ意識ははっきりしてるんですが……」 まさか、たかが低血糖で呼び出されて仕事を早引けして実家に帰ったなんて言えなかった。 『頭は怖いからしっかり検査してもらうようにね。それと休みのことなんだけど、今日が木曜日でしょ?そのまま日曜日まで連休取っていいからね』 「え!?いやでも……」 『榛名くん、特別休暇をまだ消化してなかったみたいなのよ~、今年中に使わないと消えちゃうから勿体ないじゃない?だから昨日休んだ分もそれから引いておくわね』 「あ、ありがとうございます。日勤の人数は大丈夫ですか?」 『まあなんとかなるわ。それに榛名君にはお正月フルで日勤入ってもらう予定だし、今の内に実家でゆっくりと過ごしてちょうだい』 「ありがとうございます……では、お言葉に甘えますね」 少し遠慮は残るが、近藤が大丈夫というなら大丈夫なのだろう。それに今は実家にいた方が、何かと気が紛れるのかもしれない。 『あんまり帰省してないみたいだし、たまには親孝行してらっしゃいな』 「……はい」 少し胸がズキッとした。榛名には今、親孝行という言葉が何を意味するのか、何をしてあげればいいのか分からない。母が望んでいる、結婚して子供を作るということの他に……。 「はあ」 通話を切って、声に出してため息を吐いた。

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