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第111話 母と娘
「……そんなわけないでしょ。金のためだけに子どもなんかと暮らすかっての、面倒くさい」
蓉子は落ちてきた長い前髪をばさりとかきあげて、面倒くさそうにため息を吐きながら言った。その答えに榛名は「それじゃあ、」と思わず顔を明るくしそうになった、が。
榛名が嬉しそうな表情をしったのを見て、蓉子はまたククッと笑った。それで榛名は「あれ?」と思い、そのまま怪訝な顔をした。
「あたしが亜衣乃を傍に置いていた理由はね……そんなの、中原への恨みを忘れないようにするためよ!!それ以外に無いわ!!」
「……っ!」
「バッカじゃないの!?お腹痛めて産んだ子だから愛情があるとでも思った?あっははは!!ほんっとに頭がおめでたい男ね!んーなわけないでしょ、男が憎けりゃその子供も憎いに決まってんじゃない!あの男があたしの前から姿を消したから、しょうがなく亜衣乃を引き取ったのよ!!亜衣乃を見れば頭痛がするほど思い出す、この憎しみを忘れないためにね!!」
「そんな……っ」
榛名の口からこぼれたのは、自分でも驚くくらい、悲しい声だった。蓉子は少し遠い目をして続ける。
「人間ってさぁ、時間が経つと感情の記憶を忘れちゃうのよねぇー……、何があったのかは覚えてるけど、その時嬉しかった気持ちとか悲しかった気持ちは綺麗に忘れちゃうのよ。あの男を愛していたこともあるけど、そんな気持ちとっくの昔に忘れたわ。今やもうあたしの中にはあの男への恨みと憎しみしか残ってない」
「………」
「でもあたしは、それを忘れようとは思わないの!一生あの男を恨んで、恨んで、憎み続けてやる!!もちろん兄さんだってあの男と同罪よ!知らなかったからって関係ないふりしてるけど、あたしに払ってる金は全てあたしへの慰謝料なのよね、亜衣乃の養育費なんかじゃなくて!」
「!」
「兄として、それともあの男のかつての恋人として何か責任でも果たそうとしてるつもり!?言っとくけど、あたしは一生あいつも兄さんも許すつもりなんかないわよ!!」
「蓉子……」
霧咲は何かを言おうとしたが、その言葉は続かない。だから榛名には真実が分からない。
案外、霧咲の本当の気持ちは蓉子の言った通りなのかもしれない。自分の元恋人がやらかした、妹への慰謝料。
しかしもうとっくに別れているのだし、霧咲が直接蓉子に何かをしたわけではないのに、慰謝料を払い続けているなんておかしい、と榛名は思う。そんなこと、絶対に認めるわけにはいかない。たとえ霧咲が、今でも蓉子に引け目を感じているとしても。
「幸せになろうとは思わないんですか?確か今、恋人がいるんでしょう!?その人と結婚して、新しい家庭を……」
「うるさい!!分かったような口を聞くな!!何が新しい家庭よ、あんなひどい目に遭って再婚なんて考えるわけないでしょ!!あたしにはもう、こういう人生しか残されてないのよ!!そういうのがお似合いだって、あんただって思ってんでしょ!?このオカマ野郎!!」
蓉子は立ち上がって、榛名に掴みかかってきそうな勢いで叫ぶ。榛名もつられるように立ち上がり、蓉子に何かを一生懸命伝えようとするが、全てムダなことだった。
「そんなこと!」
もはや、おかまと呼ばれることはどうでもよかった。
「うるさいうるさいうるさい!!これ以上何かふざけたことを言うなら、もう二度と口が聞けないようにしてやるっ!!」
蓉子が、ソファに置いてあったハンドバッグを掴み、榛名の方へ投げつけようと腕を大きく振りかぶった。
有名ブランドのロゴマークと、留め具がキラリと光ったのが妙に鮮明だった。
「暁哉、危ない!」
「ママ!!やめてっ!!」
バシィと大きな音がしたその瞬間、榛名は霧咲の腕の中にいた。そして、その腕の中からかすかに見えた景色には亜衣乃の後ろ姿があった。
「あいのちゃ……亜衣乃ちゃんっ!!」
榛名は霧咲の腕を押しのけると、顔面で蓉子のブランドバッグを受け止めた亜衣乃に慌てて駆け寄り、その顔を見た。
目は瞑っていたようで眼球に傷は付いていないが、至近距離で思い切り留め具が当たったせいか、ぱっくりと額が切れて血が流れて始めていた。
「あ……あ……誠人さん、ガーゼ!!ガーゼ取って!!それと消毒!!て、ていうか診てください!!」
血液など日常的に、それもおびただしい量を目にしている。けれど身近な存在……しかも女の子の顔に傷が付くことなんて日常でよくあることではない。榛名は近年でも無いような事態に大いに慌てた。
「落ち着け暁哉、ガーゼなんてないからティッシュだ。亜衣乃、見せなさい」
霧咲も姪の怪我に心中は焦っていたのだが、榛名の慌てぶりに逆に冷静になっていた。
「うー……」
亜衣乃は傷が痛むのか少しうなりながら、それでも素直に霧咲に向き合う。
「パックリ割れてるな……でも、縫わなくても閉じそうだ。亜衣乃、痛むか?まあでも子どもだし、大人になるまで傷は残らないだろう」
「ほ、本当ですか!?」
榛名はおろおろした様子で霧咲に聞いた。
「君は幼い頃に転んでできた傷がまだ残ってるか?ちょっと止血しててくれ」
霧咲に至極冷静にそう言われて、榛名はようやく落ち着いた。霧咲は止血を榛名に変わらせると、家庭用の薬箱をどこかから持ってきててきぱきと亜衣乃の処置を始めた。
「まこおじさん、染みるよぉ!」
「我慢しなさい、女の子だろ。男より女の方が痛みには強いんだぞ」
「なにそれぇ……初めて聞いたんだけど」
榛名は納得したが、亜衣乃は納得いかないようだ。
痛みにだって何にだって、女性の方が強い。そして、気になったことを突っ込んだ。
「誠人さん、男の一人暮らしでよくそんな家庭用の薬箱とか持ってますね」
「薬品会社の試供品で貰ったんだよ」
「なるほど……」
3人がそんなやりとりをしている後ろでは、蓉子が呆然とした顔でそれを見つめながらソファにうなだれていた。
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